初夏の候│02

 六月を目前に控えたある日のこと、櫻花はフロアの小さな会議室で岡崎と二人、向き合って座っていた。
 ここ二週間の間に何度こうしてミーティングをしたことだろう。その度に厳しいダメ出しを食らい、何度も修正を加え、ブースデザイン案を主催者に提出する 為の最終チェックを受ける段階まで、なんとかかんとかこぎ着けた所だった。
 櫻花は当初、全部で四案を提出していた。営業課が是非にと推す商品を中心としたA案、商品開発課がこれだけはと推す商品を中心としたB案、その両方の折 衷案であるC案、そして自分の理想を追い求めたD案である。
 バランスの良くないA案とB案は即座に却下され、残ったC案とD案をより洗練させていくことになった。元々コンセプトは決まっていたので、案を出すまで はそう難しい作業ではなかった。ところが、そこから先が実に苦しいものだった。考えすぎて頭の中がこんがらがり、煮詰まっては焦げ付き、何をどうしたら良 いか解らなくなる。そんなことを繰り返して、なんとかここまでたどり着いた。搾って搾って、もう残りカスはカラカラに乾涸らびて、アイデアなど一滴も出て こない状態だ。
 入社以来、これまで何度も新商品の企画を提出し、少ないながらも実際にそれが採用されたこともあった。商品リニューアルにも関わったことがある。その時 にも、こんなに頭を使った記憶はなく、所謂“産みの苦しみ”を味わったのは初めてだった。
 精魂尽き果ててげっそりした櫻花の前で、岡崎は資料を見ながら一言も発しない。まるで針の筵に座らされた気分のまま、時間だけが過ぎていく。暑くもない のに背中に一筋、冷や汗が流れたその時、ずっと資料に目を落としていた岡崎が顔を上げた。そして、厳しいままだった顔を緩め、一瞬フッと笑って言った。
「よくやったな」
 その表情と言葉の意味を未だ飲み込めないでいる櫻花は、何度か目を瞬かせるだけで何も答えられない。
「どうした?」
 不思議そうに小首を傾げる岡崎の表情を見て、櫻花の頭に血が上る。血の巡りが良くなったおかげか、ようやく「合格」したのだと理解して、あわあわと慌て ながら礼を述べる。
「あっ、あの、ありがとうございます……」
 最後の方は尻すぼみになり、声も小さくなってしまう。それでもなんとか最後まで言い切るが、顔を俯いて上げられない。先ほどの、一瞬の笑みときょとんと した表情が脳裏に焼き付いて、頬がカッと熱くなっているのを自覚しているのだ。
 最近、社内の女性社員の間では「企画の岡崎課長が渋くてかっこいい」という評判が流れていて、櫻花も、眉間の皺がいいだのちらほら見える白髪が色っぽい だの、好き放題言われているのを耳にしたことがある。確かにこのところ、岡崎の様子が変わったように思える。なにか常に考え込むような顔をしていて、その 憂いを帯びた表情がただならぬ色気を放っているし、朝のお茶出しの時も、いつも難しい顔をしている。
 そんな人が垣間見せた“隙”のような表情に、櫻花が参らないはずがなかった。それでも、余りに下ばかり向いていては不審がられてしまう。櫻花はなんとか 心を落ち着かせ、今は仕事中だと強く言い聞かせながら顔を上げた。
「自信がないのか?」
 テーブルに広げた資料を、人差し指でトントンと叩きながら聞かれてしまう。当たり前だが岡崎は仕事の話を続けていて、櫻花は己の自覚のなさに恥じ入りな がらも答えを探った。
「自信は……そうですね、あまりありません」
 ここまで作業をしてきてもなお、櫻花には自信などなかった。どうして自分の案が採用されたのかも判らないし、本当にこれでいいのかと何度も自問自答し た。ただ、採用されたからには全力を尽くすし、その結果、今ヘトヘトになっているわけだが「自信がないのか」と聞かれたら「ない」としか答えられないの だ。
「そうか。まあ、自信満々な奴ほど大したことないというのが世の常だからな」
「はあ」
「それに、俺がOKを出しても部長がOKを出すとは限らないぞ」
