春の日│02

 営業部内の組織改編が行われた約二週間後、新入社員が配属されてきた。営業課には一課二課合わせて四名、企画課に一名の合計五名が新たな営業 部のメンバーとなった。
 櫻花は、入社五年目にして初めて新人教育を任されることになり、その日は朝から緊張していた。いつもの時間に出社し、いつものようにお茶を淹れる。この 四月から課長となった岡崎は、これまで以上に早く出社しているようだった。
「おはようございます、課長」
「ああ、おはよう、篠塚。毎朝悪いな」
 いつもと変わらぬやり取りが、櫻花の心に安らぎを与える。
「そういえば、今日から新入りが来るんだったな。篠塚、そいつがどう育つかはお前次第だ。頼んだぞ」
「……はい」
 せっかく少しほぐれた緊張の糸が、先ほどよりも強く張り詰める。櫻花は内心「なんてことを言ってくれるんだ」と思いながら、期待されていることに喜びを 感じてもいた。ようやく頼りにされるような存在になれたのかと感激もひとしおである。
 この四年間を思い返してみると、迷惑ばかりかけていた。そして、いつも助けられていた。今度はその恩を返していく番だ。
「困ったらいつでも相談しにくればいい。ただ、その前に、四年前のことをよく思い出してみることだ」
 四年前、右も左も判らなかった自分を育ててくれた先輩は、去年から長期の産休・育休に入っている。あの時、その先輩にどういう指導を受けたのかを思い出 しながら、自分なりに工夫していけたらいい。
 櫻花は、早速のアドバイスに感謝した。この人はいつもさり気なく助けてくれる。自分もいつかこうなりたいと、改めて心の中に高い目標を掲げた。

「おはようございます。今日から企画課に配属された中畑志乃です。よろしくお願いします!」
 朝礼で紹介された新人の中で、ひときわ元気な声が響く。はきはきとしていて、いかにも元気の塊といった感じだ。櫻花は、自分とは対照的なその新人を、本 当に指導できるのか不安になってきた。
 朝礼も終わり、櫻花は新人の中畑志乃を連れて会議室へ向かった。今日は一日、ここでオリエンテーションをすることになっていたのだ。緊張の面持ちで後ろ についてくる新人の緊張が、空気を伝ってこちらに襲いかかってきそうな感覚に囚われる。
 テーブルが二本しかない小さな会議室に、二人並んで腰をおろす。
「まずは自己紹介しようか。篠塚櫻花です、よろしく」
「中畑志乃です、よろしくお願いします!」
 ぺこりと頭を下げる仕草がなんとも可愛らしくて、櫻花の頬は自然に緩くなる。
「最初にこれを渡しておきます」
 櫻花は、一枚の紙を差し出した。
「なんですか、これ?」
「営業部内の座席表。まず一番最初にすることは、部内の人の名前を覚えること。今朝、朝礼であなたを紹介してくれたのが藤田部長」
「部長のお顔とお名前はもう覚えました。朝礼前にお話させていただいて、すごく楽しい方だなって思いました」
「そうね。それから、次に覚えておくのは企画課の皆。営業課は、出入りも激しいし追々でいいわ。でもなるべく早く覚えること」
「はい」
 その後、大まかな業務の流れを説明しているうちに、十二時の鐘が鳴る。櫻花が手渡した資料にはびっしりと書き込みされ、質問も多い。櫻花は説明力不足を 感じずにはいられなかった。もう少し判りやすい資料を作れなかったものか。初日の午前中だけでも反省材料だらけだ。
 櫻花が小さく溜息を吐いた時、会議室のドアがノックされた。
「おー、やってるやってる」
 開いたドアからひょこっと顔を出したのは、主任の原だった。
「課長がね、お昼おごってくれるから早くおいでって。二人とも急いで、急いで」
 思いがけず岡崎と昼食を摂ることになり、櫻花はうろたえた。これは毎年恒例のことで、軽い面接のようなものだというのは解っている。それでも緊張せずに はいられなかった。
