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 今日さえ乗り越えれば週末だ、というそれだけで頑張れる気がする金曜日。会社勤めをしている者なら誰しもがそういう気持ちで迎えた朝、尚美に商品開発課 から内線が入った。
「ああ、西本さん?申し訳ないんだけど、今日の会議のお客さんを出迎えに行ってくれないかな」
「いいですよ」
「十時に五番だから、よろしくね」
「わかりました」
 今日は会議室の管理担当ではないが、手が空いている人間が出迎えに行くことも珍しくはないので、名指ししてきたことに若干の不思議を感じていても特に気 にすることなく請け負った。
 そして十時前、どこの誰を出迎えればいいのか会議室の予約状況を確認したところで固まった。そこにはすっかり忘れていたはずの名前が記載されていたの だ。
 これは向こうの差し金に違いないと、商品開発課の担当者に内線を入れるが、離席しているとのことで連絡が取れない。それも絶対わざとだ!と尚美は内心地 団駄を踏むが、時間は止まってはくれない。
 ギリギリと歯噛みしながら受け付けへ向かうと、その人物はニコニコと全開の笑顔で待っていた。
「西本さん、おはようございます。すみません、我が儘を言いまして」
「やっぱり江川さんの我が儘だったんですね。次はこのようなことのないようお願いしますね」
「すみません。どうしてもお話を伺いたくて」
「え?」
「え?ええと……あれ?話が通ってないんですかね、もしかして」
「私は商品開発課の担当者に出迎えるよう言われて来ただけなんですが、違うんですか?」
「はい。先日案内していただいた社員食堂の件で少し詳しくお話を伺いたいとお願いしていたんですが」
 どうやら出迎えるだけではなかったようで、なにもかもが初耳な尚美は呆然とした。今日は商品開発との会議ではないのかとか、話を聞きたいとか一体何の話 だとか、言いたいことは山のようにあるが、ここは会社の玄関である受付前だ。こんな所で言い合いすることもできるはずがなく、仕方なく五番の会議室へと案 内する。
 江川開発側は江川だけではなく他にも担当者が来ているのに、こちらは何も聞かされていない自分一人というのも心許ない。お茶を淹れに行くフリをしてすぐ に上司に連絡を入れることにした。
 状況を説明して詳しい人間に来て貰えることになり、なんとか援軍が見つかったことでほっと胸をなで下ろす。そして急いで四人分のお茶を用意し、何事もな かった顔をして会議室へ戻っていく。
 応援も到着し、それぞれ名刺交換をしながら自己紹介を済ませると、江川が早速本題に入った。
「先日、西本さんに無理を言って御社の社員食堂に案内していただいたんですが、そのシステムに非常に興味がありまして、詳しくお話を聞かせていただきたい と思っています」
「あまり特筆すべきところはないと思いますが、どの辺りの話をすればよろしいでしょうか」
「まずは食堂運営を外注しているかどうか、ですね」
 そこからは援軍に来てくれた担が質問に答えてくれて、尚美の出番はほとんどと言っていいほどなかったのだが、それでもちょくちょく話を振られては答える ということを繰り返しているうちに、時刻は十二時近くなっていた。
「では昼食にしましょう。実際にご覧になった方が早いでしょうし、新たな疑問も生まれるかもしれません。西本も一緒に来るように」
「はい」
 そうして四人で連れ立って社員食堂へ向かうこととなった。尚美は会議室の後片付けをしてから行くと言ったのだが、上司が尚美にそのまま逃亡されて一人に されては困るとでも思ったのか、片付けは総務課の別の社員に任せるという一報を入れた後に連行されてしまう。
 関係ないのに片付けさせられる新人に申し訳なく思う一方で、自分だってまだ三年目でようやく一人前に仕事ができるようになったばかりのペーペーなのに と、ある種の理不尽さを感じてもいた。相手は大企業の専務で、新たに立ち上げるホテルの責任者でもある。そこでここの社員食堂のシステムを導入したいとい うことだったのだが、ホテルと製造メーカーでは何もかもが違うだろうし、参考にならないと尚美は思っている。
 とはいえ現状は社員食堂に同行しているということで、非常に居心地の悪い昼食時間と相成った。このところ暑くなってきたこともあり、尚美は今日はざるそ ばと小鉢数種類だ。
