シンカンセンスゴイカタイアイス

 ガラガラとスーツケースを引きずって、足早にホームへ向かう。木曜日の夜、二十一時過ぎだというのに、東海道新幹線のホームにはまだ多くの人影が 見られた。そのほとんどがビジネスマンで、愛は心の中で「お疲れ様です」と呟いた。
 かくいう彼女もそんなビジネスマンに数えられる一人で、スーツ姿にビジネスバッグとスーツケースという、いかにも“出張です”といった格好をしている。
 愛は手にした切符を確認し、記載されている座席へと向かう。その足取りは重く、背中には悲哀が漂っていた。
 荷物棚にスーツケースを上げるのも億劫だが、隣に人が来てから上げるのもまた面倒だ。
 愛はうんざりしながらそれを棚に収め、貴重品の入ったビジネスバッグを足下に置いて席に着く。
 誰が好き好んで木曜日の夜遅くから出張に出るというのか。しかもそれを告げられたのが今日の午後になってからというのだから、本当にふざけているとしか 思えなかった。
「あのハゲ課長め!」
 愛は、急な出張を命じた頭髪の寂しい上司を思い浮かべながら悪態を吐き、後ろの席に人がいないのを確認してから背もたれを思い切り倒す。そうして少しだ けストレスを発散すると、迷惑にならない程度まで戻して頭を切り換えた。
 まずは宿泊先を確保しなければならない。近年の観光客需要の高まり等で、関西圏のホテルは稼働率九割を超えている。スマホであれこれ宿を探してみるもの の、なかなか空室のあるホテルを探し当てられない。
 出張を言い渡された直後に探せば少しは状況が違ったのかもしれないが、その時愛はどうしても手を離せない案件を抱えていて、それに一定の目処が立った時 には宿のことなどすっかり忘れてしまっていたのだ。
 ネットカフェで一夜を明かすという最悪のパターンも視野に入れながら、あれこれと検索を続ける。あまり土地勘のない場所のこと、遠くの宿を取って翌日の 会議に遅刻でもしたら目も当てられない。そうすると、やはり出張先近辺で探すのが無難だと思われる。
 愛がスマホとにらめっこをしている間に新幹線はするすると走り出していて、静かに品川駅に到着する。宿はまだ見つからない。諦めてネットカフェ検索に切 り替えようとしたその時、空席になっていた窓際の席の乗客がやってきた。
 車両の後方から歩いてきたその乗客は、前を横切ろうとスマホでのホテル検索に夢中になっていた愛に声を掛け、固まった。
「……愛?」
 聞き慣れたその声に、愛は弾かれるように顔を上げた。そこには、五年前に別れた元恋人が立っていたのだ。
「義行……」
 今度は愛が固まる番だった。二人ともそれ以上言葉を発することが出来ず、凍り付いたように動きを止めてしまった。通路を通る人に邪魔にされてようやく解 凍されるが、どちらも動きはとても鈍い。
 義行が窓側の席に着くと、二人の間にはえもいわれぬ緊張感が漂った。お互い話しかけても良いものかと探り合い、口を開きかけてはタイミングを掴めずその まま閉じる、の繰り返し。
 そんな中、愛はスマホを握る左手に思わず力を入れてしまった。この微妙な空気の中で、その薬指にはめられた指輪を見られたくなかったのだ。それは昔、右 隣に座っている男から貰った物なのだが、後生大事につけているのを知られたら今度こそ立ち直れないと、なんとか隠し通そうと必死になっていた。
 ホテル探しも上の空で、検索する端からその情報は視野から滑り落ちていく。
 そうこうしているうちに車内販売のワゴンがやってきた。
「すみません、アイスとコーヒーを下さい」
 愛はいそいそと財布を出しながら注文をし、テーブルの上に置かれたそれらを見て満足げに頷いている。その様子を見ていた義行は、思わずといった感じで笑 い出し、ようやく二人の間の空気が和やかになった。
「お前、今でもそれか」
「なによ、悪い?」
「いや、変わってないなと思って」
「あんただってそうじゃない」
 義行はビールとおつまみセットを購入し、プシュッといい音をたててプルトップを開けていた。
「乾杯」
 缶ビールを差し出され、中身を零さないようそろりと紙コップをそれに当てる。
「乾杯」
 ゴクゴクと喉を鳴らしながらビールを呑んでいる元恋人に、心の中で「暢気にビールなんて呑みやがって」と毒づきながら、愛はコーヒーを啜る。
 新幹線に乗り込む前からのイライラが消えていくのを感じながら、こうして二人が隣にいるのが当たり前だった頃に想いを馳せる。
 二人は大学の同級生で、在学中から仲が良かった。他の友人達からは付き合っているものと思われ、そういう扱いを受けていたが、その頃二人の間にはそう いった感情は芽生えていなかった。
