〜銀色の翼〜
ゴールデンウィークが明けると、いつもの日常が戻ってくる。今年入ったばかりの新人・中畑志乃は、今日も元気に出勤してきて、いつも通りきちんと
働いている。教わったことは全て覚えようと、傍で見ているこちらまでその熱意が伝わってくる。どうやらこの新人は世間一般で言うところの『五月病』とは無
縁のようである。
一方、その彼女の教育係である櫻花は、朝からどんよりしていた。この休み期間中、ずっとあることを考え通しで、答えも出ず思考もこんがらがって出口が見
つからないまま今日を迎えてしまったのだ。
マイナス思考の櫻花が考え込むのはよくあることだが、今回のように底なし沼にはまって抜け出せないようになるのは初めてのことだった。どことなくぼんや
りしていて、なにかと言っては溜息を吐く。
「篠塚さん、私、何か間違ったことをしましたか?」
隣に座っている中畑が不安になって訊ねるほどだった。
「ううん、ごめんね。何でもない。私が悪いだけだから、気にしないで」
気にするなと言われたら余計気になるものだが、今日はそういう日なのだろうと割り切った中畑は、与えられた仕事に精を出すことにした。その姿を横目で見
て、櫻花は益々落ち込んだ。今の所、業務にはそれほど支障を来していないが、新人教育には悪影響が出始めている。
とにかく早くこの問題を解決しなければと、櫻花は総務課にいる同期の友人に社内メールを飛ばす。程なくして返信があり、とりあえず今日の終業後に話を聞
いてもらえることになった。
そうと決まれば、定時までは仕事に集中するだけだ。櫻花は、うじうじしている割には切り替えの早い方なので、午後にはすっかりいつも通りに戻ったように
見える。方向性が定まれば後は一直線に進むタイプなのだが、それが定まるまでに異様に時間がかかるのが櫻花だった。
四年前の失言を未だにあれこれ考えているのもその証拠で、櫻花の中でその出来事が消化し切れていないから尾を引いているのだ。スッパリと「これでお終
い」と思い切れる事柄ではないせいで、この問題が解決するにはもう少し時間が必要だろう。つまりは、櫻花は融通の利かない“遊び”のない人間ということ
だ。
駅近くの創作居酒屋は、全ての席が半個室になっていて、内緒話をするにはうってつけだった。櫻花と友人の西本尚美は、よくここで仕事の愚痴や私生活の悩
みなどを話し合っている。
「お待たせしました」
飲み物と料理が運ばれてきた。それまで近頃の天候はどうだとか、最近テレビでよく取り上げられているスイーツがどうだとかいった当たり障りのない会話を
していた二人は、とりあえずグラスを手に取り乾杯をする。
「お疲れー」
「乾杯」
まずは渇いた喉を潤し、人心地ついたところで尚美が口を開く。
「で?今回は何?」
友人の鋭い口調にたじたじとなりながらも、櫻花はゴールデンウィーク中にずっと思い悩んでいた事柄を打ち明けた。
「休み前に中畑さんの歓迎会があったんだけど、その席で課長が『新人は皆で育てるものだと思って欲しい。ただ、二人にしか解らないこともあるだろうから、
闇雲に口を出すのではなく、必要な時にそっと手を差しのべられるよう見守ってやって欲しい』って言ってね」
「うん」
「その言葉を聞いてもの凄く嬉しかったんだけど、家に帰って落ち着いたら怖くなってきて」
「うん」
「元々優秀な中畑さんを、私が指導することで駄目にしちゃうような気がするの」
「うん」
尚美は余計な口を挟まず、櫻花が思い悩んでいることを全て吐き出すのをじっと聞いている。
「鴻野さんが言うには、課長達は私に一皮むけてほしいから教育係を任せたって」
「うん」
「期待されて嬉しい気持ちもあるし、頑張らなきゃなって思うんだけど、何をどう頑張れば一皮むけるのかも判らなくて」
「うん」
「だいたい、私に指導なんて向いていないんじゃないかって思って……」
