初夏の候│01

 「篠塚、ちょっと」
 尚美との決起集会から数日経ったある日、櫻花は岡崎にちょいちょいと手招きをされ、フロアにある小さな会議室に来るよう言われた。
 そこには岡崎の他に、営業課の王、牧野の両課長と部長の藤田が揃っていた。朝から部内の会議があったのは知っていたが、何の理由があってその場に呼び出 されたのか全く見当がつかず、櫻花は言葉を掛けられるのを待ってただ立ち尽くすことしか出来なかった。
「まあまあ、そんなに怖がらなくても」
 この中で積極的にコミュニケーションを取ったことがないのは王だけで、藤田も牧野も春までは同じ企画課で働いていたから、知らない仲ではない。王にして も全く話したことがない訳でもないし、彼らを怖いと思ったことなど一度もない。それでも、藤田にそう言われてしまったのは、やはり櫻花の顔が緊張していた からだろう。
 面談の予定が入っていたわけではないから、何か大きなミスを犯したのではないかと、櫻花は頭の中で最近の仕事内容を振り返り、それに比例するようにどん どん不安が増していった。自分で気付いていたら、こんな所に呼び出されるほど大事にはなっていないのだから。
「篠塚、とりあえず座れ」
 岡崎に促されて彼の隣にちょこんと腰掛けるが、余りの場違い感に肩身が狭い。小さく縮こまって叱られるのを待っているが、叱責の言葉が降ってくる気配が ない。さすがの櫻花も「おかしいな」と思い始めたところへ、藤田が悠然とした笑みを浮かべながら告げた。
「篠塚君、今年の見本市のブースデザイン案だけどね」
「はい」
「篠塚君が出したものでいこうと思うんだ」
「……え?」
 それは思いも掛けない話だった。櫻花が勤めている会社は、毎年六月と十一月に有明で開催されるインテリア関連の見本市に出展しているのだが、そのうちの 大きな方、秋開催の国際見本市のブースデザイン案に櫻花が提出したものが採用されたのだ。
 毎年、六月も十一月もブースデザイン案は企画課員全員が必ず提出し、その中から良いと思われるものが採用されている。とはいえ、中規模の六月と大規模の 十一月では、会社がかける金額も違えば意気込みも違う。
 見本市のブースというのは、企業の顔である。限られたスペースで、いかに自社の商品を良く見せるか、そして興味を持ってもらうか、ひいては購入してもら えるかを決める、とても重要な場所だ。そこに自分の案が採用されるというのは、嬉しい反面恐ろしくもあり、櫻花はしばし呆然としてしまった。
 部長課長連中はこういう反応を見るのにも慣れたもので、櫻花の耳が生きていると判断して、この件についてどう仕事を進めていくかの説明を始めた。
 主催者へブースデザイン案を提出する期限が七月中旬なので、最終稿は六月末には決めなければならない。最終稿と言っても、役員会議の承認を得ないと提出 できないので、六月中旬には上に上げられる状態に仕上げる必要がある。また、展示に必要な商品の手配等は全て櫻花本人がすること。もちろん設営にも立ち会 い、期間中は会場に詰めておくように――。
 十一月までの大まかなスケジュールを告げられ、もちろんメモも取ってあるのだが、櫻花の頭の中には一切入ってきていなかった。
「ところで篠塚君、ひとつ聞きたいんだけどいいかな」
「はい、何でしょうか?」
「どうしてこういうコンセプトにしようと思ったの?」
「それは……」
 藤田の質問に、一瞬だけ言葉を詰まらせた櫻花は、その案を考えた理由を滔々と語り始めた。
「普通、展示会というのはその時一番推している商品をクローズアップして、それがどれほど素晴らしいかをプレゼンしていると思うんですが、私にはそれがど うしても良いとは思えませんでした。そもそも我が社は“日々の生活に潤いを”というテーマを掲げて商品を製造販売しています。だったら、そのブースで潤い のある日々の生活を疑似体験してもらうのが一番なんじゃないかと思ったんです」
 皆静かに櫻花の言葉に耳を傾けていたが、ここで岡崎が冷たい口調で問い質した。
「会場に来てるのは全員プロのバイヤーだぞ?個人客相手ならともかく、プロ相手にそういうのは必要か?」
