桜の季節

 まだ年が明けて一ヶ月も経っていないのだが、毎年この頃になると櫻花はウキウキ浮きたつ心を抑えきれなくなる。とい うのも、いろんな会社が季節を先取りして桜モチーフの商品を売り出すからだ。
 櫻花が普段無駄遣いをせずつつましやかに暮らしているのは、すべてこの季節に欲しい桜グッズを買うためだと言っても過言ではない。とはいえ今年は岡崎と 同棲をしているため、そこまでお金をつぎ込むことはできない。そこで、休みの日には朝からネットサーフィンをして何を買うか吟味をすることとなる。
 今日も二人で家事を終わらせ、コーヒーなど飲みながらリビングでまったりしている時、おもむろに取り出したスマホを片手にあれこれと検索を始めた。
 眉間に皺を寄せるのは岡崎の専売特許だったはずが、一緒に暮らし始めてそれが櫻花にも伝染したのだろうか。難しい顔をして画面とにらめっこをしている。
 その姿があまりにも面白くてしばらく黙って眺めていた岡崎だが、あまりにもうんうん唸っているので気になって静かに声をかけることにした。
「なあ櫻花、さっきから何唸ってんだ?」
「え?私そんなでした?」
「仕事中にも見たことねえ顔してスマホを睨んでたぞ」
「それはそれでどうかと思いますけど、そんな変な顔してましたか……」
「面白ぇからいいんだけど、気になって仕方ねえよ」
「あー、ごめんなさい。ちょっと調べ物をしてまして」
「調べ物?」
 ここでようやく櫻花が調べ物の内容を説明する。
「年に一度の桜の季節なんです!化粧品メーカーから飲食メーカーまで、多くの会社で桜モチーフの商品が一斉に発売されるんです!シャンプーなんかはそこま で高くないし一年分だと思って全メーカーのを買うんですけど、問題はロクシタンなんですよねぇ。品数は多いしラインも複数あるし、お値段もそこそこするし で、吟味して買う物を決めないとあっという間に破産しちゃうんです!」
「はぁ」
「それで、今悩んでるのがこっちのプリズムのラインにするかブロッサムのラインにするか、なんですよね。ブロッサムはフレグランスミストがあるから、香水 を使えない時にもいいなあって思うんですよね。だからこっちにするつもりなんですけど、それとは別にこのミニトートがついているセットも欲しくて。でもミ ニトートなら雑貨店で探せばこれよりいいのがあるかもしれないし、どうしようって思っているんです。この先、スタバも桜フレーバーのドリンクとか出るし、 毎年買ってるジャーナルブックも買わないといけないし、まだまだ出費は続くから欲しいもの全部、っていうわけにはいかないんです!」
「お、おう……」
 櫻花のいつになく饒舌で熱のこもった語りに、さすがの岡崎も圧倒されてまともに返事ができないでいる。仕事でもこれぐらい熱を込めてくれればもっと成長 するだろうに、と思ったところでふと気づいた。櫻花がこれまで提出してきた企画書の中に、桜をモチーフにしたものがなかったのだ。
 自分で商品を作り出せる立場にいながら、どうしてそうしなかったのか。不思議に思った岡崎が水を向けると、バツの悪そうな顔でもにょもにょと答える。
「だって、趣味に走ると際限なくなりそうで……それに、桜は季節ものだから在庫管理も難しいですし、採用されにくいんじゃないかって思いまして」
 どうやら櫻花なりに色々考えた結果だったようだ。
「でもまあ、俺が見てやれる間に出すってのも考えといてくれよ?」
「はい……」
 春に結婚することに伴い、岡崎は企画課から広報課へ移動することが内定していた。岡崎が上に結婚の報告をしてからというもの、社内規定にはない“夫婦は 同じ職場には配属されない”というものをでっち上げてでも岡崎を引き抜こうと、各課の間で熾烈な争奪戦が繰り広げられたのだった。
 その結果として広報課が勝ち抜いたのは、岡崎の持つ広い人脈にも期待してのことである。それを活かすかどうかは本人次第ではあるものの、広報としてあち らこちらに顔を出すだけでも良いと、上層部は考えたのだ。