櫻花はそれきり黙り込み、グラスの中の氷をじっと見つめている。
「ふぅん」
尚美は、目の前にある軟骨の唐揚げをひとつ口に放り込むと、ゴリゴリという食感を楽しむ。そして、少し考えを巡らせてから櫻花に向かって言う。
「櫻花はさ、もうちょっと自分自身を認めてあげた方がいいと思うよ」
「自分を認める?」
「そう」
尚美からしてみれば、櫻花は自己評価が低すぎるのだ。恐らく幼少期の出来事からきているものだと推測されるが、それからもう二十年近くが経過している。
そろそろ過去の呪縛から解き放たれてもいい頃ではないか。
友人付き合いを始めてからまだ五年目に突入したばかりだが、できることなら過去に戻って彼女を助け出してやりたいとさえ思っている。しかしそんなことが
出来ないのは重々承知しているので、今出来る精一杯のことをして、この友人の心の重荷を外せないかと奮闘しているのだ。
「岡崎課長や鴻野先輩は、櫻花なら新人指導をするに足りると思って任せてるのよ。それだけあんたを認めてるってこと。でも櫻花自身が自分を認めてあげない
から、混乱して簡単な答えも見えなくなってるんじゃない?」
今度はもちとチーズの春巻きをぱくり。これ美味しいわね、などと言いながら空気が重くならないよう軽い調子で言葉を続ける。
「それにね、意識して成長しようとしたって無理な話よ?」
「そうなの?」
「だってそうじゃない。いい企画書出したいなぁ、って思ってるだけでいいものが出せる訳じゃないでしょ?」
「それはまあ、そうだけど……」
「頑張って、努力して、工夫して、その結果、気付いたら成長しているものなのよ」
尚美は空になったグラスを端に寄せ、メニューをめくる。次に頼む飲み物を物色しながら、長年言いたくて仕方がなかったことを櫻花に伝えた。
「櫻花は、もっと自信を持たなきゃ駄目。なりたい自分になれるよう努力して、そして自分でその努力を認めてあげるの。そうしたらきっと、今よりもっと楽に
生きられるようになるわよ」
四年前、新人研修で隣同士に座ったのが二人の交流の始まりだった。はっきりきっぱりさっぱりしている尚美と、ネガティブ思考全開の櫻花はなぜか馬が合っ
た。配属先が決まってからも、同期会があるといえば二人連れ立って参加し、帰りも二人一緒。時折こうして互いの相談を持ちかけ合い、時には喧嘩をして、そ
れでも仲良くやってきた。
そんな付き合いを続けていく中で、尚美にはひとつ気になる点が出てきた。櫻花はなんでもそつなくこなすくせに、全てにおいて自信がないということ。自信
というのは持ちすぎても困るが、なさすぎても厄介なもの。おまけに自己評価も低いから、これらを変えていくのは至難の業だった。
それでも、尚美は櫻花の考え方を少しずつ軌道修正していった。そのおかげもあってか、最近ではあまり自己否定の言葉も聞かなくなったし、尚美の前では素
の状態をさらけ出してくれている。後はこれを職場でも出来ればいいのだが、一足飛びにそこまで求めるのは酷というものだろう。
「なりたい自分、か……」
「いい機会だし、考えてみたら?頼れる先輩でもいいし、かわいい部下でもいいし、櫻花なら何にだってなれるわよ」
「そうかなぁ」
「そうよ」
友人の言葉をいまひとつ信じられない櫻花であったが、それでも「なりたい自分になる努力をする」というのは心に響くものがあった。これまでただひたすら
目立たぬよう、波風立てぬよう、ひっそりと過ごしてきた。だからと言ってそれが櫻花の望んだ生き方かといえば決してそうではない。
――やはり一皮むけるべく努力をした方がいいのかもしれない――
その結果何がどうなるかは判らないが、やるだけやってみよう。櫻花はそう心に決めた。
「じゃあ、ちょっと頑張ってみる」
「そう。じゃあまずは、会社でどうありたいかを考えないとね。あんたの今の悩みのほとんどは、指導員としての自信のなさから来てるんだから」