 岡崎に連れられて入った店は、鰻の寝床のような間口の狭い和食屋で、「ごはんや」という看板を掲げているだけあって、とにかく白米の美味しい店だった。 ごはんが進むおかずといえば濃いめの味付けになりがちだが、この店では“おかずはごはんの引き立て役”という考えのもと、控えめな味付けになっていた。だ からと言って薄味ということもなく、絶妙なバランスが素晴らしい。こういうのを「いい塩梅」と言うのだと、櫻花は関心しきりだ。是非とも家で真似をしたい と、目の前の料理に集中する。もっとも、半分以上は現状から目を逸らしたいという心境の現れでもあったのだが。
「それで、どうだ?半日やってみて、なんとかなりそうか?」
 岡崎の問いに、中畑は「頑張ります」と答えている。その元気はつらつさが、櫻花には頼もしくもあり眩しくもある。隣にいる太陽が輝けば輝くほど、陰は暗 く濃くなるというもの。それならばいっそ、太陽の眩しさで自分の存在を隠してもらおう。櫻花は少しねじ曲がった方向に考えを至らせ、それを新人教育の最終 目標に定めた。
 この子の個性を最大限生かせるように導いてあげなければ。
 心の中で導き出した結論に満足し、納得顔で箸を進める櫻花の耳に、原と中畑の会話が入ってきた。
「中畑さんって下の名前志乃ちゃんだったよね?」
「はい」
「篠塚さんと志乃ちゃんでしのしのコンビだねー」
「しのしのコンビ……」
「ダブルしの、でもいいよ?」
 中畑が返答に困っている。こんな快活な子でもさらっと受け流せないこともあるんだなあ、と妙な感心をしてしまい、櫻花は助け船を出すタイミングを失っ た。
「こいつの、仕事以外の話はまともに取り合わなくてもいい」
「えー、酷いなあ。俺はいつでも本気なのに」
「なら改めろ」
 櫻花のかわりに助け船を出したのは岡崎だった。原と二人、軽妙な会話が繰り広げられ、中畑の強張った顔にも柔らかさが戻ってきた。
 人を育てるというのは難しい。いついかなる時も、その人のことを見ていなければならない。時に厳しく、時に優しく、困っていたら手を差しのべ、または自 分で乗り越えさせる。
 櫻花は今更ながら重い責任を感じた。だが時は止まらないし、巻き戻らない。それは櫻花が一番よく解っていることだ。だから、後悔のないように頑張ろうと 決めた。つい先刻、中畑をまばゆい太陽にするという目標も立てたのだ。僅かなことで落ち込んでなどいられない。
 岡崎と原、中畑の会話を見守りながら、櫻花は密かに気合いを入れ直す。岡崎がその様子をちらりと目の端で見ていたが、どうやら櫻花は気付いていないよう だった。

 賑やかな昼休憩を終え、午後からはフロア内にある設備等の説明に回る。新人を連れて歩いていると、すれ違う人皆に声を掛けられる。物珍しさと好奇心の入 り混じった、実に楽しそうで無遠慮な視線を投げつけられ、隣にいる櫻花ですら居心地の悪さを感じずにはいられなかった。それでも嫌な顔ひとつせず、一人一 人丁寧に挨拶と自己紹介を繰り返す中畑を見て、この子は本当に器が大きいなあ、と嘆息する。社会人としては当然のことかもしれないが、皆が皆、入社直後に それが出来るわけではないのだ。
 会議室に戻ると、どちらからともなくほっと溜息を吐く。
「中畑さんは大物だね」
 つい漏れ出た心の声を聞き、言われた当の本人は小首を傾げる。
「そんなことないですよ。篠塚さんがいて下さるから、なんとかやれているだけです」
 その言葉は謙遜ではなく本心だと感じ、櫻花は嬉しいやら恥ずかしいやらで、身体中がむず痒い。でも人から頼られるのは悪い気はしないし、その期待に応え られるようにしなければと気合いも入る。