 関係が変わったのは社会人になってからのこと。久しぶりに集まったゼミの集まりで、お互いの近況報告や愚痴などを言い合っているうちに、なぜか「恋人が いないとやってられない」と意気投合して付き合うことになったのだ。
 それから五年後、またしても二人の関係が変わる。義行が関西にある本社に異動が決まったのだ。一緒についてきて欲しかった義行と、仕事が面白くなってき ていてついて行けなかった愛の間にできた溝は埋まらず、物理的な距離が離れるとそのまま関係は終焉を迎えた。
 その後、愛は益々仕事にのめり込み、今や主任という肩書きを持つまでになった。早ければあと一年ほどで係長に昇進するのでは、という噂も立つほどで、順 調にキャリアを積み上げている。
 一方の義行も、本社に異動した後地道な努力を重ねて、この春から係長に昇進したばかりだった。
 心ではなく身体が離れたことによる別離だったせいか、二人とも相手のことを完全に忘れることが出来ず、ぐずぐずと心の中で互いのことを想い合ったまま五 年の歳月が流れていた。その証拠が今も愛の左手薬指に填まっている指輪であり、義行の手首を飾る時計であった。
 お互いそれを悟られないようぎこちない動きをしていたが、緊張感が解けたことにより、余計な気を回すことなどすっかり忘れてしまっている。
 二人はコーヒーと缶ビールを飲みながら、当たり障りのない雑談を交わす。それが途切れて一瞬の間が空いた時、義行がポツリと漏らした。
「髪、切ったんだな」
 義行と付き合っていた頃、愛の髪は腰まで届きそうなぐらい長かった。義行は黒く豊かなそれを手ぐしで梳くのが大好きで、絹のような手触りを楽しんでは うっとりとしていたものだ。
 愛はそれをよく知っていたからこそ、長い髪のままでいられなかった。毎夜洗髪したり乾かしたりする度に義行を思い出すからだ。だから、思い切ってショー トと呼ばれる長さまで文字通りバッサリと切ってしまった。
 髪を切った当日は、悲しさや切なさなどの感情も湧いてきた。だがそれより、あまりの軽さに頭が飛んでいきそうで可笑しくなったのを思い出す。
「切った日は頭飛んでいくかと思ったよ」
「なんだよそれ」
「すごく軽くなったから」
「よくわかんねーな」
 そう言って首をひねる義行の髪は、相変わらずのくせっ毛で、少し伸びた襟足がくるくると丸まっていてとても可愛らしい。
 そんな些細なことにすら懐かしさを覚えていた愛だったが、気付けば新幹線は神奈川をとうに抜けて静岡に突入していた。アイスもいい具合に柔らかくなって きている。
 ふふふ、と思わず笑みを零しながらスプーンを入れると、まだまだ市販のアイスクリームより抵抗を感じる。プラスチック製のスプーンを折ってしまわないよ う慎重にすくい上げ、まずはすっかり冷えてしまったコーヒーに浮かべてぬるいコーヒーフロートを作る。それからもう一度スプーンを入れ、今度こそ自分の口 に放り込む。
 まったりと濃厚なバニラアイスが口の中でじんわりと溶けていく。それと同時に、凝り固まった愛の心も少しずつ解けていった。
 いつもギリギリにならないと決められない課長のこと。会社の若い女の子達に陰口を叩かれていること。三十歳を境に結婚を急かすようになった母親のこと、 等々。どれもこれも愛の心をチクチクと攻撃してきて、それらから己を守るためには岩のように硬い鎧を纏うしかなかった。
 その心の鎧がゆるゆると剥がれ落ちていき、ギュッと固まっていた心が柔らかくなる。そうすると不思議なことに、課長があんなだから自分に仕事を回される んだ。おかげで出世も早い、と思い直すことができた。母親が結婚を急かすのは、少しでも若く体力があるうちに出産・子育てをしてほしいからで、自分の今の 生き方そのものを否定しているわけではないんだ、と思いが及ぶ。若い子が、ずいぶん年上の女上司に嫌味や悪口を言いたくなるのは、若さでしか勝てないのを 心のどこかで認めているから。そしてその若さは有限で、中身がないまま年齢を重ねるのが怖いからだ、と気付く。
 アイスひとつで簡単なことだと自分でも思うが、それでも無駄にカリカリしているよりはよっぽど良い。愛はカップに残ったアイスを少しずつ食べ進めなが ら、小さなわだかまりをプチン、プチンと潰していった。
 その様子を横で見ていた義行は、愛の幸せそうな顔にほっとする。自分の転勤で彼女の笑顔が曇っているのではないかと思っていたのだ。
