ムカつくオンナ

「はぁ……」
 男は、隣でぱくぱくと焼き鳥を食べている女には聞こえないよう、小さな溜め息を零した。この店に入ってから、今ので何度目だろうと下らないことを考えて いるのを見透かされたのか、女がビールジョッキを片手に絡んできた。
「ちょっと三原、私の話聞いてるの!?」
「聞いてる聞いてる」
 本当は話など聞いていない。毎度同じような内容の下らないコイバナを、いちいち真面目に聞いてなどいられるはずもないではないか。とは思っても口には出 せない。三原と呼ばれた男は適当に相槌を打ちながら、今後どうすれば良いのかを考えてはまたひとつ溜め息を零す。
 三原と女は同期で、入社当時から何かとつるむことが多かった。同期で仲良くしていた者達の中で、未だにこうして一緒に飲んでいるのはこの二人だけだっ た。入社から十年も経つと、皆結婚して家庭を持ち、そちらを優先することが多くなるのだ。仕事終わりにいきなり飲みの計画を立てても、誘いを受けるのは独 身者くらいなものだ。その独身者でも、週末ともなると恋人との予定が入っていたら、やはりそちらを優先させる。かくして、身軽な同士がこうして焼き鳥屋の カウンターに並んで座ることとなるのだった。
 こういう飲みの誘いをするのはだいたい女の方からである。面倒に思った三原が断っても、会社の出口で待ち伏せをされていてそのまま無理矢理連行されるの がいつものパターンだ。そうして今日も、ここまで連れてこられてしまった。
「それでさ、また会えるかなーと思って通勤時間をちょっとずらしたわけ」
「うん」
「だけどそれから一度も会えなくて、本当は人には見えない何かだったんじゃないかって思い始めてるのよ」
「そうだな」
「……そんなわけないじゃない!」
「痛ぇ!」
 拳で殴られた肩の辺りをさすりながら、三原は一刻も早くこの場から解放されたいと願っていた。
 女は無類の制服好きで、目につく制服姿の男に一目惚れをしては恋い焦がれ、その後何の進展もないまま恋に破れるということを繰り返していた。その都度こ うして呼び出され、酒に付き合わされる三原にしたらいい迷惑だった。
 三原に言わせれば女のそれは恋なんていうものではなく、恋をした気になっているだけの“恋愛ごっこ”だ。本当に惚れたのなら形振り構わず連絡先を聞けば いいのに、そういうことは一切しようとはしない。それどころか、大概の場合は相手の名前すら知らないことが多いのだ。そんな幼稚なお遊びの愚痴に、いちい ち付き合ってなどいられない。
 と言いながら、毎度話を聞いてやっているのだから三原も女に対する甘さを自覚していた。そして自己嫌悪に陥ってまた溜め息を零すのだ。
 それにしても、と隣で話を続ける女を見やって考える。こいつは昔からそんなに制服が好きだっただろうか、と。働く男の制服がカッコいい、と言い出したの はここ二、三年のことではなかったか。その頃の彼女に一体何があったのだろうか。
 総じて女性というのは、三十歳を目前にすると独身でいることに焦りを感じるようで、三原と同期の女性社員の多くが結婚したのもその頃だった。そんな中 で、この女は結婚などどこ吹く風といった感じで仕事に打ち込んでいた。三原にはその姿が輝いて見えたし、やはりこいつは他とは違うな、と思ったものだっ た。
 傍から見ていた限りでは、特段切っ掛けがあったようには思えない。それなのに、その頃から女は子供のような恋愛ごっこをするようになった。いい加減、そ の理由を聞き出した方が良いように思えた。そして、この不毛な状態を脱却した方がいい。女のために、というよりは、自分のために。
 そこに気付いた三原は、己の自分勝手さに嫌気がさした。本人が楽しそうにしているのに、自分が嫌だからといってこれを辞めさせるのは、どう考えても余計 なお世話だ。小さく舌打ちしてぬるくなったビールを呷ると、口の中に苦味だけが残った。きっと今の自分の顔も、この不味いビールのようにただ苦いだけの顔 をしていることだろう。三原はそれを隠すように、乱暴に焼き鳥を頬張った。
「ところでさあ」
「ん?」
「こないだ庶務のかわい子ちゃんに告白されたって、本当?」
 飲み下そうとしていたねぎまが、危うく気管支に入りそうになって思い切り咽せた。ゴホゴホと咳き込み、目には涙が浮かぶ。別に悲しいわけでもないのに、 生理現象というのは不思議なものだ。
 地獄耳、と思っても言葉にはできない。だから三原は、涙目になりながら別の台詞を吐いた。
