メモリー・ブレンド

 よく晴れた日の昼下がり。あまりの陽気にふらりと家を出て街を歩いてみたくなった男は、目的地も決めずにぷらぷらと散歩をしていた。駅前の本屋で 前から気になっていた小説の文庫本を買い、行きつけのカフェのドアを開ける。
 カランコロンというカウベルの音と芳しい香りに出迎えられた男は、いつもの窓際の席に座り、メニューを手にしばし思案する。
「いらっしゃいませ」
 アルバイトのウェイターがお冷やとおしぼりをテーブルに置き、声が掛かるまで奥に控えていようと踵を返しかけた時、男が注文をした。
「ブレンドを」
「畏まりました」
 ウェイターがクスリと笑みを漏らす。それを見た男はバツが悪い思いをしながらも、それも仕方がないよなと苦笑した。なにせ注文するのは毎度決まってブレ ンドで、メニューなど見ても意味はないのに、それでも毎回必ず隅から隅まで目を通すのだから。
 この店はテーブル席とカウンター合わせて十二席ほどの小さなコーヒー専門店で、男も最初はあれこれ注文してはその味に舌鼓を打っていたのだ。それが、あ る切っ掛けが元でブレンドしか飲まなくなってしまったのだ。それというのも、彼は以前この店をある女性との待ち合わせ場所に使っていたことがあり、その時 の女性が注文していたのがブレンドだったのだ。
 今、男が座っている窓際の席の向かいに女性が座り、後から来た方がコーヒーを飲み終えると店を後にするのが常だった。それがいつしか途絶え、元々ここの 常連だった男も店を訪れることがなくなっていた。
 男が久しぶりにこの店に顔を出したのは二年ほど前のこと。その日以来、たまに来てはかつて待ち合わせで指定席にしていた窓際に座り、当時は飲まなかった ブレンドコーヒーを頼むのだ。
「お待たせいたしました」
 目の前に置かれたカップからは芳醇な香りが立ち上り、それを胸一杯吸い込むとほっと心が落ち着く。シュガーポットから砂糖をひとつ取り出して溶かし、一 口すする。酸味と苦味の中に甘みを感じて、男はひとつ笑いを零す。すっかりこの味に慣れてしまったが、彼は元々ブラックで飲むのが好きだったのだ。
 かつては鮮やかだった想い出も、今ではすっかり色褪せてしまっている。もう心が痛むこともないし、こうしていても感慨にひたることもない。それなのに、 どうして未だにこんなことをしてしまうのか、男にも判っていなかった。
 彼は考えるのをやめ、先程購入したばかりの分厚い文庫本を開いた。店内にはピアノ曲がBGMとして流れ、そこに壁時計が時を刻む音が加わり、穏やかに時 間が流れていく。時折客が来てはコーヒーを飲み、また出ていく。その間、男はコーヒーのおかわりや軽食を注文しつつ、目の前の小説の世界に没頭していた。
 ふと気付くと、窓の外はすっかり黄昏色に染まっていた。秋の日は釣瓶落としとはよく言うが、街は急速に夜を迎えようとしている。思わぬ長居をしてしまっ た男は、カップに残った冷めたコーヒーを一気に飲み干すと、会計をして店を出る。夕飯は何にしようか、などと考えながら家路を急ぐその後ろ姿を、自分の直 後に店を出た人物に見つめられていることには気付いていなかった。


 秋は深まり、街路樹も色づく。目にも色鮮やかな季節だというのに、なぜか人恋しくなるのは、きっと男の心が寂しさを抱えているからだろう。
 今日も男は、例のカフェに向かっていた。このところ仕事が忙しく、あの店のコーヒーで癒されようと思ったのだ。読みかけの文庫本は二週間前に栞を挟んだ 所から進んでおらず、先週末はただただ疲れを取ることしかしていなかったのが判るというもの。
 ドアを開けるとカウベルの音が耳にも心地よく、店中に充満しているコーヒーの香りに安らぎを感じる。
「あ……」
 さていつもの窓際の席へ、と思った男が歩を進めようとすると、そこには既に先客がいた。別に男の専用席ではないし、他人が座っていても文句を言える立場 でもない。それなのになぜか落胆している自分に気付いて、男はなんとも情けない気分になった。