 だがそれももう五年も前の話。愛ほどの女性が、いつまでも自分の影を引きずってなどいないだろう。少し、いや、結構寂しいことではあるが、それを今更悔 やんでも仕方のないこと。当時の選択が間違っていたと思うことは、今の自分や彼女を否定することにも繋がる。
 これまで何度もそうやって今を受け入れてきた義行だったが、さすがに本人を目の前にすると切なさがこみ上げてくる。それを無理矢理ビールで流し込むと、 すっかりぬるくなり気の抜けた、苦いだけのアルコールが喉を焼いていく。
 ぷは、と缶ビールを呑み干したその時、義行の左の視野の端に、光るものが映った。愛の左手薬指に指輪があったのだ。
 それが何を意味しているか解らないほど馬鹿ではないが、それを簡単に認めたくもない。本人に訊くべきだが、では何と言って声を掛ければよいのか。そもそ も元彼にそんなことを訊かれて良い気分はしないだろうし、だからといって見てしまったからには無視するわけにもいかない。
 隣で義行が悶々と葛藤していることなど知らない愛は、心が解れたせいですっかり気が緩んでしまっていた。あれほど隠そうとしていた左手を、今や隠すこと も忘れているのだ。それで義行に指輪をしているのを知られたわけだが、愛はまだそれに気付いていない。
 そうこうしている間も、新幹線は西へ西へとひた走る。新大阪行きの最終一本前ののぞみは、名古屋を過ぎるとがくんと人が減り、あれほどざわついていた車 内が嘘のように静かになった。
 愛が食べていたアイスはすっかりなくなり、手持ち無沙汰になったのか、それともようやく思い出したのか、中断していた宿探しを再開する。
 義行と会話しながらあれこれ探してはいるものの、時間はもう二十三時になろうかという今、なかなか見つからない宿に愛も段々と焦りを見せはじめた。
 愛の様子がおかしいことに気づいた義行は、何気なく理由を訊ねてみた。
「さっきからどうした?」
「うーん、実は今夜の宿がまだ見つからなくて」
「じゃあ俺んち来るか?」
 ポロリと口から出てしまった言葉に驚いたのは義行本人で、なんとかそれをなかったことにしようと慌てて言葉を重ねるが、更に余計なことを言ってしまう。
「あ、いや、今のナシ!旦那がいる奴に言うことじゃなかった!聞かなかったことにして!」
「旦那って何のことよ?」
「何ってお前……その指輪……」
 自分の失言に対して怒るどころかきょとんとした顔をしている愛に、義行は恐る恐る指輪の存在を指摘してみた。
 すると愛は驚き、次いで笑い、最後には不満げに眉をしかめた。コロコロと変わる表情は可愛いが、その理由が思い当たらない義行としては、ただただ困惑す るばかりである。
「これ、義行に貰った指輪なんだけど」
「は?」
「だから、義行に!貰った指輪!未練がましくはめてて悪かったわね!」
 ぷい、と顔を背ける愛の顔はほんのりと赤く、義行の心臓はこれまでにない程バクバクと煩く脈打っていた。
 これは、もしかしたらもしかしてるかもしれない、という思いがどんどんと湧いてきて、あれだけビールを呑んでも全く酔えなかったくせに、今になってその 酔いが回ってきたかのように顔が熱くなり、そして、気分が大きくなっていた。
 そのために湧いてきた謎の自信が義行の背中をぐいぐいと押し、愛の手を握ると改めて申し出た。
「愛さえよければ、うちに泊まらないか?寂しい独身男の部屋なんてむさ苦しいだけかもしれないけど、駅から近いし便利だと思う。ていうか、来て欲しい」
 義行のその言葉を聞いて、愛は息を飲んだ。彼の言葉を額面通りに受け取ってよいものか迷うところだが、義行がそんなつまらない嘘をつくような人ではない ことは愛が一番よく知っていた。
 しばし逡巡したのち、愛は心を決めた。
「よろしくお願いします」
「……いいのか?」
「じゃなきゃお願いなんてしないんですけど」
「だ、だよな!そうだよな!」
 義行は愛の手を握ったまま、ほーっと長く息を吐くと座席に沈み込んだ。よほどほっとしたのだろう。しばらくそのまま動こうとしなかった。そんな義行の姿 を、愛は笑顔のまま見つめている。



 新幹線が新大阪に到着し、サラリーマン達が疲れた様子を隠すこともなくぞろぞろと降りてくる。そんな中、ビジネスバッグを乗せたスーツケースを引きなが ら、手を繋いで歩く男女がいた。
 五年という年月は決して短くはないが、その長い日々を経て再会した彼らが新たに選択した未来は、幸せに彩られているに違いなかった。


更新休止等いろいろありましたが、無事サイト開設二周年を迎えることができました。三年目の今年は、かりそめ完 結と新連載開始を目標にしていきたいと思っています。
これからもよろしくお願い申し上げます。