さくら

 日本人の桜好きというのは相当なもので、この季節になると誰も彼もがうきうきと浮き足立っている。咲いてから散るまでの期間が短いから、その散り ざまに儚さを感じるから等、理由は色々あるだろう。
 そんな平均的な日本人の枠から外れないのはヒロコも同じで、足取りも軽く九段下駅の出口を登っていく。駅を出れば右手に靖国神社、左手には日本武道館や 千鳥ヶ淵などがある北の丸公園が広がっている。どちらに進んでも桜の名所が待ち受けているのだから、それも仕方のないことだ。
 階段を登りきったところで時計を確認してみると、約束の時間まではまだ少しあるが遠回りしてゆっくりするほどの余裕はないようだった。ヒロコは歩道橋を 渡り、靖国神社へと向かうことにした。
 入り口からでも目にすることができる第一鳥居は、その威容を誇るように佇んでいる。てくてくと坂道を登っていき、一礼して鳥居をくぐる。参道の外側に見 える桜並木は満開で、まるで自分を歓迎してくれているかのような錯覚に陥った。
 平日の昼間だというのに花見客は少なからずいて、明らかに社会人に見えるこの人たちはどんな仕事をしているのだろうかと心配になるほどだ。そんな大変そ うな大人達や、まだまだ幼さの残る大学生グループの宴会を横目に、ヒロコは参道を神社方面へと歩いていく。
 ぽかぽか陽気の中、この世の春を謳歌しているというのはこういうことだと言わんばかりに咲き誇っている桜たち。青い空と薄紅色の桜のコントラストは美し く、その様子はヒロコに何かを訴えかけてくる。だが、彼女の脳裏には既に似たような映像が強烈に焼き付いていて、それをちらりと思い浮かべただけでふふ ふ、と笑いが止まらなくなるのだ。
 そんな想い出を胸に抱きながら手水舎で手と口を清めて神門を抜けると、先ほどまでとは違い参道のすぐ脇に桜が並んでいる。その満開の桜のトンネルの先に ある靖国神社の拝殿はもうすぐそこだ。だが、参拝する前に見なければならないものがある。桜の標準木だ。
 どの都道府県にも設定されているそれは、東京都の場合ここ靖国神社にあるのだ。この木の蕾が開けば開花宣言が出されるのだから、人間ならば責任重大だ。 ただ、桜は植物だ。気温の推移を感じ、それぞれの木がベストだと思ったタイミングで花開く。
 だからそれが人間にとって都合の悪い日だとしても、彼らには知ったことではないし、例年より早いだの遅いだのは関係のないことなのだ。桜祭りを設定して いた期間にはもう散ってしまっていたり、逆にまだ蕾のままだったりするというのもご愛嬌。自然相手なのだから、こちらも大らかな気持ちで春を迎えるべきだ ろう。
 ほほう、これが標準木か、などと思いながらひとしきり眺め、今度こそ拝殿に参拝する。二拝二拍手。そこに祀られている英霊の御霊の安からんことを祈るの だが、それと同時にどうしても身近な人への力添えを願ってしまう。そんな矛盾した祈りを捧げ、最後に一拝。
 ふぅー、と大きなため息とともに身体に入っていた力を抜き、南門から靖国通りに出て市ヶ谷方面へ緩やかな下り坂を下っていく。靖国通りの桜並木ももちろ ん満開だ。
 ひらりひらりと舞い散る花びらを掴めれば願いが叶う、という遥か昔に誰かから伝え聞いたおなじないをふと思い出し、歩きながらそれにチャレンジしてみ る。
 花びらの動きは変則的な上に非常に軽いので、掴もうとしても手を動かした時に生じる風圧でふわりと逃げていく。約束の時間が迫っているので無駄に立ち止 まるわけにもいかず、失敗を重ねていくうちにとうとう目的地が見えてきてしまった。
