夏の宵│03

 ドーン、ドーン。あれほどうるさかった球場内が静まりかえり、観客も、選手も、皆が同じ方向を向いて、夜空を彩る花火に見入っている。
 花火はライトスタンド後方から打ち上げられるため、櫻花達が座っている三塁側内野席はそれらを真正面に見られる特等席だ。この季節、あちらこちらで花火 大会が開かれているが、どこも凄い人出でゆっくり見られたものではない。それがここはどうだ。入場料を取られはするが、それはあくまで野球観戦に対する入 場料であって、花火はタダで見られるのだからなんとも太っ腹ではないか。
 夜空に次々と浮かんでは消えていく花火を見ながら、そっと隣を盗み見る。球場に入ってからというもの、ずっと眉間に皺を寄せていたその人は今、すっかり 花火に目を奪われている。あまり乗り気ではなかったことや、それでも会に参加することに決めたことには、それなりの理由があるのだろうと櫻花は思う。だが それを知ることには意味などないし、また、その資格もないことを知っている。
 本当に、何度そう思って堪えなければいけないのだろう。時折その辛さに弱音を吐きそうになるが、前に進むことを決めたのは櫻花自身だ。乗り越えるのも櫻 花本人でなくてはならない。
 あのまま、遠くから見ているだけで満足していた頃のままなら、こうして二人並んで花火を見ている状況を手放しで喜んでいただろう。それが今は、嬉しいの にとても苦しい。一瞬の煌めきを残して消えていく花火が、今置かれている立場を物語っているように思えるからだ。
 百発の花火はあっという間に打ち上げが終わり、轟音が消えると球場内にざわつきが戻ってくる。ほぅ……という溜息があちらこちらから漏れ聞こえ、子供達 が興奮してはしゃぐ声が響き渡る。ある種の高揚感が球場全体を包み、それらが完全に消える前に試合が再開された。
 相変わらず岡崎との距離が近い。酒が入っているからか段々饒舌になってきていて、櫻花が一つ質問をすると三つ答えを返すといった感じでよく喋る。それが 櫻花を、岡崎が自分に心を許してくれた錯覚に陥らせる。
「課長、今何が起きたんですか?」
「今のは三振ゲッツーと言って、バッターが三振した時にキャッチャーが盗塁を刺して、一度に二つアウトを取ることになるからそう言う。今はこれでチェンジ になったが、もしツーアウトからランナーが盗塁失敗してチェンジになった場合、次の回は打席に立っていたバッターから始まることになる」
「えっと……それはなぜですか?」
「バッターは立ってただけで本人がまだ何もしてないからだ。こういうルールは他にもあって、投手交代で出てきたピッチャーは必ず一人は投げきらないといけ ないんだ。一人というのは最小単位で、アウトを取ったり、ヒットを打たれたり、四死球を与えたりで一つ区切りがついたら、それで一人が終わるということ」
「一人が終わる……」
「さっき言った、盗塁失敗でチェンジになった場合のことを思い出してみろ」
「はあ」
「ランナーが盗塁を失敗してアウトになった場合、打席に立った打者は何もしていないと言っただろ?」
「はい」
「それはバッターにとって一区切りがついていない、ということになる。だから、次の回はそいつがもう一度打席に立つんだ」
 こうして目の前で起こったこと以外の事柄も解説されるのだが、まだまだルールを理解しきれていない櫻花には、話の半分も頭の中にはひっかかってくれな い。そして、ここにいるファンの人達は全員こんな小難しいルールを覚えているのかと驚愕する。よく週末になると河川敷で少年少女達が野球の練習をしている 場面を見かけるが、あの子達ももちろんこれら全てを知っているのだろう。
 この複雑怪奇なルールで成り立つスポーツを理解できれば、少しは岡崎のように頭の回転も速くなるのだろうか。仕事に関する知識を増やしていくだけでは、 いつも脳の回路は同じ所を行ったり来たりするだけのような気がする。もう少し、身近だけどよく知らない世界を知る努力をしてもいいのではないだろうか。
 スポーツのルールを理解したからと言って頭の回転が速くなるはずもないのだが、日頃から視野を広げたいと思っていた櫻花にとって、これは逃すべきではな いチャンスに思えた。初めて生で触れた野球というスポーツは未知の扉をひとつ開いてくれ、そしてそこから更に新しい世界が広がっていくような気がしてい た。
 もちろんそんなことばかりが理由ではない。あまり人には言えないような打算も働いていた。岡崎だ。ここで「野球に興味を持った」と言えば、次にまたこう いう機会が訪れるのではないだろうか、と考えたのだ。既にひとつ、二人の間で秘密を共有している。そこからもう一歩近づくためには、別の“共通の話題”が 欠かせないような気がしたのだ。
 こんな腹黒いことを考えてしまう自分に嫌気がさすが、簑田京子に負けないためには少々の努力では足りないのだと、自分を奮い立たせる。
