〜銀色の翼〜
櫻花は、ざわつく店内で一人、嫌なことを思い出しては苦い顔をしている。酒はそう強くない方だが、こういう気分の時にやたらと飲みたくなるのは、
世のサラリーマンの共通項だろう。
明日から五月という今日、中畑志乃の歓迎会が行われている。会場のイタリアンバールは、宴会コースなのにきちんとしたイタリア料理が出てきて、そのどれ
もが美味しい。バールとは名ばかりの料理に驚くが、それで嫌なことを忘れられるはずもない。
「食べ物の味は判るんだ……」
いくら気分が沈んでいても、美味しいものは美味しいと判断できる程度の落ち込み具合なのか、と櫻花は余計に気が滅入る。本当は悲劇のヒロインなどではな
く、結局は自分の蒔いた種が育ったのを刈り取れず、困った困ったと言っているだけの無能者だというのを、己自身が一番理解していたのだ。
本日の主役である中畑は、所謂お誕生日席に座って皆からのお酌を受けている。どうやら酒はかなりいける口のようで、顔色一つ変えていない。酒は好きだが
余り強くない櫻花にしたら、羨ましい限りだった。
天は二物を与えず、というのはやはり嘘なんだなあ。中畑を見やりながらそんなことを思い、目の前にあったトリッパに手をつける。美味しいのに不評のよう
で、皿にはまだ大量に残っていた。
そんなトリッパが不憫に思えてきた櫻花は、なぜかそれを食べ尽くさなければならない、という使命感を抱いてしまった。他にも料理は並べられており、たか
だか前菜のひとつに全食欲を傾ける必要などないのに、どうしてもそうしたい気分になっていた。
恐らく酔っ払っているのだろうな、という自覚はあるようで、飲み物は酒からジュースに切り替えていた。ただ、ブラッドオレンジジュースを飲みながらひた
すらトリッパを食べている姿は、やはり傍から見たら異様に映る。いつの間にか隣に座っていたらしい原が、驚いて声を掛けた。
「ちょっと篠塚さん、どうしたの?大丈夫?」
「大丈夫です」
「いや、大丈夫には見えないけど……」
大丈夫じゃない人間ほど大丈夫だと答えるもの。心配になった原が櫻花の顔をのぞき込み、目を瞠る。そこには彼が今まで見たことのない表情をした櫻花がい
たのだ。その瞳には哀しみを湛え、今にも涙が零れ落ちそうだ。
原はそれを見て、不覚にも心臓が高鳴った。原が知る櫻花は、いつも無表情で何を考えているか判らず、年末になるにつれ不機嫌になっていく、という人物
だった。特にこれといった特徴もなく、目立たぬ存在。しっかり者ではあるが何か物足りなくて、一回り成長してほしいという岡崎と原の意向で今日の主役であ
る中畑志乃の教育係を任されたのだが、この顔はそれが原因なのだろうか。
ドキドキする心臓を宥めつつ、原は櫻花に仔ヒツジの香草焼きを勧めた。
「元気がない時はお肉を食べるのが一番だよ」
櫻花は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにそれは引っ込んだ。そして可笑しそうに言う。
「これもお肉です」
「うっ……でもそれ内臓だよ?」
「牛の胃ですね」
「部位は別にどうでもいいんだけどさ……」
返答がどこかズレているのは、おそらく酔っているせいだろう。顔どころか首まで真っ赤に染めている櫻花を見ながら、ぼんやりと考える。恐らくこんなにス
トレートに感情を表に出しているのも、酒の力があってのことに違いない。
もう少しだけ、こんな無防備な姿を見ていたい。原がそう思った次の瞬間、どこからか鋭い視線を投げつけられた。それはほんの一瞬の出来事で、改めて周囲
を見回しても皆それぞれ歓談していて、こちらのことなど誰も気に留めていないように見えた。
だが原が再び櫻花に目を向けると、今度は先ほどより無遠慮に視線が突き刺さる。
元来のほほんとしている原にも、その視線の意味は解った。心の中だけでニヤリと笑い、それ以降は痛いほどの視線を無視することにした。
「その臓物は俺が引き受けるから、篠塚さんはこっちを食べなよ」
ほらほら、と言って仔ヒツジの香草焼きを差し出す。
「これはトリッパという、ハチノスのトマト煮込みです」
「はいはい。前菜ばっかり食べてないでメインも食べようね」
いきなり自分をあれこれ構いだした原に困惑しつつ、櫻花は言う通りにした。確かに、せっかく会費を払っているのだから、前菜だけでお腹いっぱいにしてし