 これが最後のチャレンジだと決め、両手でそっと花びらを包み込む。そろりそろりと慎重に両手を開くと、そこには一枚の淡いピンクのハートが鎮座してい た。
 ヒロコはそれを失くさないように左手でしっかりと握ると、右手で鞄の中から手帳を引っ張り出した。そして後ろの方のあまり使っていないページに挟み、大 事に仕舞い込んだ。
 そんなことをしているうちに待ち合わせ場所に到着した。時間より前だが、待ち人の姿が見えないかどうかキョロキョロと辺りを見回す。いつも早めに行動を する人なのでもしや、と思ったのだが、どうやら今日は自分の方が早かったらしい。いつもいつも待たせてしまうことを心苦しく思っていたヒロコは、ほっと胸 をなでおろした。
 橋の欄干にもたれかかってぼんやりと目に映る風景を眺める。靖国神社同様、平日昼間だというのに釣り堀にはちらほらと釣りを楽しむ客がいて、その向こう には見事な桜が咲いている。都心のど真ん中だというのになんとも牧歌的で、そのギャップを考えるとどこか可笑しくて頬が緩む。そんな、完全に気が抜けてい る時。
「失礼、何かお困りですか?」
 いきなり声を掛けられて慌てて振り向くと、目の前には深緑色の制服があった。見慣れているはずのその制服を、普段とは違う場所で目にするというのは不思 議な感覚で、また、謎の相乗効果がより一層その人を格好良く見せるので、しばらくぼーっと見惚れてしまう。
「おい、本当に大丈夫か?」
「ん?ああ、平気平気。なんか、制服姿が格好良くて」
「はぁ?毎日見てるだろ」
「毎日じゃないもん。外で見るのは久しぶりだもん」
「なんだそれ……」
 彼はぶっきらぼうに答えてそっぽを向いたが、耳が赤くなっているのをヒロコは見逃さなかった。その瞬間、えも言われぬ幸福感が湧き上がり、思わず目の前 の人に抱きついた。そしてここが外だということに気づいてすぐに離れたが、時すでに遅し。
「いやあ、見せつけてくれますなあ」
「最近暑いと思ったら原因はこれかぁ」
「桜祭りを来週末に設定してる所も多いのに、当日は完全に散っちゃってるよなぁ」
「あーあ、せっかくの周辺住民との交流の機会なのに困ったもんだ」
「えっ!?」
 数歩離れた所にいたらしい彼の同僚に冷やかされ、今度はヒロコが真っ赤になる番だった。たまには一緒にランチでも、と誘われたからてっきり二人きりだと 思っていたのに、もしかしたらそうではなかったのではないかと今になって気付き、このまま外堀に身を投げてしまいたいほどの羞恥に塗れていた。
「おい、うちの嫁はお前らのおもちゃじゃないぞ、散れ散れ」
 しっしっ、と犬を追い払うように手を振るが、同僚二人はにやにやとした笑いを浮かべたままその場から動こうとはしなかった。せっかく挨拶しに来たんだか らもうちょっと、とか、なんなら俺らも一緒に昼飯を、などと言い募っている。
「知るか、煩い。ヒロコ、行くぞ」
「えっ、ちょっ、待って」
 ヒロコはひらひらと手を振る二人にぺこりと頭を下げると、先を行く大きな背中に向かって歩き出した。
「俺らもあっち戻るんだけどな」
「あいつ案外抜けてるんだよな」
 後ろでそんな会話が交わされているが、職場での夫の評価をちらりと小耳に挟んだような気がして、ヒロコはこれはこっそり胸の内に仕舞っておこうと思うの だった。
 その夫は、すこし向こうで立ち止まり、苦い顔をしてこちらを見ている。不思議に思って首をこてんと傾げると、一瞬その顔が綻ぶが、またすぐに眉間に皺を 寄せてしまう。ヒロコがその視線を辿ると、一定の距離を置いてこちらに向かっている同僚二人が何やらヒソヒソと話をしている姿があった。
