初夏の候│03

 月曜日が好きな社会人というのはあまり聞いたことがない。土日の浮かれた気分からの落差が激しいからだとか、これから始まる一週間を思うと気が重 いだとか、理由はそれぞれあるだろう。
 櫻花は、先週の木曜日からずっとこの日が来るのを恐れていた。なんとか金曜日中に必要なものを用意し、内容の確認をしてもらい承認も受けている。それで も、土日の間中ずっと、今日の外回りについて考えていて、少しも休めた気がしなかった。
 そもそも、就職してからこれまでずっと内勤の櫻花にとって、外回りというのは未知の領域だ。そういう“初めてのこと”に対する不安もあるが、先週岡崎を 怒らせてしまったという事実が、心に重くのしかかっている。
 自分が好きで始めた朝のお茶出しも、何度サボってしまおうかと考えたことだろう。それでも結局、身体がいつもと同じ時間に動きだし、惰性のように出勤し てしまった。何くわぬ顔をしてお茶を淹れたものの、内心は冷や汗が滝のように流れ落ちている気分だった。
「おはようございます、課長」
「ああ、おはよう、篠塚。毎朝悪いな」
 いつもと同じ会話が、今日はやけに虚しく感じられる。
 櫻花が抱えた様々な不安要素は消えることなく、大きくなる一方だった。そんな状態のまま、就業時間を迎えてしまった。
 何度も何度も必要書類を確認し、忘れ物がないよう万全を期す。出撃体制が整った所へ、同行する営業課員が岡崎とともにやってきた。
「篠塚さん、今日はよろしくね」
 にっこりと微笑まれ、なぜだかほっとする。もちろん、そんなことは顔には出さない。だが、岡崎の鋭い視線に見抜かれているような気がしてならなかった。
 これまで櫻花は、思ったことは口にも顔にも出さずに過ごしてきた。その方が周囲に干渉されることもなく、また周囲に何か影響を及ぼすこともない、楽な生 き方だったのだ。職場の人に心の裡をさらけ出す必要も感じていなかったし、実際、一度ポロリと零した言葉は、喉に刺さった小骨のようにずっと櫻花の心をチ クチクと苛んできた。だから、自分を守るためには“無関心”という鎧を纏うのは当たり前のことだった。
 それがここ最近、剥がれ落ちてきている。自分を変えようと決めたあの日から、これまで当たり前にできていたことができなくなってしまったような、そんな 錯覚に陥ることが多々あった。
 そんな櫻花の葛藤など知る由もない目の前の男性は、暗灰色の細身のスーツをビシッと着こなした、いかにも営業マンといった佇まいをしている。銀縁眼鏡の 奥で理知的な瞳が輝いていて、黙って見ていると吸い込まれてしまいそうになる。
 一方その斜め後ろに立っている岡崎は、身長が優に百八十センチはあり、その上そこそこ筋肉がついているらしく、身体にほどよい厚みがある。甘いながらも 眼光鋭い面構えをしているので、黙って立っているだけで威圧感がある。そこへきて、最近目尻に小皺ができたり、綺麗に撫でつけられた髪に白いものが混じっ ていたりと、重ねた年齢が表に出始めていて、そこはかとないダンディズムが漂うようになってきていた。
 こんな二人を引き連れて歩かなければいけないとは、一体どんな罰が当たったのだろうと、櫻花でなくても真剣に考えたくなるというもの。しかし、埒もない ことを考えている時間などない。櫻花は、部長と営業課長二人に挨拶をして、岡崎達と共に地下駐車場へと向かった。
 取引先へは、担当営業課員である川相が運転していくことになっていた。櫻花が促されるまま助手席へ乗り込もうとすると、岡崎の「待て」という鋭い声が飛 んできた。
「お前は後ろに座れ。俺が助手席に座る」
 有無を言わさぬといった態度に、言われた当人ではなく運転席のドアを開けようとしていた人物が反論をした。
「課長を助手席に座らせるわけにはいきませんよ」
 この中で一番若手なのが櫻花で、その一つ先輩がこの川相だ。岡崎が一人だけ年齢も役職も上なのだ。社会常識で考えて、そんな人を助手席になど座らせられ るはずがない。
「そうですよ。私が一番下っ端なんですから、課長は後ろに座って下さい」
 櫻花が川相に加勢する。
 二対一では勝ち目はないし、誰がどこに座るかという小学生みたいな言い争いをしている時間もない。岡崎は、しぶしぶといった態で後部座席に乗り込むと、 そのまま目を瞑って黙り込んでしまった。
 また岡崎を怒らせてしまったと落ち込む櫻花をよそに、川相は何事もなかったかのように車を走らせはじめた。
「篠塚さん、ひとつ聞いていい?」
「はい、なんでしょう」
「今日のメーカーさんのベッド、どうしてあのラインナップのものを選んだの?」
「うちの商品は、生活雑貨にしては高い価格帯のものが多いので、そういう商品を買う人はお金の使い方を知っているんじゃないかなと思いまして……」
「お金の使い方?」
「良い睡眠が生活の質を上げると知っていたら、そこに一番お金をかけると思うんです」
「なるほどね」