まうのも勿体ない気がしたのだ。
原に引き取られていくトリッパを見ながら、櫻花は心の中で「全部食べられなくてごめんね」と呟く。その考え方の滑稽さに今更ながら笑いを漏らし、今度は
仔ヒツジの香草焼きに向き合った。
やはり“肉”と“内臓”は食べ応えが違う。そんな当たり前な感想を抱きながら、櫻花は料理を平らげていく。羊独特の臭みもなく、柔らかい。美味しい、と
思った頃には、どうして気分が沈んでいたのかすら忘れかけていた。
「はい、次はこれ」
原が次に差し出したのは、ペンネアラビアータ。
「辛いの食べたらテンション上がるよ?」
そう言ってにっこり笑われたら、櫻花としても断るわけにはいかない。鷹の爪を効かせたトマトソースが、ペンネに絡んでとても美味しい。ブラックオリーブ
を一緒に食べると味に変化が出て、これまた美味しい。
原の言う通り、辛い物を食べると不思議とテンションが上がる。暗い気持ちはすっかり晴れ、隣から次々差し出される食べ物を美味しくいただくことだけに集
中していた。
「そうそう、美味しいものは笑顔で食べないと。せっかくの料理がもったいないでしょ?」
「そう、ですね……」
雰囲気も料理のうち、とは言うが、それは食べる側の人間にも言えることなのだ。暗い顔をして食べるより、楽しく笑顔で食べる方が数倍美味しいに決まって
いる。当たり前のことを思い出させてくれた原に、櫻花は感謝した。
急にあれこれ世話を焼いてくれたのは、きっと自分が雰囲気を壊すような態度を取っていたためだろうと結論付け、櫻花は改めて原に礼を言う。
「主任、ありがとうございます。私、みんなに嫌な思いをさせる所でした」
「ん?どういうこと?」
「あの、だから、私が一人でマイナスオーラを発していたから……」
「あー、というより、篠塚さんが泣きそうな顔してたからさ。元気出してもらいたかっただけ」
今度は櫻花が瞠目する番だった。負の感情に満たされてはいたものの、泣きそうな顔をしていたつもりなどなかったのに、この人にはそう見えていたのだろう
か。
「私、そんな顔してました……?」
「してたよー。新人教育うまくいってないのかな、って思ったんだけど。どう?」
そう言いながら頬杖をついてこちらを見る仕草に、櫻花は目を奪われる。その格好がなんとも言えず様になっているのだ。心に別人を住まわせている自分でさ
えそうなのだから、彼に好意を持っている人が見たらきっとイチコロだろう。
眼福、眼福。櫻花は思わず頬を緩める。先ほどからどうも原の前だと調子が狂い、つい感情が表に出てしまうのを自覚していた。
「笑えるなら大丈夫そうだね」
「……ご心配おかけして申し訳ありません」
「いいのいいの、責めてるんじゃないから」
だからね、と原は言う。
「篠塚さんはもうちょっと感情を表に出した方がいいんじゃないかな」
ああ、でもあんまり笑顔を振りまかれても、社内の男共が篠塚さんの魅力に気付いちゃうからそれはそれで困るなー。などと言ってけらけら笑っている原の顔
を、櫻花はただ黙って見つめていた。
こんな屈託のない笑顔を惜しげもなく披露できる人には、きっと自分の気持ちなど理解できないだろう。感情を表に出せば周囲に軋轢が生まれ、その都度嫌な
思いをするのはこちらなのだ。昔はそれも我慢できた。クラスメイトとの関係が悪化しても、卒業までの年数を指折り数えて待てばよかったのだから。だが会社
ではそうもいくまい。櫻花も今の仕事が嫌いではないし、出来れば長く勤めたいと思っている。ここで居心地を悪くしてしまっては、永年勤務が出来なくなって
しまう。だから余計に、四年前、自分の歓迎会の席で珍しく感情を露わにしたことを未だに引きずっているのだ。
それにもうひとつ、櫻花には感情を表に出せない理由がある。別のテーブルで静かに酒を傾けているその人が原因だ。もしこれから感情的な態度を取ることに
したとして、胸に秘めた想いを一切漏らさずにいられる自信がないのだ。彼に関する嬉しいことや辛いことも、感情を押し殺しているからこそ耐えられるので
あって、その仮面を外してしまった時、自分がどうなってしまうのかを考えるのが怖かった。
櫻花も、原や中畑のようなストレートな性格の人を羨ましいと思わないでもない。が、人には向き不向きというものがあるのもよく知っている。だから、原の