「そう、ですよね……」
 見本市本番までの道のりは遠く、険しい。櫻花は今、その入り口から一歩進んだ程度の所にいるのだ。この先十一月の本番まで、どれだけの試練が待ち受けて いることか。それを考えると気が遠くなりそうだった。
 思わず溜息が吐いて出る。そんな櫻花を見て、少しいじめすぎたか、とボソリと呟いた岡崎は、広げた資料を綺麗にまとめてファイルに仕舞うと、頬杖をつい て櫻花に問う。
「このD案、どういう考えで作ったんだ?」
 その何気ない質問に、櫻花は内心狼狽えた。顔には出さないよう努めたが、果たしてそれが出来ていたかどうかは怪しいものだ。目を泳がさなければバレない だろうと、ただじっと岡崎のネクタイの結び目あたりを凝視する。
 あからさまに態度が強張れば、何かありますと言っているようなもの。少し気になることがあって聞いてみただけなのに、そんな態度を取られては、どうして も理由を知りたくなるのが人間というものだ。
「なんだ、言えないようなことなのか?」
 岡崎は更に追い打ちをかける。櫻花をじっと見据えて視線を逸らさない。櫻花はとうとうその威圧感に根負けして、実に言いにくそうにしながらも、D案作成 の要を口にした。
「ええと、それは……あの、都会の共働き夫婦、っていう……そんな二人が、休日を楽しく過ごせる部屋という……そんな感じで……」
「なんだ、普通じゃないか」
 そんなに言いにくそうにするほどのことでもないじゃないか、と言わんばかりの顔をしている岡崎から、櫻花は思わず目を逸らした。
 確かに、それだけを聞いたら普通だろう。だが、その“共働き夫婦”の二人を、具体的な人物を思い浮かべながら考えた、と言われたらどう思うだろうか。そ れがもし、自分と目の前の人物だと言われたら、気持ち悪いと思われるに決まっているではないか。
 最初は出来心だった。面倒臭いことを言ってくる営業課と商品開発課の依頼を、投げやりにならないように落とし込むのは、違う意味で頭を使う結構骨が折れ る作業だった。その折衷案も、簡単なようで比率に気を遣う面倒な作業だった。だから、与えられたピースをはめ込む作業ではない、自分の考えを全面に押し出 せるD案は、少し夢を見ようと考えたのだ。
 その時の櫻花はハイになっていたのだろう。自分と岡崎が共働き夫婦だったら、という妄想をしながらカタログをめくり、そこから売りたい商品を選び出して いく。それはとても楽しく、ドバドバと脳内麻薬の出るような仕事だった。もちろん、何度も手直しをする度に悩み苦しみ疲れていったが、それでもやはり楽し い作業には間違いなかった。
 仕事を隠れ蓑に楽しんだ引け目もある上、自分でもかなり気持ち悪いと思っているようなことを、面と向かって本人に言えるはずもない。櫻花はモゴモゴと言 葉を濁して誤魔化そうとするが、なぜか岡崎は追求をやめようとしてくれない。その追求に負けた櫻花は、とうとう白状することにした。もちろん、これから仕 事をしていく上で困ったことにならない範囲内で、というものだが。
「あの、ですから、私が……」
「篠塚が、どうした?」
「なんていうか、その……もし結婚したら、っていう……」
 結婚、という言葉を聞いた岡崎の顔に緊張が走る。
「……結婚、するのか?」
「いえ、しないんですけど、もしも、っていう……想像というか、妄想というか……」
「想像、ねぇ」
「はい……」
 もじもじと照れて耳まで真っ赤にしている櫻花を見て、岡崎はスッと目を細めた。
「それは、具体的に誰か相手を想像して、ということか?」
「ご、ご想像にお任せします……」
 視線を泳がせながら答えた櫻花は、気付いていない。岡崎の眉間に刻まれた皺が一層深くなり、握られた拳が白くなっていたことを。
 しばしの間沈黙が流れ、不審に思った櫻花がようやく岡崎に視線を戻したその時、深い溜め息を吐かれた。それは呆れているようにも、苛立っているようにも 聞こえ、何か言い訳をしなければと櫻花が口を開こうとしたその時、岡崎の冷たい声が機先を制した。