 試合は終盤にさしかかり、この球場をホームにしているチームは劣勢だ。点差は一点、このままビジターチームが逃げ切れるか、それともホームチームが追い つき、追い越すのか。手に汗握る試合が展開されている。
 目の前にある投球練習場では、そろそろ出番かとばかりに数名のピッチャーが肩慣らしを始めた。その中に、試合開始前に岡崎を見て驚いていた選手もいる。
「課長、あの人、さっきの人ですよね」
「ああ」
「あの時おっしゃってた『出番』っていうのは、もうそろそろなんですか?」
「ああ」
 岡崎は、なんで覚えているんだ、と言いたげな顔をしている。それでも、何も答えないのは大人げないと思ったのか、簡潔に一言だけ返して黙り込む。
 先ほどまでペラペラとよく喋っていたのに、この話題になると口数が極端に減る。向こうから挨拶してきたということも併せて考えてみると、恐らくあの選手 と岡崎は面識があるのだろう。そして、二人の間に何か気まずくなるような出来事があったのか、それとも面識があること自体を知られたくなかったかのどちら かだ、と櫻花は考える。ただ、前者ならば向こうから挨拶をしてくることはないだろうから、恐らくは後者だと思われる。
 もやもやとした思いを抱えたまま、櫻花の目はフェンス一枚を隔てた向こう側にいる男に釘付けになっていた。びゅんびゅんと速い球を投げ込んでいくその投 手は、もうこちらのことなど頭の中から追い出しているようで、その真剣な眼差しに少なからず心動かされるものがあった。働く男の姿というのは、職種を問わ ず人を惹きつけるものがあるらしい。
「篠塚さん、どうしたんですか?あの選手に見惚れてました?」
 左隣からからかいを含んだ声が飛んできて、櫻花の意識は現実に引き戻された。
「別にそういうんじゃ……」
「そうなんですかー?そういえば篠塚さんのタイプの男性って聞いたことなかったですよね!どんな感じの人が好きなんですかー?」
 口調はしっかりしているが、見れば顔は真っ赤だしかなり酒臭い。屋外という雰囲気に釣られて相当飲んでいるようだ。
「ちょっと、中畑さん大丈夫?飲み過ぎてない?」
「へーきへーき!大丈夫です!で、どうなんですか!」
 大丈夫と言う酔っ払いほど大丈夫ではないというのが世の常だが、果たして中畑の場合はどうなのか。そもそも原はどうしてここまで飲ませたのか。
 一瞬、原を恨みそうになった櫻花だったが、すぐにその考えを打ち消した。隣に座っていた自分は、中畑がどれぐらい飲んでいるかなど一切気にも留めていな かったのだから。岡崎と話をすることに夢中になって、後輩の世話を放棄していたのは自分なのだから。
「ねえ篠塚さんてば!聞いてますぅ!?」
 いつも以上に陽気になっている中畑は、櫻花に落ち込んでいる暇すら与えてくれそうにない。しかも質問に答えなければいつまでもこの話題から逃れられなさ そうな勢いだ。
「ええと、まあ、なんていうか……」
「はっきりして下さい!」
「俺も知りたいなぁ〜」
 原までもがこの話題に乗ってきて、櫻花は仕方なく、本当のことがばれない程度に中畑の質問に答えることにした。
「……大きい人は嫌いじゃないよ」
「えー、なにそれ意味わかんなーい!」
「俺みたいなちっちゃい子は好きじゃないってことー!?篠塚さんひどーい」
 二人して駄目出しをしてくる。
「だってあの選手がタイプかどうかって聞かれたから……」
「そーゆーことじゃなくてぇー、篠塚さんの彼氏がどういうタイプの人かって聞いてんですぅー」
 中畑の言葉に岡崎が小さく息を呑むのを盗み見て、原は内心ほくそ笑む。そして、興味ない風を装っている上司に追い打ちをかけようと口を開いた。
「えー、篠塚さん彼氏いるのー!?マジでー!?でもそうだよね、篠塚さん綺麗だし、彼氏がいないわけないよねー」
 ピクリ、と岡崎の左頬が反応する。だがそれ以上は反応を示さない。予想以上の反応を示したのは櫻花の方だった。必死になって二人の言葉を否定すると、聞 いてもいないことまでペラペラと喋り始めた。
「社会人になって彼氏なんていたことないですし、それに、いつもすぐフラれちゃうからタイプとか言われてもよく解らないんです……」
 言い終えてから失言だったと気付いてももう遅く、櫻花は己の成長のしてなさ加減にうんざりする。これまで何度も痛い目に遭ってきて、自衛のために目立た ず騒がず、あまり人と関わらないようにしてきたというのに、この球場の雰囲気に呑まれて心の箍が外れてしまったのが原因だろう。
 と、失言の理由をあれこれ探しても仕方のないこと。それよりも、キラキラした目でこちらを見ている原と中畑を上手くあしらってこの話を終わらせるのが先 決だ。
「いつもフラれちゃうって、なんでですか?」
「それはこっちが知りたいぐらい」
「すぐって、どれぐらいの期間で?」
「二ヶ月ぐらいですかね」
「社会人になってから、本当に彼氏いたことないんですか?」
「ないよ」
 そっかぁ、と二人が揃って嘆息する。これでこの話題も打ち切られるだろう、と櫻花が安心したのもつかの間、原がとんでもない質問をしてきた。