 広報への異動は岡崎にとっても悪いものではなく、何といっても展示会で企画課と一緒に仕事をする機会があるということで、快く内示を受けることにした。 また、この件に関して一番の功労者は岡崎を射止めた櫻花だという話が上がっているのは、岡崎も知らない。
 ともあれ、そういう理由もあり岡崎が上司として櫻花の企画書に目を通す機会はあと僅か。その間に櫻花の思いの丈の詰まったものを見てみたい、というのも 頷ける。もしその出来が良ければ当然商品化への道が開けるし、最終的にそうなった場合、それを宣伝するのは岡崎自身なのだ。なんとも夢の広がる話だし、是 非ともその夢を叶えたいものだとも思っている。だがそれを櫻花に言ってしまうと却ってプレッシャーになるし、岡崎は心の中でこっそり思うだけに留めておく ことにした。
「で、何が欲しくて悩んでんだ?ちょっと見せてみ?」
「これなんですけど」
 櫻花が持っているスマホを覗き込んだ岡崎は、色々あるものだなと思いながら櫻花に必要そうなものをピックアップしていく。
「まずオードトワレはやめとけ。今使ってるやつがすげえいい匂いで櫻花にぴったりだから、変えるのは考え直せ。でも試したいだろうから、このロールタイプ の少ないやつにしとけ。ミストもやめといた方がいいな。シャンプーを片っ端から買うなら、そっちの匂いを楽しんだらどうだ?で、ハンドクリームとボディミ ルクは買いでいいだろう。だからこの、ハンドクリームと石鹸のセットと、ロールのやつと、ボディミルクだな。発売日になったら買いに行くぞ」
「えっ?」
「ホワイトデーのお返しの前払いだ」
「ええーっ!?」
「バレンタインデー、くれるんだろ?」
「そりゃまあもちろん、渡しますけど……」
「ホワイトデーの頃は忙しくて準備してる暇なさそうだから、先に渡しときてぇんだよ」
 人事異動を控え、更には結婚式も控えているという時期なのだ。二人とも忙しくないはずはない。たまには変則的なやり取りがあっても面白いかもしれない、 と櫻花も考えた。
 それに他にも欲しいものは沢山ある。百円均一の店にも各店それぞれ桜グッズが溢れ返るし、桜餅などは和菓子店だけでなくスーパーやコンビニにも売られる ようになる。資金はいくらあっても足りないぐらいなのだ。櫻花は、ここは素直に岡崎に甘えておくことにした。
「では、よろしくお願いします」
「うむ、任せておきたまえ」
 これまでなら遠慮してあまりこういうことはできなかった櫻花も、図太くなったのか、それともなりたい自分に近づいたのか、少しずつ気持ちに変化が現れる ようになっている。
「それにしても、ほんと桜が好きなんだな」
「はい、大好きです」
 岡崎の素朴な疑問に、櫻花も自分の趣味趣向が偏っているのを自覚しているのか、いささか恥ずかしそうに答えた。
「私の名前の由来が桜なんですが」
「そりゃ言われなくても判る」
「ですよね。実は私が生まれた日に、境内の桜の木が満開に咲き誇っていたそうなんです。その話を聞いてからどうしても意識するようになって、気づいたら桜 グッズコレクターになってしまっていました」
 昔はこんなに早くから商品が発売されることもなかったし数も少なかったから楽だったんですけどね、と苦笑いする櫻花の言葉に岡崎は考えさせられた。
 確かに昔は春を先取りと言っても正月が終わったら雛人形の広告が打たれる程度で、猫も杓子も桜モチーフの商品を売り出すなんていうことはなかったような 気がするのだ。そんな簡単なことにも気づけなかったとは、アンテナの感度が悪くなっていると同時に、当たり前のことを当たり前と受け止めてしまっているこ とに情けなさでいっぱいになった。
 結婚を機に広報へ異動するのは、快く受けたとはいえ本意ではなかったのだが、もしかしたら少し外の世界を見ることも必要なのかもしれないと、妙なことを きっかけに納得することとなったのだった。