 あの席を昔の恋人との待ち合わせに使う前は、いつもカウンターに座っていた。今日はその頃を思い出して久しぶりにカウンターに座ることにする。ただ、こ こは本を読みながらゆっくりするには向かない。それだけは残念だが、前回長居をしたので今日は迷惑をかけないよう早めに帰るのも良いだろう。
「いらっしゃいませ」
 ウェイターがお冷やとおしぼりを置く。さて今日は何を飲もうか。いつも通りブレンドにしようか、それともカウンターだからブレンドはやめようか。メ ニューを手にした男の目にふと留ったのは。
「マンデリンとビスコッティを」
「畏まりました」
 注文を受けたマスターがコーヒーミルでゴリゴリと豆を挽く。途端に濃厚な香りが漂い、それだけで癒されていく。古来より香を聞く「香道」などというもの があるぐらいだ、良い香りというのは人の心に訴えかける何かを持っているのだろう。
 それからしばし、ネルドリップで淹れられるコーヒーを眺め待ちながらも、どうしても気になることがあって男は落ち着かなかった。それは窓際の席に座る先 客のこと。ちらりちらりと横目で確認したところ、年の頃は二十代前半と思しき女性で、いつも男が座っていた席の向かいに腰を下ろしていた。つまり、昔の恋 人が座っていた席に座していた。
 それは妙な感覚だった。かつて愛した恋人以外の女性があの席に座り、美味しそうにコーヒーを飲んでいる姿を見るのは初めてで、何やらぞわぞわしたものが 胃の奥底の方から沸き上ってくるような気がした。
「お待たせいたしました」
 ぼんやりとしていた所へ運ばれたマンデリンとビスコッティで我に返った男は、久しぶりに飲むブレンド以外の味を楽しむことに注力する。砂糖は入れずその まま一口、口に含む。苦味がふわっと広がり、深いコクが後を引く。今度はビスコッティを少し浸して食べる。さくさく、じゅわり。その甘さにもう一口、もう 一口とコーヒーが進む。
 そうしていると、あっという間にカップが空になってしまった。名残惜しいが仕方がない。今日はこれで帰ろうと、男は会計を済ませて店を出ようとした。ほ んの一瞬、窓際の女性をちらりと盗み見ようとしたその時、なぜかばっちりと目が合ってしまい、慌てて扉を開いて逃げるように店を後にした。
 あれは一体何だったのだろう。しばらく歩いてから改めて思い出しても、心臓が高鳴る。あれは確実にこちらを見ていた。なんとなく目が合った、というので はない。こちらを見ようとして見ていたのだ。
 もしかしたら知り合いだったのだろうか、と考えてみるも見覚えはない。では自分が彼女の知り合いに似ていたのだろうか、とも考えたが、もしそうならじっ と見るような不躾なことはしないだろう。若く美しい女性に見つめられて悪い気はしないものの、その理由が思い当たらず少々居心地が悪い。
「しばらくあの店には寄らない方がいいかも知れないな」
 残念な気もするが仕方がない、と溜め息を吐き再び歩き始めた。


 しばらく寄らない方がいい、と自分に言い聞かせていたにも関わらず、男は今日もカフェに向かって歩いていた。朝起きた時には、家でゴロゴロして過ごそう と思っていた。それなのに、雨の降る音を聞いていたらコーヒーを飲みたくなってしまったのだ。
 バラバラと傘に当たる雨音を聞きながら歩いていると、前方に蔦の絡まる小さな店が見えてきた。目指すカフェは、雨の日になるとその佇まいに艶が増すよう に見える。
「いらっしゃいませ」
 雨が降っているせいでカフェの客足は鈍いらしく、店内は男の貸し切り状態だった。安心していつもの席に腰を下ろすと、またいつものようにブレンドを注文 する。どうやらここに座るとそれを飲みたくなってしまうように、脳に刷り込みをされているようだった。誰に強要されたわけでもなく、自分のこれまでの行動 の積み重ねの結果なので、これを変えたければ自分でなんとかするしかない。
 今日は雨の音が店の外と中を遮断しているようで、ここだけ別世界なのではないかと思えてくる。いつも以上の居心地の良さに、男はこれからは雨の日こそ積 極的に来店するべきだろうと考えていた。