 櫻花にとって、それは想定内の質問だった。この案を出そうと決める前に、自分でも何度も同じことを考えたのだから、他人にそう思われても当然だろう。
「もちろん、プロの方には必要ないかもしれません。でも、その方も仕事を離れたら一般ユーザーです。プロのバイヤーとしてではなく、一顧客として見て欲し いと思ったんです。そしてもし気に入ってもらえたら、その時はきっと全力で仕入れてくれるに違いありません」
「個人として気に入っても、それが売れそうになければ買わない。プロとはそういうものだ」
 自分を納得させるために導き出した答えを熱弁する櫻花を、岡崎はバッサリと切り捨てた。しかし櫻花は怯まない。
「でも自分用に欲しいと思ってくれたら、どこかから入手しないといけないですよね?そういう場合、同業他社さんからは買わないと思うんです」
「売る気がない商品を、最小ロットだけでも仕入れさせるつもりか」
「悪い言い方をすればそうなりますけど……でも、案外それが売れたりすることもありますし、そもそもいい商品なんだから、お店のラインナップと少し毛色が 違っても手に取ってもらえると思います」
「……お前のその自信はいったいどこから来てるんだ」
 岡崎は、櫻花の自社製品に対する揺るがぬ自信に呆れつつ、ここまで言い返してくることに内心喜びを隠せない。以前の櫻花なら途中で黙り込むか、もしくは 最初から何も言えないままでいたのではないだろうか。これも新人教育を任せた成果に違いないと、その決断は間違っていなかったと胸をなで下ろす。もちろ ん、そんなことはおくびにも出さないが。
 岡崎に「新人教育を任せた結果成長した」と思われているとは露ほども知らない櫻花は、目指すべき目標である人になんとか認めてもらおうと、必死になって 食い下がる。自分の案に決まったとはいえ、不満や疑問がある状態で話を進めて欲しいとは思わない。どうせなら納得した上で採用して欲しいのだ。
 新人教育を任されて“一皮むけた”姿なのか、それとも“なりたい自分”になろうとしている結果なのか、あるいはその両方なのか。とにかく櫻花は、これま でのように目立たず騒がず、とにかく大人しいという殻から脱却を図りつつあるようだ。
「まあまあ、岡崎君。今回は篠塚君の案でいくって上も決めてるし、もうその辺にしておいてあげたら?」
 藤田の言葉で岡崎もそれ以上の追求をやめ、事務的な話を始めた。
「うちは家具類は製造していないが、それはどうするつもりだ」
「同じ見本市に出展する取引先さんにお借りできればと思っています。そうすれば、聞かれた時にすぐ案内できますし」
「費用がかかるが、そこも考えてあるのか?」
「具体的な数字までは……でも宣伝費だと思って安くしてもらうか、あわよくば無料で借りられるといいな、と」
「傷付けたりした時の補償はどうするんだ」
「そのへんも含めて、契約書を交わさないといけないと思っています」
「その交渉はお前がやるのか」
「出来れば営業課の方にお手伝い願えれば……」
 櫻花の案を実現するには、他にも問題が山積している。岡崎はそれらを指摘していくが、櫻花も問題を解決するにはどうするのが一番良いかを考えているよう だった。それに、この案件はすでに動き始めていて、今更止めることは出来ない。
「……一応それなりには考えているようだな。判った、じゃあお前はまずブースデザイン案の最終稿を、今月末までに提出しろ。それから、どこの会社のどんな 商品を借りたいのかをリストアップして、向こうさんに持って行くプレゼン資料を用意するように」
「はい」
「契約書内容を上に確認して貰ってOKが出た状態で、最終稿を提出するからな」
「はい」
「最初に説明した大まかなスケジュールと合わせるとどうなる?」
「ええと……」
 櫻花は手元のメモに視線を落とし、それらを復唱しながら頭の中で再度きちんとした工程表を組み立てていく。
「まず最初に、ブースデザイン案の最終稿を今月末までに仕上げて、それに付随する商品の選別と、他社さんにお借りする商品をリストアップ。それからプレゼ ン資料を作り、契約書を交わして、デザイン案と契約書の内容を役員会議にかけるのが六月中旬、となります」