「うん」
櫻花は、ウーロン茶のグラスを片手に、今日尚美に言われたことを思い出す。「自分を認める」「自信を持つ」といった、これまでやったことのないことをや
らねばならない。しかも自分に対して。
「大変だなあ……」
頭を抱えたくなるが、ここで逃げ出すわけにはいかない。これを乗り越えて初めて“なりたい自分”を目指すことが出来るのだから。第一歩を踏み出す前に、
諦めるわけにはいかない。
しばし逡巡したのち、櫻花は意を決して口を開いた。
「尚ちゃん、私、やっぱり課長みたいになりたい」
あんたの課長好きも相当なものね、と尚美に笑われるが、それでも櫻花は岡崎を目標に定めた。仕事が出来るのは言うまでもなく、部下のことを見ていないよ
うで実はきちんと見ている所などは本当に凄いと思うのだ。尚美に言うと「当たり前じゃない、それも管理職としての仕事なんだから」と言われそうなので黙っ
ているが、あの視野の広さ、勘の鋭さは、真似は出来ずとも見習うべきだろう。
「岡崎課長といえばさ、商品開発の女豹が狙ってるって聞いたわよ」
「えっ!?」
尚美からの情報に驚いて、櫻花は言葉を失った。商品開発の女豹こと簑田京子は、櫻花達と同期の二十六歳で、つい先日までとある取引先の部長――周囲には
秘密にしている尚美の恋人――に猛烈アタックをしていたのだ。
「遠くの部長より近くの課長、って思ったんじゃないの?」
あー、せいせいした。と尚美は笑っているが、櫻花はとても笑える心境ではなかった。なにしろ簑田京子という女性は貪欲で、恋も仕事も両方手に入れたいと
いうタイプなのだ。俗に言う結婚適齢期を迎えた今、次に定めるターゲットが“結婚相手”なのは間違いないだろう。そんな肉食系女子が、自分が想いを寄せて
いる人を狙っていると聞いたら、誰でも心中穏やかではいられなくなるというもの。
櫻花は、あのプライドが高そうな簑田が岡崎の横に並んでいる所を想像してみた。美男美女でお似合いだなあと思う反面、えもいわれぬ不快感でいっぱいに
なった。
「絶対に嫌……」
心の声が漏れ出てしまう。
苦虫を噛みつぶしたどころではない、口の中を苦虫でいっぱいにしたような顔をしている櫻花に、尚美ははっぱをかける。
「じゃあ、あの女豹には負けられないわね」
「そんなこと言われても……」
「さっき変わりたいって言ってたでしょ?ならこの機会をモチベーションにすればいいじゃない」
ただ自分を変えると言っても、高すぎる目標を掲げていては挫折するのは目に見えている。だが、目の前に看過できない問題が発生し、それを阻止する為なら
ば、努力を続けることもできるだろう。それが恋愛関連なら尚更である。
つい先日まで簑田京子の存在に悩まされてきた尚美には、ここで櫻花が自分を変えられるかどうかが、この戦いに勝てるかどうかの肝になるように思えた。と
にもかくにも、櫻花が岡崎の気を惹かなければ話にならない。
「全面的にバックアップするから」
「わかった。頑張ってみる」
恋のパワーというのは、それまで頑なだった心をも動かすことができるのだ。今日、ここに自分を呼び出した当初の悩みなど霧散し、すっかりやる気になって
いる櫻花を見て、尚美は心の中でガッツポーズをした。櫻花自信が「変わりたい」と強く願い、それを実行することこそが、全ての問題解決へ繋がる一本道なの
だから。
面倒なことになりそうではあるものの、尚美は簑田に感謝の念すら抱いていた。櫻花が本気を出しさえすれば、あの肉食系女子など敵ではないという確証めい
たものが、尚美の中には宿っていた。
とりあえず、今日のところは楽しく飲んで食べて、そして明日からの戦いの日々へ備えよう。
二人はその後、もうこれ以上は無理というぐらい料理と飲み物を詰め込み、明日からはダイエットもしないと駄目だね、と笑い合うのだった。