春の日│01

  春、四月。それは出会いと別れの季節だが、年とともにその感覚も段々と鈍ってくるもの。篠塚櫻花は、この四月で社会人生活五年目を迎えた。これ といった感慨を抱くこともなく、昨日の明日が今日、といった感覚で普通に出勤してきた。
 オフィスは解錠されているから、また一番乗りではなかったようだ。この四年間、他の社員よりも早く出勤することを心がけていたが、どうしても早さでは勝 てない人物がいた。その人物はいつも一番に出社し、課内全員の机を拭いて回るのだ。新人教育を受けていた頃、指導に当たってくれた先輩に「早く来て掃除し なくていいんですか」と聞いてみたものの、その必要はないとあっさり却下されてしまった。あの人は好きでやってるからいいんだ、と。
 とはいえ、一番のペーペーが何もしないで居られるはずがない。ある日、思い切って早めに出勤して「明日からは私がかわります」と申し出てみた。するとそ の人は、これでもかというほど迷惑そうな顔をして「必要ない」と切って捨てた。先輩が「好きでやっている」と言った意味をようやく理解した櫻花は、それで も感じずにはいられない申し訳なさを払拭するため、翌朝も同じ時間に出勤した。
 最初は、櫻花が出社してくる頃に拭き掃除をしていたその人は、年を経るごとに出社時間を早めていった。掃除の後に、その日の仕事の段取りを決めて準備を しているようだった。だから櫻花は、いつしか出社したらすぐその人のためにお茶を淹れるようになった。そうすることで、秘密の時間を共有している気分にな れるからである。
 また今日から新たな一年が始まる。この秘密の時間がいつまでも続きますように、と自分のデスクに荷物を置くと、お茶を淹れに給湯室へ向かおうとした。と ころが、いつも彼が座っているはずの場所が空席なのだ。しかも、その机の上は別人の持ち物で溢れかえっていた。
 櫻花はこの二、三年すっかり無視していた“出会いと別れの季節”というのを思い出し、心臓が早鐘のように打ち鳴らされるのを感じた。辞めるなんていう話 は聞いていない。それなら先月、部長の送別会をした時に一緒に別れを惜しんだはずだ。では異動ということだろうか。どこか他の部署から引き抜きにあったと いうことか。
 どちらにせよ、もう会えないかもしれない――
 櫻花は自分の顔から血の気が引いていく音を聞いた。いつまでも一緒に仕事が出来ると思っていたが、それは勝手な思い込みだったのだと、背中を嫌な汗が流 れた。
 とにかく人事に行ってことの詳細を聞かなければと、気付いた時にはオフィスを飛び出していた。始業時間まではまだ三十分ちかくあるが、誰かしら出社して いるだろう。人事は二つ上の階だ。エレベーターを待つより早いと、階段を上りかけたその時、給湯室から賑やかな笑い声が聞こえてきた。
「俺、毎朝この時間に出てこいって言われても無理ですよ」
「何事も慣れだ」
「そんなもんですかねぇ」
「ま、明日からはいつも通りで構わん」
「ありがとうございます。やっぱ朝はギリギリまで寝てたいですからね」
 コーヒーメーカーがコポコポと音を立て、辺りにはいい匂いが漂っている。その前で談笑しているのは、先輩の原謙吾と、櫻花の探し人である岡崎威夫だっ た。何が起こっているのか理解できない櫻花が立ち尽くしていると、その空気を察したのか二人が同時に振り向いた。
「あっ、篠塚さん、おはよう。どうしたの、随分早いね?」
「おはようございます……ちょっと早く目が覚めちゃったもので」
 いつもこの時間に出社しているとは言いづらかった櫻花は、咄嗟に当たり障りのなさそうな嘘を吐いた。それを聞いた威夫の眉が一瞬ピクリと動いたが、原の 方は櫻花の言葉をそのまま受け取った。
「ふぅん。なら家でゆっくりしてから出ればよかったのに。ま、たまにはこういうのもいいけどさ」
「ところで主任、あの……」
 どうして机から荷物がなくなっているんですか、という言葉が喉元でひっかかって出てこない。尚も櫻花が言いよどんでいると、原が何かを察したように語を 継いだ。
「あ、もしかして気付いた?」
「ええと、はい」
「そうなんだよねー、実は今日から俺が主任の席に座るんだよ」
 やはりそうなのだ。今この場にいるということは、会社を辞めるわけではないのだろう。だが見慣れたあの席からいなくなってしまうのだ。
 櫻花は、膝が小刻みに震えているのを自覚した。こんなことなら、砕けてしまってもいいから思いの丈をぶつけておけばよかった。別れがやってくる日がある ということを、どうして考えておかなかったのだろう、という後悔と自責の念が櫻花の中で渦巻いている。