「とりあえず、この内容に沿ったプレゼン資料を作っておくように」
 話はこれで終わりだ、と言わんばかりに言い放つと、岡崎は資料を手に会議室を後にしてしまった。一人残された櫻花は、いきなりの出来事についていけない でいた。
 会議室の椅子にぽつんと座ったまま考える。先刻の岡崎は、どう考えても怒っていた。聞かれた質問に答えただけだが、何か気に障るようなことを言ってし まったのだろうか。戻って早く謝った方がいいのだろうか。
 つい先刻、岡崎の普段なかなか目には出来ないような表情を見られて幸せを感じたのが、まるで数日前のような感覚に陥っていた。
 何の理由もなく怒るような人ではない、というのは櫻花が一番よく解っている。だからきっと、自分が何か怒らせるようなことをしたのだろう。思い当たる理 由は一つ。D案の作り方。あんな浮ついた、遊び半分のような心構えで作ったのが悪かったに違いない。
 少しの間放心状態になってしまったものの、すぐに気を取り直して会議室を後にする。とにかく早く謝って、D案に代わるものを考えなければ。もうアイデア なんて出てくる気はしないが、それでもあのまま上に通されるのは心苦しい。
 フロアに戻ると、岡崎は相変わらず苦い表情のままパソコンに向かっていた。
「あの、課長!」
 櫻花が声を掛けても、岡崎は視線はモニターから逸らそうともせずに声だけで返事をする。
 ここまであからさまに怒っているとは、やはりあのやり方は相当不味かったのだ。萎れた心が更にシナシナと下を向きそうになるのをぐっと堪え、櫻花は先ほ ど提出したD案の撤回を申し出た。
「不備でもあったのか」
 そんなものには気付かなかったが、と言われてしまう。あれだけ何度も修正を繰り返して、その都度チェックしていたのだから不備がないことなど知られてい て当然だ。
「不備ではないのですが……」
 何と言えばいいのか判らない櫻花に、さらりと事実が告げられる。
「あの資料はもう部長に回したから、撤回は諦めろ」
 櫻花の顔からさっと血の気が引いていく。部長に回ったということは、そこから上の役員達の手にも会議の事前資料として渡ってしまうということだ。こう なってしまったからには、櫻花に出来ることといえば会議でD案が選ばれないよう祈ることぐらいだった。
 意気消沈している様子を感じたのか、ようやく岡崎が櫻花に目をやった。
「お前は早くプレゼン資料を作れ。展示品の借り入れを申し込みに行くのは月曜だぞ」
「はい……」
 今日は木曜日。今日明日で、取引先が快く展示品を貸してくれるような、非の打ち所のない資料を作らなければならない。櫻花には落ち込んでいる暇などな かった。
 怒られる時ははっきり言われた方が楽だなあ、と肩を落として自席に戻ると、資料作りに没頭した。こういう時は仕事に打ち込むのが一番だ。今回はそんなに 手の込んだものではなく、紙一枚で簡潔に、かつ心揺さぶるものが必要だ。枯れ果てたアイデアの泉を再び潤わせるのは大変だ。しかもタイムリミットが迫って いる。
 少し気分転換をしたくなり、櫻花は普段飲まないコーヒーを淹れに給湯室に向かった。するとタイミングが良いのか悪いのか、ちょうどサーバーのコーヒーが なくなりかけていた。すっかり煮詰まって酸化の激しいそれをシンクに棄て綺麗に洗うと、新しい粉をセットしてスイッチを入れる。
 しばらくすると、コポコポと音を立てながらコーヒーが落とされていく。それをぼんやりと眺めながら、月曜日からの外回りに思いを馳せる。先ほどあれだけ 怒らせてしまったのだから、せめて一発で展示品を借りられるような資料を作らなければ。挽回するチャンスはそう多くないのだから。それに、同行してくれる 営業課の担当者にも迷惑はかけられない。
 淹れたて独特の香りで心を落ち着かせると、たっぷりの砂糖とミルクを入れ自分好みの味に仕上げたコーヒーを手に、気合いを入れてフロアへと戻っていくの だった。