「おそばも美味しそうですね」
「冷凍ですけど、スーパーで売っている袋に入ったゆで麺より数倍美味しいですよ」
「アレルギー対策はどうしてるんですか?」
「そば、うどん、ラーメンを茹でる釜は全て別にしています。間違いのないようそばだけ離してありますし、後はメニューに全て記載しています。それでも不安 という場合は他の食事を選択してもらうしかない、というところでしょうか」
「そばが一番対処がしやすいですからね。小麦とか卵になるともう……」
「そういった点ではホテルは大変でしょうね」
 四人でこのような会話を交わしながら食事をする。フォーワーズでは社内のネットワークで昼食を予約することができ、会計は社員証に埋め込まれているIC チップを利用する。料金は給料から天引きされるので財布を持って行かずに済むのが売りだ。
 もちろん予約などしなくても食べることはできるが、無駄を出さないためにという名目で全ての料理は数量限定となっている。だから人気メニューは予約でほ ぼ完売してしまうし、不測の事態で社食に行くのが遅れた場合、予約をしていないと食べるものがないということも多々あるのだ。
 デスクワークをしている人間には便利なシステムだが、ホテルのような業態には向かないと思われる。それは江川も解っているはずなので、きっとそれ以外の 何かを取り入れたいのだろう。
 尚美は入社当時からこの恩恵に与っているが、これが導入される前はマズイ、少ない、会計に時間がかかる等評判が悪かったようだ。
「何か参考になることはありましたか?」
 尚美の上司が訊ねる。ここまでしておいて何も収穫がなかったと言われては、この二時間の説明が全て無駄だったということになる。尚美には、本来やるべき だった仕事を放置してまで相手をしたのに、という心の声が聞こえてきそうだった。
「業態が違うので全てを参考にするというわけにはいきませんが、予約制度というのはぜひ導入したいと思っています」
「それはよかったです。ご説明させていただいた甲斐があったというものです」
 上司がほっとした顔をしているのを見て、尚美も胸をなで下ろす。自分だけでは対処できないと引っ張り出したのだから、それなりに責任も感じていたのだ。
 そして尚美も考えていた通り、業態の違いが理由で参考にならない部分も多かったようだ。だが、一番流用しにくいだろうと考えていた予約制を導入したいと いうのだから、世の中というのは判らないものだ。
「では、今日のところはこれでお暇させていただきます。また後日、システム開発に関してご連絡させていただきますね」
「かしこまりました」
 江川達を社員食堂から玄関まで送って行き、挨拶を交わして見送った。その瞬間、尚美と上司はどっと疲れて大きな溜息を吐いてしまった。そのタイミングが あまりにもぴったりだったため、どちらからともなく笑いが零れた。
「あんな大企業の相手をするなんて、本来は我々の仕事じゃないよねぇ」
「ですよね。でも、それじゃあどこが相手をするのかと言われても答えが出ません」
「そうなんだよね。うちが一番詳しいから、広報に相手しろと言っても無理な話だし」
「これまで他社さんを社食に連れて行っても、何も言われていないんですよね?」
「そりゃあ、なかなかに大がかりな改革になるから導入したくてもできないでしょう。ただ、今後もう二度と誰の興味も引かない、とは言い切れないからね。西 本さん、配布できる資料を作ってくれるかな?」
「私が、ですか?」
「そりゃそうだよ。乗りかかった船だもん。最後まで見届けてくれないと」
「……解りました」
 うまく言いくるめられたような気がしないでもないが、ここまで関わったのなら後の為に資料を作るのは自分しかいないというのも解るのだ。午前中、一緒に 話を聞いていたおかげで不明な点も少なく、もう二度と煩わされないよう完璧な資料を作り上げてやると、妙な方向に燃えているのだった。
 午後からの仕事も江川に振り回されたせいで新たに生まれたものだが、資料作成が嫌いではない尚美にとっては、それほど苦でもないし通常業務にちょっとし たスパイスが加わる程度のものだ。
 とはいえ普段通りの仕事もこなさねばならず、尚美はこの日からしばらく無駄に忙しい日々が続くことになるのだった。