 またしても男は小説の世界にのめり込み、他の来客があったのを認識はしていても気には留めていなかった。続きを全て読み終え、もう一杯飲んでから帰ろう とウェイターを呼ぼうと店の奥に目をやり、驚いた。そこには先週、今自分が座っている席の向かいに座っていた女性がいたのだ。
 彼女はカウンターに座り、マスターと何やら楽しそうに話をしていた。それを目にした男は、再びあのぞわぞわとした感覚に襲われ、もう一杯注文しようと 思っていたのを取りやめた。早く店を出たくなったのだ。
 急いで会計を済ませ店を出る。その間際、彼女に今度ははっきりと笑いかけられたような気がしたが無視をした。
 やはり来なければ良かった――なぜ彼女を避けているのか、自分でもその理由がよく解らなかったが、男は今度こそ本当に、このざわついた心が落ち着くまで はあのカフェには近寄らないと決めた。


 秋から冬へと季節は進み、街を吹き抜ける風にも冷たさが増してきた。十二月にもなると世間はクリスマスムードでいっぱいになり、男の職場にも浮ついた空 気が漂っていた。
 もう何年もそういう気分になっていない男としては、それら全てが疎ましくて仕方がなかった。それに何より、年末年始の休暇のせいで仕事が立て込んでい て、そこそこ責任のある立場にいる身としては浮かれてなどいられないのだ。
 毎日のように遅くまで残業し、疲れ果てて家へ帰る。今月に入ってからというもの、そんな日々の繰り返しで、そろそろ心も身体も限界に達しそうだった。こ んな時こそ誰か傍で支えてくれる人がいればいいのだが、思い返してみると前の恋人と別れたのもこの忙しさが原因だった。だとすればやはり、独りで耐え抜か なければならないだろう。
 今日も終電近くまで会社に居残り、ようやく地元駅に降り立ったのはもうすぐ日付が変わろうかという時間だった。ここから自宅まではそう遠くないのが救い で、重い身体を引きずるように歩き出そうとしたその時、ほろ酔い加減で歩いている女性が目に止まった。
 肩辺りで切りそろえられた髪がふわりふわりと揺れ、足元が覚束ない。この季節にはよく見かける酔っぱらいだが、男にはその女性に見覚えがあった。例のカ フェで顔を合わせたくなかったあの人だったのだ。
 千鳥足ながらもきちんと改札を出ると、ふらふらと歩いて行く。どうやら同じ出口を使っているようなので、気付かれないよう、そして不審者と思われないよ う、一定の距離を空けて歩いていく。
 すると女性に吸い寄せられるように、いかにも軽そうな男が二人、近寄っていく。何やら言い寄っているようで、下心を隠そうともしていないその二人組に、 えも言われぬ怒りがこみ上げてくる。このまま放っておけば彼女が二人組の餌食になるのは、火を見るよりも明らかだ。
 男はつかつかと歩み寄り、女性の腕を取り抱き寄せた。
「俺が迎えに行くって言ったのに、どうして一人で帰ろうとしてるんだ」
 女性も、ナンパをしていた二人組も、突然の闖入者に一瞬言葉を失った。先に事態を把握したのは女性の方で、抱き寄せられた身体をそのまま男に預けて猫の ように甘える。
「ごめんなさーい、だって早く会いたくてぇ」
 酔っているはずなのに咄嗟の判断力が鈍っていないことに少し驚きながら、こちらの演技に合わせてくれてほっとする。もちろんそんなことを顔に出したりは しない。
「で、俺の彼女に何か用事でも?」
 男は、表情を変えず、声色も変えず、ただ淡々と問い質す。その冷静さが却って空恐ろしく感じたのか、ナンパ男達はぶちぶちと文句を言いながらもその場を 去ることにしたようだ。
 二人の姿が見えなくなったのを確認して、男は抱き寄せていた女性を引き剥がす。
「すみません、二度顔を会わせただけの自分がこんなことをしてしまって」
 絡まれているのを助けるためとはいえ、親しくない女性に対して少しやりすぎてしまったと思い、すぐさま謝罪した。平身低頭な男に女性は「気にしないで下 さい」と言い、更に男が驚くようなことを言う。
「実は私、随分前から貴方のことを知っていたんです」