「彼氏いなくても、好きな人はいるんじゃないの?」
 その瞬間、櫻花の身体は凍り付いたように動きを止めた。
「……そんな人はいないですよ。それより試合を見ましょうよ」
 なんとか喉から搾り出した声は櫻花自身の耳には届いておらず、球場内の歓声だけが大きく響いてくる。
「ま、今日のところはこれで勘弁してあげる」
「そ、そうですね……そういう話はあんまりこんな所でするもんじゃないですよね……」
 原が矛先を収め、中畑はその顔色を窺いながらそれに従う。櫻花はそのことにほっとしつつ、全身の毛穴が開いて冷や汗が吹き出すのを感じていた。針の筵に 座るというのはこういうことなのかと、知りたくもなかったことを知ってしまい鬱々とする。さっき見た花火のように、幸せな時間などほんの一瞬しか続かない ものなのだ。
 そうこうしているうちに、試合は最終回を迎えていた。ビジターチーム最後の攻撃は無得点に終わったが、このままホームチームを抑えれば勝ちとなる。にわ かに目の前が慌ただしくなった。
 例の投手が力水をつけてもらい、その場にいる選手全員とタッチをするとマウンドへ歩を進める。その瞬間、レフトスタンドから大歓声が上がった。
「えっ?なんで?」
「まだアナウンスされてないのに……」
 櫻花と中畑が揃って首をかしげていると、原が笑いながらその理由を説明してくれた。
「あのピッチャーはこのチームの守護神でね。登板したらだいたい抑えるから、勝ちが決まったも同然だということで喜んでるんだよ。もちろん、頑張れってい う応援もしてるけど」
「んー、よくわかんないけど、とにかく凄いってことですね?」
「そ」
 そんな凄い人だったのか。櫻花はファンの大歓声を一身に受けて投球練習する姿を見ながら、横目で岡崎の様子を窺ってみる。するとそこには酷く真剣な目で マウンドを見つめる姿があった。
 やはり二人は知り合いなのだろう。一球毎に息を詰めて見守っている所を見れば、それは間違いないように思えた。だが岡崎はその事実を知られたくないと 思っているらしい。それならば、今は何も聞かないでおくべきだ。そもそもその資格などないのだから――。
 櫻花は先日来、この“資格”を持たないことによって何度も心をかき乱されてきた。今すぐどうこうできる問題ではないが、それを得られるための努力は惜し まないつもりだ。今日もある意味大きなチャンスではあったものの、緊張が勝って何も行動に移せなかった自分を恨めしく思っていた。
 それでも、これまで知らなかった岡崎の一面に触れることが出来て満足感は得られたし、更に距離を縮めるためのキーポイントも見つかった。それに何より、 この三時間半をこんな至近距離で過ごせたことを幸せに感じる。
 櫻花は改めて原に感謝した。誘われた時は「急に言われても」と、正直乗り気ではなかったのだが、しばらく原に足を向けて寝られないという気持ちでいっぱ いだった。
 例の投手は打者を三人で斬って取り、結局そのままビジターチームが勝利を収めた。三塁側ベンチ前では決勝打を放った選手がインタビューを受けており、そ の他の選手達は目の前をゾロゾロと歩いて引き上げていく。
「試合も終わったことだし、ぼちぼち帰りますかね」
 まだこの場に残っていたい気持ちに後ろ髪を引かれるが、いつまでもこうしているわけにはいかない。原の言葉でのろのろと帰り支度を始めると、中畑が今日 の感想を求められていた。
「んー、主任の説明聞いても、あんまよくわかんなかったです!」
「ええー、そう?」
 原は苦笑いしながら、今度は櫻花にも感想を求めた。
「ここにいる人達みんな、あんな難しいルールを理解してるって思うと、凄いなって思いました」
「試合の内容じゃないんだ……」
 原がガックリと項垂れる。それを見た櫻花は、慌ててフォローするように言葉を続けた。
「ああ、でも、面白かったです!なんていうかこう、駆け引きみたいなのが……」
「無理しなくていいよ。でもまあ、それが野球の本質だったりするんだけどね」
 思ったままを答えただけなのに、本質を突いていたとは。櫻花は原の言葉に驚きを隠せなかった。



 球場から吐き出される観客の波に呑まれながら、四人は最寄り駅へと歩いていく。興奮冷めやらぬ中ではあるが、徐々に日常を取り戻していく感覚が少しばか りもの寂しい。観戦後というのはいつもこんな気持ちになるものなのかと思うと、櫻花はファンの人達が足繁く球場に通う理由をまたひとつ、見つけたような気 がしていた。
 盆休みが明ければ、展示会の小間位置の通知が来る。そこからは怒濤の忙しさになるだろう。嵐がくる前に息抜きが出来たことは、櫻花にとっても中畑にとっ ても、有意義なことだったに違いない。
 特にこれと言った会話のないまま駅に到着し、そこで別れて家路につく。
「じゃ、お疲れ」
 そう言って反対方向のホームに去って行く岡崎の背中を見送りながら、櫻花は心の中で「課長のおかげで、少し野球に興味を持ちました」と呟いた。