 今は五月中旬なので、これらをあと一ヶ月ほどで終わらせなければならない。かなりタイトなスケジュールだが、役員会議で内容を却下された時に修正する時 間を取っておく必要があるため、これ以上遅らせるわけにはいかない。もちろん主催者に必要書類を提出する期限は絶対だ。
 櫻花は、内心怯みそうになりながらも、この会社に入社して以来一番の大仕事に燃えていた。しばらく残業続きになりそうだが、そんなことに構っている余裕 はない。それより心配なのは、教育中の中畑の処遇である。さすがにこれだけの仕事をしながら、中畑の指導まではとてもじゃないが手が回りそうにない。
 どうしたものかと思案していると、岡崎は櫻花の心を読んだかのように言った。
「仕事を覚えるいいチャンスだ、中畑の指導は引き続きお前に任せる」
「……私には荷が重いです」
「お前なら大丈夫だ。それに、アシスタントがいた方が仕事も捗るだろ」
 つまりは、教育という名目で雑用をさせろと言っているのだ。雑用と言っても、仕事に全く役に立たないことをさせるわけではない。それに、櫻花も“人を使 う”ということに慣れるチャンスでもある。岡崎は、櫻花、中畑双方にとってプラスになることだから、この件はこれでお終い、といった顔をして次の話を進め てしまう。
「お前がどこの商品を使いたいか判らないが、向こうさんへ行く時は基本的には俺と営業課の担当が一緒について行く。場合によっては王課長や牧野課長にも出 てきてもらうことになるが、できればそういう事態は避けたい」
「はい」
 だからなるべくいいプレゼン資料を作るように、と言外に言われた。そういった資料は作り慣れてはいるものの、一発で相手をノックアウトする出来のもの が、果たして作れるのだろうか。
 櫻花は、大小様々なプレッシャーに押し潰されそうになりながらも、その後の打ち合わせをなんとか乗り越えた。会議室から解放され自席に戻った時には、午 前中の姿など見る影もない程疲れ果てていた。
 あまりのやつれぶりに中畑に心配をされるが、本当に大変なのはこれからだ。始まる前からへばっていては話にならないと、なんとか気合いを入れ直してやり かけの仕事を片付けていく。
 ヘロヘロになりながら仕事をしている櫻花に、いつ買ってきたのか、暖かいココアを机に置きながら原が声を掛ける。
「篠塚さん、秋の見本市のブースデザイン案、採用されたんだね。頑張って」
 まだ誰にも話していないのに、なぜ原が知っているのだろう?
 不思議そうな顔をしている櫻花に、原だけでなく隣の鴻野も笑い声を挙げた。
「篠塚さん、ほんと我関せずな子だったんだね」
「毎年スケジュールは同じなんだから、今の時期に上司連中の会議に一人呼び出されたら、理由はそれだって皆知ってるわよ」
 鴻野の言葉に、櫻花は驚きを隠せない。確かに毎年同じ六月と十一月に見本市があるが、自分が関わるのはブースデザイン案を提出するまでで、いつの間にか 誰かの案に決まっているという認識でしかなかった。それなのに、皆そんな所まで見ているというのか。
 自分の仕事に関係あることには敏い櫻花だが、無関係なものには一切興味を示していなかった現実を突きつけられ、岡崎という目標への自己改革が困難な道の りであると知らしめられた気がした。
 益々落ち込みながら、櫻花は貰ったココアを口にする。その甘さが身体中を駆け巡り、ほんの少しだけ疲れが取れたような気がした。疲れた時には甘いもの、 とはよく言うが、それを体感する日が来るとは思ってもみなかった。
 ほっと一息着いたところで、先ほどから話を聞きたくてウズウズしてるといった態の中畑に、今日決まったことを簡単に説明する。彼女は自分のことのように 喜んでくれて、足を引っ張らないよう全力でお手伝いします、と鼻息も荒い。その姿に大いなる期待と少しばかりの不安を覚えたが、この先、きっと彼女の明る さに救われる日が来るという予感がしていた。
 とりあえず今やるべきは、ココアが冷えてしまう前に全部飲んで原にお礼を言うことと、鴻野に明日以降迷惑をかける予告と謝罪をすることと、今日のうちに 片付けられる仕事は全部終わらせてしまうことだ。
「面倒なことをお願いするかもしれないけど、よろしくね」
「はい、任せて下さい!」
 やる気満々の中畑に釣られて気分が上向いてきた櫻花は、手にしたココアをぐいと飲み干した。