 櫻花が川相と話している間も、後部座席の岡崎はじっと黙ったまま目を瞑っている。それが気になりはするものの、声をかけることもできず、どうやったら機 嫌を直してくれるかを考えるしかなかった。
 そうこうしているうちに本日の目的地に到着してしまった。まだ心の準備はできていないが、ここまで来て立ち止まってはいられない。後部座席から降りてき た岡崎に「よし、行くぞ」と背中をポンと叩かれ、それだけで気合いが入った気がした。
 とりあえず他のことは全て頭の中から追い出し、今は目の前の交渉に集中しよう。櫻花は、手にした鞄をぐっと握り直し、大きく深呼吸をすると「行きましょ う」と一歩踏み出した。



 午後一時を過ぎると、ビジネス街にある飲食店は途端に客足が途絶える。この時間ならどの店にも入りたい放題で、却ってどの店にするか迷うほどだ。櫻花達 三人は、つい先ほど展示品借用の交渉をまとめて、ようやく昼食にありつこうという所だった。
 こういう時に頼りになるのは営業課の川相で、近くにある安くて美味しい店に連れて来られた。元々夜にバーをやっていたのを、昼も開けるようになったとい うこの店は、黒を基調にしたシックな内装のイタリア料理店だ。
「このカトラリーボックス……」
 水と一緒に運ばれてきたのは、櫻花達の会社が販売している商品に入ったカトラリーだった。その箱は特に用途を限定して作られたものではないので、リビン グで小物入れに使ったり、この店のようにカトラリーボックスに使ったりと、様々な場面で活用しやすいようシンプルにデザインされた一品だ。
 自社商品を使われている所を初めて目にした櫻花は、言葉にならない感動にうち震えていた。取引先に飲食店やホテル等があるのは知っているし、それを拡げ ようと営業課員達が頑張っているのも知っている。だが、その頑張りの結果を目の当たりにしたことがなかった櫻花には、それらは全て厚いベールの向こうの話 ――言うなれば他人事――としか感じられなかった。それがこうして目の前に現れると、自分達の仕事は決して無駄ではないと実感できる。
「篠塚さん、うちの商品使っているお店に来るの初めて?」
「恥ずかしながら……」
「で、どう?ご感想は?」
「いえ、なんというか、感無量です」
「そっか。俺も、自分の仕事の成果をそう言ってもらえて、これからもっと頑張ろうって気になった」
 ここに連れてきた理由は料理が美味しいからなんだけどね、と付け加えてバチンとウィンクをする。その仕草はあまりにも自然で、嫌味を欠片も感じない。
「あの……川相さんってイタリアの血が流れてるんですか?」
 櫻花が思わず訊ねてしまうほどだった。
 それを聞いて目を丸くした川相はあははと笑うと、まあまあその話はいいじゃない、と含みを持たせたことを言って櫻花にメニューを手渡した。
 煙にまかれたままそれを受け取りペラリと捲る。メニューはそう豊富ではなく、サラダ、パスタ、メイン料理、デザートぐらいしか書かれていない。しかもそ の内容が非常にざっくりとしたもので、例えばパスタなら肉、野菜、魚介の三種類しかない。そこからアーリオオーリオ、トマト、クリーム、和風の中から好き なソースの種類を選択するといった感じになっている。
 ミートソースやナポリタンといった定番のものが書いてないため、初めてここに来たら何を頼めばいいか迷うのではないかと思われる。例に漏れず櫻花も迷っ てしまい、結局は川相におすすめを聞いてそれにすることにした。
 ほどなくして注文した料理が運ばれてきた。鼻腔をくすぐるその匂いが強烈に胃を刺激して、きゅるる、と盛大な音で抗議を始めた。
「よっぽどお腹空いてたんだね」
「早く食べろ」
 二人に哀れむような視線を向けられ、居たたまれなくなった櫻花は俯きながらパスタに手を伸ばした。
 櫻花が注文したのは野菜の和風ソースパスタ。旬のグリーンアスパラを中心に、オクラやモロヘイヤなど数種類の野菜を、かつおだしと醤油で味付けたもの だ。ネバネバ系の野菜が入っているためか少しソースの水分が多めで、最後にかつお節と刻み海苔を散らしてある。
 見た目で想像できる通りの味に驚きはないし、再現してみろと言われたら出来そうなのだが、きっと家で作ってもここまで美味しくはならないだろう。
 プロの技に感心しながら、櫻花は食べるのに夢中になっていたため、同席している二人の間に微妙な空気が流れているのに気付いていなかった。
「岡崎課長って……」
「なんだ」
「一体何者なんですか?向こうの課長さんが凄くソワソワして何か言いたげにしてましたけど」
「さあな」
「……内緒なんですか?」
「内緒もなにも、俺はただのサラリーマンだ」
「うーん……」
 岡崎は、納得いかないといった顔をしている川相を無視して食事を続ける。
 先ほどまで展示品借り受けの交渉をしていた訪問先で、向こうの交渉窓口だった課長が、岡崎の顔と名前を見てからずっと、何かを思いだそうとしていたの だ。そしてどうやらそれを思い出したらしく、櫻花が説明している間も心ここにあらずといった風で、とにかく早くこの会議を終わらせて話しかけたそうにして いた。