 岡崎は常々、櫻花と一緒にいると面白いことが多々あるとは思っているのだが、ここでもそれは発揮されていて本当に飽きることがない。ただ、今回の話はあ る程度予想の範囲内のことで、それほど驚きがあったわけではなかった。
 それというのも、岡崎も櫻花に片想いをするようになってからというもの、春が近くなるにつれ増えていく桜グッズについつい目を引かれ心を惹かれ、そのう ちのいくつかを購入したりしていたのだ。だから櫻花の気持ちが少なからず解るし、これからは堂々と買えると喜んでいたりするので、このままいくと岡崎家は 桜で溢れることになりそうだ。
「おお、そうだ。今年は誕生日にプレゼント渡せねぇから、ちょい早めに渡すな?」
「ありがとうございます。新年度で色々忙しい時なのに……」
「気にすんなって。俺がその日にしたいって言い出したんだから」
 櫻花の誕生日である四月三日が土曜日ということもあり、その日に櫻花の実家で結婚式を挙げることになっている。そのため金曜日の夜に山梨に移動するのだ が、櫻花は新年度早々ということに多少不安を抱えていた。岡崎は広報課へ異動だし、当然ながら企画課も体制が変わることになる。何が、というわけではない のだが、大丈夫なのだろうかと思うのだ。
 とはいえ、そうなることも承知の上でその日の挙式を決めたのは岡崎と櫻花の二人。参列するのは両家の家族だけだし、場所は櫻花の実家なので緊張すること もない。それだけでも心にかかる負担は軽くなるだろう。
 四月などあっという間にやってくるから、まだまだ寒い一月だというのにこうして桜をモチーフにした商品が続々と発売されているのだと考えると、挙式まで の時間などないに等しい。櫻花はそのことに思い至って若干の焦りを感じるが、その前にイベント事があるのでまずはそちらに注力することにした。
 今年は直々におねだりされたバレンタインデーに、何を渡すのか。ホワイトデーのお返しを先に決められてしまい、それに見合った物を渡さなければという気 持ちもある。今度尚美に相談しようと決め、櫻花はスマホに意識を集中させる。
 ちょっと検索するだけで次から次へと桜な商品が出てくるので、楽しくてやめ時が分からなくなるのも毎年恒例のことだ。それが今年は一人ではなく二人で、 というのが櫻花の心をより浮き立たせる。
「なあ櫻花」
「なんですか?」
「こんだけ桜の商品があるのに、俺みてえなオッサンが持ってても可笑しくない物がひとっつもねえよな」
「……そうですね」
「楽しみにしてるからな?」
 岡崎の言わんとしていることを理解して、櫻花は己のやる気に火をつけた。これまでこのようなアドバイスをされたことなどなく、他の課員からしたら反則行 為に当たるかもしれない。それでも望まれているのだから、形にしなければ女がすたるというもの。
 今年の春には間に合わないが、来年には使ってもらえるようなんとか早く企画書を通したい。その一心で、消費者目線で検索していた桜グッズ達を、今度は メーカー目線でチェックしはじめた。
 櫻花がすっかり仕事モードになったのを見て、岡崎はそっとその場を離れた。次に出てくる企画書を楽しみにするため、あまり近くで過程を見ていたくなかっ たのだ。
 職場が離れる春からは、いくら隣にいても楽しみ自体が奪われているから大丈夫だという皮肉な状況になるのだが、その時はその時でまた別の楽しみを見つけ るだけのことだ。今は残り少ない“上司と部下の関係”を満喫するために、最大限の努力――といっても大したことではないが――をするのみである。
 そしてリビングのソファーから小上がりになっている和室に場所を移した岡崎は、櫻花のための誕生日プレゼントをこっそりと検索し始めるのだった。もちろ ん桜モチーフの商品である。
 これから日々櫻花の観察をして、好きそうな物、もう持っていそうな物など様々な要件を考慮しつつ候補を絞っていくことになりそうだ。
 窓の外はまだ寒風吹きすさぶ中、岡崎家には一足早く春が訪れたかのような空気に満ちあふれていた。