 それは一体どういうことだろう。あのカフェで初めて見かけたのは一ヶ月ほど前だったはずなのに、女性の口調はそれよりもっと前から知っていたという感じ だ。
 男が考え込んでしまったのを見て、女性が真相を告げる。
「八年ぐらい前、トワイライトでよく待ち合わせをされてましたよね?」
 トワイライトというのは例のカフェの名前で、男が昔の恋人と付き合い始めたのが丁度その頃だった。そんなに昔から知られていたのかと、男は驚いて女性を 見つめることしかできなかった。
「私、昔あそこでウェイトレスのアルバイトをしていたんです」
 高校二年生から大学を卒業するまでの計六年間、あの店でアルバイトをしていたと言う。
 男に密かに憧れていたがいつも恋人を待っているのは知っていたし、どうにかなりたいと思っていたわけではなかった。ところがいつの頃からか二人の仲は雲 行きが怪しくなり、このまま別れてしまうのではないかと密かに期待をしてしまった。そしてある日を境にパタリと来店しなくなったのを見て、その亀裂が決定 的なものになったのを悟った。そして、他人の不幸を願ってしまった自分に対する罰が当たったのを知った。結局その後、アルバイトを辞めるまで男が再び来店 することはなかった。それが先月、久しぶりにトワイライトに顔を出したら、あの頃と変わらぬ場所で一人静かに読書をしていたのを見て、今度こそお近づきに なりたいと思い、あの頃男の恋人が座っていた席で来店を待っていた――。
「気味悪いですよね、ごめんなさい……」
 ここ一ヶ月ほど顔を見なくなったので、避けられていると思った。そう言ってしゅんと項垂れる女性を見た瞬間、男は思わずその細い肩を抱き寄せていた。自 分でもなぜそうしてしまったのかは解らない。それでも、今はこうするべきだと心の奥底でもう一人の自分が叫んでいたのだ。
 腕の中で一瞬固まった身体が、徐々にその緊張を解いていくのを感じ、嫌がられていないことを知る。すると今度は全身に喜びがじわじわと広がっていき、腕 の中の温もりを放したくないとさえ思えてきた。
 そうは言ってもいつまでもこうしているわけにもいかず、男はなんとか頑張って女性を解放した。その際、なんとも言えない寂しげな目を向けられ、このまま 彼女を攫って行きたいという衝動を必死に抑えながら言った。
「家まで送ります」
 男は断られるかもしれない、と思ったが女性は断ることなく、素直に送られて行くと言う。
 二人並んで歩きながら、とりとめのない話をする。年齢、職業、趣味などなど。だがそれもそう長い間ではではなく、あっという間に目的地に辿り着いてし まった。
 当然のように繋いでいた手を名残惜しげに離すと、明日の再会を約束して女性宅を辞した。さすがに部屋の前までは行けないので、送り届けたマンションの下 で別れたのだが、踵を返し歩み始めてからようやく、彼女の名前も連絡先も知らないことに気が付いた。
「うわぁ、何やってるんだよ俺……」
 思わずその場で頭を抱えるが、再会の約束をしていることを思い出し、家路を急ぐことにした。
 まずは名前を名乗って、連絡先の交換をして。彼女は何を飲むのだろうか。砂糖は、ミルクは、どんな飲み方が好きなのだろうか。年甲斐もなくウキウキと弾 む心が小っ恥ずかしいが、誰に知られるでもないことと開き直って、頬を緩めるがままにしている。
 相当恥ずかしい顔をしている自覚があるため、なるべく人目につかないよう急いでいるのだが、その足取りは駅を出た時の重さが嘘のように軽い。
 そうして自宅に到着すると、時刻はもう深夜一時を過ぎていた。急いでシャワーを浴びると、シャコシャコと歯磨きをしながら蔦の生い茂ったカフェに思いを 馳せる。
 これまでセピア色に染まっていたトワイライトが、明日、再び鮮やかに色づく予感に胸を踊らせつつ、男はベッドに潜り込んだ。今夜の出来事が夢ではなく現 実でありますように、と願いながら。


無事サイト開設一周年を迎えることができました。
これからもよろしくお願い申し上げます。