 会議が終わった頃には十二時半をとうに過ぎていたので、岡崎は「貴重な休憩時間を削ってしまって申し訳ありません」と言い残してそそくさと退散したの だった。相手に付け入る隙を与えない手際の良さ、そして取引先の課長が一方的に知っている様子を見て、川相は岡崎がただ者ではないと感じざるを得なかっ た。鶏肉のローストをつつきながら思案するものの、そこまでして話をしたくない理由は判らないままだった。
 三人のテーブルには重苦しい空気が流れるが、櫻花はどこ吹く風といった感じだし、岡崎も全く動じていない。川相は一人、居心地の悪さを感じながら、企画 課は変人の集まりだという噂は本当なんだなと納得していた。
 少し遅めの昼食も終わり、櫻花は今後のスケジュールについて確認をする。
「ええと、契約書は私が作って課長に確認をお願いすればいいんですよね?」
「ああ。部長と、一応法務にも確認してもらうから、そんなに時間はないぞ」
「はい。OKが出たら先方には川相さんが持って行って下さるんですね?」
「そうだね」
「それから、次のアポは……金曜の午後三時半からです」
「それで全部なのか?」
「はい。他はうちの会社にある物や、抽象デザインパーツを組み合わせようかと……」
「そうか」
「ええと、金曜に訪問する会社も担当は川相さんなんですよね?」
「そうだよ。あの会社のソファーを借りたいだなんて、篠塚さんもいいセンスしてるね」
「今度出すクッションが一番映える物を、と思いまして……」
「借りるソファーを引き立て役にするつもりか」
「悪い言い方をすると、そうなりますね……」
「篠塚さん、営業においでよ。その肝の据わり方は、企画に置いておくのは勿体ない気がする」
「おい、うちの課員に変な勧誘かけるな」
 食後の一服をしながらの小ミーティングが、再び不穏な空気に包まれる。
 川相が評価してくれるのは有り難いが、自分のような者に営業など務まるはずがない。それでも、今までならあり得なかった高評価は、自己改造計画が着実に 進んでいる証拠だ。
 そう思った櫻花は、嬉しい気持ちを隠すようにカップの残りに口をつけた。あらかた冷えてしまった紅茶は、香りも消えて渋みと砂糖の甘みだけが口の中に残 る。やはり、本来温かい飲み物は冷えると美味しくなくなってしまうものなのだ。
 櫻花が思わず眉間に皺を寄せると、無言で牽制し合っていた二人が一斉にこちらを向いて、余りの気まずさにそのまま俯いてしまう。
 そもそも岡崎の機嫌が悪いのは、先週の会議で自分が何か失言をしたせいだったのに、その矛先が川相に向かっているのも申し訳ない。
 櫻花は居たたまれなくなって時計に目をやると、もういい時間になっていた。
「あの、そろそろ会社に戻らないと……」
 櫻花には、会社に戻ってやらなければならないことが山のようにあるのだ。それは岡崎にも川相にも言えることで、三人はそそくさと店を後にした。



「岡崎課長、川相さん、今日はありがとうございました。金曜日もよろしくお願いします」
 会社に戻り、同行してくれた二人に改めて礼を言う。なんとか失敗せずに済んだものの、一人で訪問していたらここまでスムーズに話は運べなかっただろう。
 日頃から営業担当として相手先との関係を築いてきた川相と、担当の若手を一人寄越すのではないという姿勢を見せるためだけに同行した岡崎。信頼と箔。ど ちらも今の櫻花が持っていないものだから仕方ないと言えば仕方ないが、忙しい二人に時間を割いてもらって申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。
 この恩は仕事で返すしかない。決意を新たにフロアに戻る櫻花の後ろで、岡崎と川相の間では先ほどと同じような問答が繰り返されていた。
「岡崎課長、いい加減教えて下さいよ」
「何をだ」
「だから、向こうの課長さんがソワソワしていた理由ですよ」
「そんなもの俺に聞かれても困るんだが」
「それはまあ、そうですけど……」
「この話はこれで終わりだ。これ以上しつこいようなら、金曜日は俺が助手席に座るぞ」
「ああっ、それだけは勘弁して下さい!課長に横に座られると緊張するしそれに……」
「それに?」
「あ、いえ、何でもありません。では金曜日もよろしくお願いします」
「こちらこそよろしく頼む」
 まだ納得はしていないといった顔をしている川相だったが、今日のところはここで引き下がるつもりのようだ。これ以上詮索されたくない岡崎にとっても、こ こら辺が妥協点となるだろう。問題は、来週以降どうやって追求をあしらうか、といったところではないだろうか。
 二人の間には益々不穏な空気が漂っていたが、今後のスケジュールをどうこなすか、ということで頭がいっぱいの櫻花がそれに気付く由もなかった。