 ゴポッ、シュー。コーヒーメーカーが一際大きな音を立てる。
「篠塚さんも飲む?」
 サーバーを手にした原がニッコリ笑いかけてくるが、とてもそんな気にはなれずに断った。
「まあ、詳しいことは朝礼で。ね?」
「はい……」
 結局、一番話をしたかった人とは会話もできず、すごすごとオフィスへ戻ることになってしまった。自席に座りちらりと斜め向かいの席を見やり、昨日までの 当たり前が今日からは当たり前ではなくなるのだと思うと、やるせない気持ちでいっぱいになる。
 先ほどまで静かだったオフィス内が徐々にざわつきはじめ、他の社員が出社してきたことを知る。いつまでもこうしてはいられない。櫻花はパソコンを立ち上 げ、今日の仕事の準備に取りかかる。正直なところ、とても仕事をする気分ではない。だが会社には働きにきているわけで、好きな人がいなくなるからといって サボっていいはずもない。
 櫻花が自分の心に鞭を打ちながらメールを確認していると、人事からの社内メールが届いていることに気付いた。恐らくここには、席移動の理由が書かれてい るのだろう。内容を確認するのが怖くて、他のメールを先に確認していく。やらなければならないことは山積みで、段取りを考えて準備をしているうちに始業時 間を迎えてしまった。
「ほら、篠塚さん。朝礼するから集まれってさ」
 隣席の鴻野葵に促され、櫻花はのろのろと立ち上がる。珍しいことに、今日は営業課との合同朝礼のようだった。広いフロアの一カ所に固まって待っている と、よく見知った顔が居並んでいるのが見える。櫻花の心がぎり、と痛みを感じた。
「えー、みんな人事からのメールで知っていると思うけど、ようやく営業部内の人事異動が決まりました。同じ部内での異動だから後回しにされたのか、それと もモメたのか、その辺のことはよく知りません」
 そこでどっと笑いが起こるが、櫻花はとても笑ってはいられなかった。視線はどんどん下がり、今は自分のつま先を睨み付けている状態だった。
「ということで、僕が今日から営業部長として出戻ることになりました。ついでに牧野係長を引き抜いてきました」
 どこからか「困りますー」という声があがり、また笑いが起きる。
「営業課を二課体制にするので、牧野君には新設する二課の課長をお願いしました」
「企画課から来ました牧野です。僕は嫌だとゴネたんですが、藤田課長……藤田部長がしつこく頼み込むので仕方なく折れることにしました」
 今度は営業課の面々から「嫌々なのかよー」「モメた原因はお前かー」などといった野次が飛ぶ。
「僕がこちらに来たからには、今まで以上に企画と営業、両課の緊密な関係を築いていく所存です」
 わあ、と歓声があがり拍手の音が聞こえる。櫻花は未だうつむいたままだ。
「牧野君をこっちに連れてきてしまったので、企画課は岡崎君に任せることにしました」
 その言葉を聞いた櫻花は、弾かれたように顔を上げる。今、なんて聞こえたのだろうか。何度も頭の中で繰り返しているうちに、その人が声を発した。
「企画課を任されることになりました。藤田部長の期待に添えるよう頑張りたいと思います」
 よかった。主任はいなくなるわけじゃないんだ。
 ほっとした櫻花は、じんわりと目に涙が浮かびそうになるのを我慢するのに必死で、原の挨拶など一切耳に入っていない様子。
「いやあ、サプライズは大成功だね。じゃあ、今年度も張り切って仕事しましょう」
 という藤田営業部長の挨拶でようやく我に返った。これにて朝礼は終了、皆各々自分の持ち場に戻って仕事を始める。
「それにしても、よくもまあ二週間も黙ったままでいてくれたものよね」
「え?」
「さっき原主任が言ってたじゃない。内示が出てから昨日まで、引き継ぎのために二週間も遅くまで残業した、って」
 葵の言葉に、櫻花は我が耳を疑った。本当に人の話を聞いていなかったなんて、情けないことこの上ない。もう社会人五年生なんだから、こんなことではいけ ない。大きく深呼吸をすると、気持ちを切り替えるようにバチンと両頬を叩いた。その音に驚いた皆に振り返られ恥ずかしい思いをしたが、そんなことを気にし ている場合ではなかった。
 櫻花は、再び斜め前の席をチラリと見やる。そこには、昨日まで見えていた人とは別人の頭が見えた。ふわふわの柔らかそうな髪が揺れている。そして少し遠 くの窓際の席に、求めていた人の姿があった。
 これまでより距離が遠くなってしまったが、頭だけではなく顔まで見られるようになったのはいいことなのかもしれない。
 我ながら現金だな、と思いつつ、櫻花はその姿を励みに仕事に精を出すことにしたのだった。