助言には頷かず、料理を食べることに専念した。
そんな失礼な態度を取っているにもかかわらず、原は櫻花の隣から動こうとしない。それどころか益々楽しげに世話を焼いてくる。再び黙り込んだ自分を心配
してのことだろうと思った櫻花が、弁明しなければと口を開きかけたその時、幹事が締めの挨拶を始めた。
「えー、宴もたけなわの所ではありますが、一端この場はお開きということにしたいと思います」
その言葉でざわめきが消え、皆が幹事に注目する。
「では最後に、締めの言葉をお願いします」
幹事に促されて、渋々といった態で岡崎が立ち上がる。こんな機会は滅多にないとばかりに、櫻花はまばたきも忘れて岡崎を見つめた。
「この春から色々と体制も変わって大変だと思うが、新人は皆で育てるものだと思って欲しい。ただ、二人にしか解らないこともあるだろうから、闇雲に口を出
すのではなく、必要な時にそっと手を差しのべられるよう見守ってやって欲しい」
岡崎の言葉に、一同はうんうんと頷いている。一方の櫻花は、その言葉を聞いてじんわりとこみ上げてくるものを我慢するのに苦労していた。
「では、今日はこれまで。解散」
皆が帰り支度を始める。いつまでも一人、感激に浸っているわけにもいかない。櫻花はのろのろと鞄と上着に手を伸ばす。周囲から二次会がどうの、という会
話が聞こえてくる。中畑が行くなら自分も行かなければ、と思いながら、頭の別の部分では先ほどの岡崎の言葉が繰り返し流れている。同時に二つのことを考え
られるんだ、と冷静に思っている自分もいて、櫻花の頭は混乱していた。
自分でも頭の中を整理できないまま店の外に出ると、中畑が駆け寄ってきた。
「篠塚さん、私も二次会に出ないと駄目ですか?」
「ううん、無理しなくてもいいよ」
「そうなんですか!?よかった……実は私、カラオケとか苦手で」
「そうなの?じゃあ一緒に帰ろうか」
「はい!」
この子にも苦手なものがあるのかと、教え子の新たな一面に驚きつつ、一次会で帰る集団と一緒に駅へ向かう。
他愛ない会話が途切れ、少しばかり沈黙が流れた後に中畑が口を開く。
「……皆さん、いい人達ばかりですね」
「そうだね」
「私、篠塚さんが昔、ついあのことを口走っちゃったのが解る気がします」
「そう」
「皆さんがいい人達ばかりだから、きっと気が緩んじゃったんですよ。だからもう、あんまり気にしないで下さい」
「ありがと」
教え子にまで心配をさせるとは、本当に余計なことを言ったものだ。美味しいごはんを食べて忘れていた、嫌なことを思い出しては過去の自分を恨めしく思
う。
「でも、クリスマスが嫌いなのは今でも変わらないから」
櫻花が苦々しげに吐き捨てた言葉にも気後れせず、中畑は言葉を繋ぐ。
「そうなんですか?じゃあ、今度その理由を教えて下さい」
「……いつか、その気になったらね」
「解りました!じゃあ頑張ってその気にさせます!」
必死で女を口説いている男が言いそうな台詞に、櫻花が思わず吹き出した。それを見て中畑も一緒に笑い出す。
二人でひとしきり笑ったところで、駅に到着した。櫻花が、先ほど八つ当たりのように酷い言葉を投げつけたことを詫びると、中畑はキョトンとした顔をして
こう言った。
「そんなことより、今度は二人で飲みに行きましょうね!」
その明るい笑顔に救われ、櫻花はほっと胸をなで下ろす。そして今度こそ二人は別れ、それぞれの家路についた。
その様子を、少し離れた所から見守っている人物がいた。彼は二次会に行くメンバーに軍資金を手渡してから駅に向かったため、先を行く集団より遅れて歩い
ていたのだ。
隣に纏わり付いてくる原の話に適当に相槌を打ちながら、視線はまっすぐ前を向いたままだった。前を歩いている二人の会話の内容までは聞こえないが、こう
して見ている限りでは上手くやっていけているように見える。
「大丈夫そうだな」
「そうですねー」
原の笑いを含んだような返答に、苛立ちを禁じ得ない。にやけた視線を向けられるのも気にくわない。岡崎は、むっつりと黙りこくったまま駅へと歩を進め
た。
駅に着くと、前の集団が方向別に別れて進んでいく。前を歩いていた二人も同様に別れ、原が「じゃあ俺こっちなんで!」と集団の片割れに向かって駆けてい
く。
岡崎は、鋭く一瞥してその後ろ姿を見送ると、踵を返し雑踏の中へと消えていった。