 そろそろいい時間ということもあって、今日一日で生じた疑問などに答えて終わりにする。櫻花が、この後は定時まで雑談をしていよう、と思った時のこと。 ふと思い出したように、中畑が質問をぶつけた。
「そういえば、私、明日は何時に出てくればいいんですか?」
「え?」
 質問の意図が解らず聞き返す。
「私、新入りですし、早く来て掃除とかしないといけないんじゃないですか?」
「ああ、そういうこと……」
 そのまま思い出さずにいてくれたらよかったのに、などと答えられるはずもない。仕方なく、櫻花は事実を淡々と伝えることにした。
「朝の掃除は課長の日課なの」
「そうなんですか!?」
 驚く中畑を見て、四年前の自分を思い出す。そりゃあ驚くわよね、と思いながら櫻花が口にしたのは別の言葉。
「だから、遅刻しないように来てくれればいいから」
「でも……」
「私もね、新人の時はそう思ったの。でも、課長に余計なことをするなって怒られちゃって」
 怒られた、というのは嘘だ。だが余計なことをするな、と言われたのは事実だったから、櫻花は少しばかりの罪悪感には目をつむる。
 自分勝手なことだとはよく解っているが、それでも、朝のひとときを誰にも邪魔されたくないという気持ちが勝ってしまう。
「そうなんですか?じゃあ普通に出勤してきます。怒られるの嫌ですもん」
 素直に頷く中畑を見て、櫻花の心はずしんと重くなる。自己嫌悪に苛まれながらの雑談は、その内容を一切覚えていない。適当に相槌を打っていたら五時の鐘 が鳴った、といった感じだった。
「篠塚さん、今日は一日ありがとうございました。明日からもよろしくお願いします!」
 そう言い残して元気に退社していく中畑の背中を見送りながら、櫻花は脱力感に襲われていた。自分では気付いていないが、相当緊張していたようだ。ヘナヘ ナと椅子に座り込むと、なかなか立ち上がれない。隣席の鴻野葵が、その様子を見てクスリと笑いを漏らす。
「大変そうね」
「疲れました……」
「私も最初はそうだったわ。見ての通り、原主任も元気な子だったからねー。なんか、その元気に当てられちゃうっていうか、生気を吸い取られるっていうか」
「そうなんです!」
「でも、それに釣られて自分も成長できるのよ?」
「……今日一日で、私がどれだけ駄目人間なのかを思い知らされました。でも、これを糧に成長しないといけないんですよね」
「そうそう、その調子。ま、今日のところはさっさと帰ってゆっくり疲れを癒やすことね。また今度飲みに行きましょ。愚痴でも相談でも、何でも聞いてあげる から」
「ありがとうございます」
「いいのよ、あなたのことをくれぐれも頼む、って美佳から言われているから」
 思わぬところで出てきた先輩の名前に、櫻花はじんと胸が熱くなる。この鴻野葵と櫻花を指導した旧姓・黒江美佳は同期入社で、とても仲が良い。美佳が産 休・育休に入った今でも連絡を取り合っており、今回櫻花が新人を指導すると聞いて友人にバックアップを頼んだのだった。
「美佳も私も、それから岡崎課長も原主任も、みんなあなたに“一皮むけて欲しい”って思っているのよ」
 じゃあね、と手をひらひら振って帰っていく後ろ姿を見送りながら、櫻花はしみじみと考える。こんなにもいい人達の視線を、あの時なぜあそこまで怖がった のだろう、と。結局そのわだかまりを抱いたまま、ここまで来てしまった。自分の殻に閉じこもって、目立たず騒がず、ひっそりと過ごしてきた。元からそうい う気質だったとはいえ、そろそろ少しは変わるべき時なのかもしれない。
 櫻花は、とりあえず先輩の言に従い、早く帰って疲れを癒やすことにした。そうすれば、この混乱した頭も少しはスッキリするだろう。今後どうしていくか は、それから考えればいい。
 こうして、櫻花にとっての波瀾万丈な新人教育初日は幕を閉じた。