 からかわれたのがよっぽど嫌だったようなのだが、それならば呼び出しなどしなければこんなことにはならなかったのに、と思うと、それでもランチに誘って くれた夫が愛おしくてたまらない。
 後ろにいる二人には申し訳ないが、今日はこのままちょっとしたスパイスとしての役割を担ってもらうことにした。
 ヒロコはタタタッと駆け寄り、制服の袖をちょんと摘んだ。あまりイチャイチャしているようには見えないだろうと考えてのことだったが、夫はそうは受け取 らなかったようだ。再び耳を赤くして、そっと妻の手を引き剥がした。
「あいつらが見てるから」
「ふふっ、知ってる」
「マジかよ……お前いつからそんな小悪魔になったんだ」
「えー?前からだよ?」
 その言葉にがっくりと肩を落とし、はぁー、と深いため息を吐いた夫は、開き直ったように妻の手を引き歩き始めた。
「早く行こう。飯の時間がなくなる」
「はーい」
 後ろの二人からだけでなく道行く人からの視線も感じるが、今はそんなことを気にするよりも短い休憩時間が無くなる前に食事をすることの方が大事だった。
 外堀通りから少し入った所にある、昼食はもちろん飲み会などでもよく利用する店に妻を案内した。他にも制服組がいるのが目に入ってくるし、背広組なども はや普通のサラリーマンに溶け込んでしまっている。ここにきてこの選択が失敗だったと悟るが、今更店を出るわけにもいかない。
 二人は案内された席に着くと、ランチメニューの中から本日の定食というのを注文する。料理が運ばれてくるまでの間、ヒロコはどうしていきなり呼び出しを したのか聞いてみることにした。
「ねえ、たろさん。聞いていい?」
「なんだ?」
「なんで今日は一緒にお昼食べようなんて連絡くれたの?今までこんなことなかったのに。まさか何か悪い報告でもあるの?転属になってもついて行くから心配 しないでっていつも言ってるじゃない」
「いや、そうじゃない。ただ……」
「ただ?」
「今日はお堀の桜がすごく綺麗だったから、ヒロコにも見せたいって思っただけだ」
「え、それだけ?」
「あの時もこんな日だったろ?だから、な」
「たろさん……」
 ヒロコは感激のあまりこみ上げてくる涙を必死で堪えていた。店に入った時から妙に視線を集めている中で泣き出したりなどしたら、この後夫が職場で何と言 われるか判ったものではないからだ。
 先ほど待ち合わせ場所で声を掛けられた時、初めて出会った日と同じ言葉に懐かしさを感じていたのだが、それはヒロコだけではなかったようだ。
「うふふ、たろさん、好き」
 結局涙を我慢しきれず泣き笑いしながらヒロコが告げた言葉に、夫の太朗は三たび耳を赤くしながら小さな声で「俺も」と返す。
 ほんわかと甘い空気が漂い始めたところへ、見計らったように今日の定食が運ばれてきた。そこではっとした二人は、安くて美味しいから今度は友達を連れて くるね、などといった当たり障りのない会話をしながら定食を平らげていく。
 あまりゆっくりする時間もないということで、食事が終わるとすぐに解散となり、ヒロコはやりたいことが出来たと言ってまっすぐ自宅へ帰って行った。妙に ニコニコしていたので、きっと何か企んでいるのだろうと思ったが、そこには気づかないふりをして妻を見送った。
 その後、太朗が職場へ戻ると「西村3佐が嫁とイチャイチャしていた」「いや、どうやら泣かせていたらしい」「それは実は3佐が愛の言葉を囁いたかららし い」などといった噂という名の目撃談が省内を駆け巡っていたのは言うまでもない。


再びの更新休止後、FTPでアップデートできなくなったため思い切ってサイトの引っ越しをすることにしました。 なるべく更新休止のないよう頑張っていきたいと思います。