「どうして知ってるんだよ」
「聞いたからよ」
 こいつにそんなことを教えたのは一体どこのどいつだ、余計なことしやがって。三原の顔にはそう書いてあった。
「私の情報網を甘く見ないでよね」
 自信たっぷりに言う女の顔が憎らしい。ようやく咳が止まり、ビールを飲んで一息吐くが、やはり不味い。三原はその苦い顔のまま、むっつりと黙り込んだ。
「その子と付き合うの?」
 興味半分、不安半分といった感じで女が質問を重ねる。残り物仲間が抜け駆けをするのが不安なのだろう、と三原は思った。これで自分がその“庶務のかわい 子ちゃん”と付き合うことになったら、一人残されることになるから。そのくせ自分は警察官だの消防士だのホテルマンだのといった制服男子に恋をしては、一 方的に破局して愚痴をこぼすのだから始末に負えない。今回は電車の車掌だったが。それはともかく、自分が置いて行くのは良くても、置いていかれるのは困る というのは身勝手というものだ。
 だんだん腹が立ってきた三原は、付き合うよ、と嘘を吐いてしまおうかとも考えた。だが女の顔を見たら、どうしても嘘を吐けなかった。それを言ってしまう と、きっと後で後悔することになると感じたのだ。だから、事実だけを短く答えた。
「丁重にお断りしたよ」
「そう……」
 女はあからさまにほっとした顔をした。それを見た三原は苛立ち、腹の底からじわじわとどす黒い感情が沸き上ってくるのを止められない。
「でも、どうして?」
 三原が不機嫌なオーラを身に纏いつつあるのに気付かないのか、安心しきった女は三たび質問をぶつけてきた。今度は興味津々といった顔をしている。
 裏切りという心配がなくなった途端、今度は興味本位か。三原は、自分の中でブツンと音を立てて何かが切れる音を聞いた。
「好きな奴がいるからな」
 三原が言い放った言葉を聞いて、女は目を見開いたまま固まってしまった。二人が静寂に包まれる。店内の喧噪が、まるで見えないバリアに阻まれているかの ように静かだった。それが徐々に侵蝕され、音が戻ってくる。どこかの席の笑い声が耳に入ってきた時、女がようやく口を開いた。
「そう……なの」
「ああ」
 女は明らかに動揺していた。まさか三原にそんな相手がいるとは、これまで一度たりとも考えたことなどなかったようだ。
 なんという傲慢さだ。どこまでも俺を馬鹿にしている、本当にムカつく女だ。
 三原は残っていたビールを飲み干すと、そんな気持ちも一緒に胃の中に流し込んだ。喉元過ぎれば熱さ忘れるというが、これまで幾度となく呑み込んできた気 持ちは溜まる一方で、一向に忘れられない。腹立たしいことだ。
 一方、三原がそんなことを考えているとは露ほども知らない女は、目をあちらこちらへ泳がせた後、意を決したように訊ねた。
「……どういう子なの?」
「教えない」
 三原はの答えはにべもない。それでも、少しでも情報を得ようと女は食い下がる。
「私の知ってる子?」
「それも教えない」
「ヒントだけでも」
「この件に関しては、お前には何も教えない」
 三原の頑なな態度に、今度こそ女は口を閉ざした。これ以上の質問は無駄だと悟ったのだろう。
 二人の間に気まずい雰囲気が漂った。一言も言葉を交わさず、ただ黙々と焼き鳥を食べ進める。この店自慢だというつくねの味も、三原には判らなかった。
 カウンターの上がすっかり片付き、飲み会はお開きになった。店を出て駅までの道のりが、今夜はやけに遠く感じる。
「じゃあ、また月曜に」
「ああ」
「おやすみ」
「おやすみ」
 駅で女と別れると、三原はどっと疲れに襲われた。今度は遠慮なく、深々と溜め息を吐いた。肺の中の空気が全部出てしまうのではないかと思うほど、深く、 長い。少しは気が晴れるかと思っていたのに、却って暗い気持ちになるから困ったものだ。
 本当は、好きな相手がいることなど打ち明けるつもりはなかった。ただ黙って耐えていればいいと、最初にそう決めたから。だが、それももう限界だった。
 電車に揺られながら、三原の頭に浮かぶのは先程別れたばかりの女のことばかり。どうせ月曜日には何事もなかったかのような顔をして出社してくるのだろ う。こっちの気も知らないで、本当にムカつく女だ。だから、教えない。好きな相手は隣で美味そうに焼き鳥を食っていた奴だなんて、泣いて謝ってくるまで教 えてやるもんか――。
  次の瞬間、三原は夢の世界の住人となった。上着の中でスマホがブルリと震えたことに気付くのは、恐らく家に辿り着いてからのことだろう。