初夏の候│04

 「課長、どうしましょう……」
 櫻花と岡崎は今、週末の繁華街に佇んでいた。
 今日は午後からリビング家具メーカーを訪問して、展示用ソファーの借り受け交渉を行っていた。交渉自体はスムーズに進み、月曜日のように慌てて逃げ帰る ような雰囲気に もならず、ごく和やかに時間は過ぎていった。契約書の作成等の仕事は休み明けに、と金曜日らしくふわふわした気持ちでいたのに、それがどうしてこうなって しまったのか。
 それは訪問先からの帰路でのこと。櫻花と岡崎の二人が直帰になっていると知った川相が、それならこれからカラオケにでも行ってパーッと一騒ぎしよう、と 言い出したのだ。
 川相も直帰ということになってはいたものの、車を置きに一度会社に戻らなければならない。だから二人を先に降ろし、車を置いたらトンボ返りすると言っ て、櫻花達をカラオケ屋の前に置き去りにしたのだ。しかも周到なことに、その場から逃げられないよう自分の荷物を全て預けてしまった。さすがに社用携帯は 持ち歩いているようだが、個人のスマホや財布、書類関係一式が入った鞄を無理矢理押しつけて行ってしまった。それを持って帰るわけにもいかず、二人はその 場でしばし呆然としていた、ということだった。
「こうなったら仕方がない。どこか適当な店に入って待つしかないだろう」
 どちらにせよ、川相がここに戻ってくるまで身動きが取れない。岡崎は、それならば、と目の前にあるチェーン店のカラオケ屋に入り、そこで待つことにした ようだった。
 今日は金曜日だが少し時間が早いのが幸いして、待ち時間なく部屋に案内された。受付も、部屋の番号を川相に連絡することも、店の人に『後で連れが来る』 という話をすることも全て岡崎がやってくれて、その間櫻花は何もさせてもらえなかった。
 せめて注文等は自分が、と思い入り口の電話近くの席を陣取るが、岡崎が案内されたその場で店員に注文をしてしまい、櫻花の意気込みは不発に終わる。
「ウーロン茶でよかったよな?」
「はい……」
 これで、櫻花が本当に注文したかった物が違えば文句の一つも言えたのだが、何故か飲みたかった物を見事に注文されてしまい、それ以上は何も言えなくなっ てしまった。
 飲み物が運ばれてくるまでの間、二人の間に沈黙が流れる。今日の反省会はもう済ませてしまったし、また怒らせてしまうのも嫌なのでうかつに口を開くこと ができない。
「お待たせしました」
 店員が飲み物を運んできたが、歌いもせず、かといって話もせず、ただ黙ったままの二人を一瞥もせずに出て行ってしまった。
「か、乾杯しましょうか」
「何に?」
「ええと……あっ、一連の交渉が上手くいったことに、ではどうでしょうか?」
「そうだな。では篠塚の頑張りに乾杯」
「……乾杯」
 ぎこちない乾杯が終わり、再び嫌な沈黙が流れるかと思ったその時、岡崎が思いもよらぬことを言った。
「おい、そのコントローラーを貸せ」
「えっ?」
「せっかくだから一曲だけ歌うことにする」
 これまで二次会などでカラオケに行く機会はあったが、この上司がその場に居合わせたことは片手で余るほどの数しかなかった。しかもその場合、酒を飲んで 金を多めに払うだけで、歌を歌っている所など見たことがなかった。だから企画課の面々はいつしか、彼をカラオケに誘うことはしなくなっていた。
 そうとは知らない川相が半ば無理矢理カラオケ屋の前に置き去りにした時は生きた心地がしなかったし、岡崎が「適当な店に入って待つ」と言い出した時には 驚きのあまり声も出なかった。
 だから今、櫻花は目の前で起きている出来事をあまりよく認識できていなかった。
「お前も何か適当に入れておけ」
 コントローラーを渡されても生返事しか返せない。どうしたものかと思案しているうちに、岡崎が入れた曲のイントロが流れ始めた。
 それは櫻花には耳なじみの薄い曲だったが、あっという間にその歌声に引き込まれていく。普段はあまり感情が乗っていないバリトンが、とても艶やかに、時 に激しく歌い上げていく。ファルセットは色っぽく、また、冒頭と途中で入るラップは軽やか。英語の発音は無駄に良いし、早口言葉のようなラップに、よくそ れだけ舌が回るものだと感心する。
 ひっくり返りそうで返らない高音、荒々しい濁点、甘えるように上がるかと思えば投げやりに下がる語尾。どれをとっても大人の色気たっぷりで、歌というの はこんなにもセクシーなものなのだというのを初めて知った。
 約五分間のワンマンショーが終わっても、次の曲が流れず不審に思った岡崎に声を掛けられてようやく我に返るほど、櫻花は魂を揺さぶられていた。
「あの、課長、今のは……」
「一九九〇年代に流行ったダンスミュージックだ」
 櫻花が聞きたかったのはそういうことではない。どうしてそんなに歌が巧いのにカラオケに行かないのか、ということだ。いや、もはやカラオケが巧い下手と いう話ではなく、どうして歌のプロを目指さなかったのか、という疑問が浮かぶレベルだった。
「篠塚も何か歌え」
 何か歌えと言われても、あれほどの歌唱力を目の当たりにして、その後にしれっと下手な歌声を聞かせるほど櫻花はチャレンジャーではなかった。ただ、普段 歌わない人の歌声だけ聞いて、自分は何もしないでいることもできない人間だった。
 どうしたものかとしばし逡巡していたが、やはりここは一曲歌うべきだと考え、手にしていたコントローラに目を落とした。何か盛り上がるような曲で、そう 難しくなく、かつ広い世代に知られている曲はないだろうか。
 となると、ここはアニメソングでお茶を濁すしかない。櫻花は、作品自体は見たことはないがリメイクされたため曲だけは知っている、という魔女っ子モノの アニメソングを歌うことにした。
 キーを外さないように、リズムを間違えないように。その二つだけを念頭に置きながら、なんとか一曲歌いきった。岡崎は巧い巧いと言いながら拍手をしてく れるが、自分の歌唱力がどの程度のものか、ということぐらい櫻花自身がよく解っていた。
 それでなくても今週は精神的な疲れが溜まっているというのに、ここにきて精神力を根こそぎ削られたかのように身体が重くなる。どさりと椅子に腰を下ろす と、カラカラに渇いた喉を潤すためにウーロン茶をがぶ飲みする。
 もう一曲どうだ、とコントローラーを手渡されるが、とてもじゃないがそんな気分にはなれない。だからと言って何か話題があるわけでもない。せっかく岡崎 と二人きりになっているというのに、アピールもアプローチもできない。櫻花は、己の意気地のなさに呆れるが、一曲歌うのが精一杯なのだから仕方ないという 気もしていた。
「ひとつ聞いてもいいですか?」
「なんだ」
「あんなに歌がお上手なのに、どうしていつも二次会のカラオケには行かないんですか?」
 沈黙に耐えかねた櫻花が、どうしても気になったことを質問した。まともに答えてくれるとは思っていないが、変な緊張感がつい口を滑らせてしまったのだ。
「色々と面倒だからな」
 返答は短いが、その中には沢山の意味が込められているように感じられる。そして櫻花は、その中のひとつ――こういう問答が面倒――を犯してしまったよう な気がして、今度こそ本当に黙り込んだ。
 カラオケルームという狭い空間の中で二人、ただ無言で座っているのも妙なものだった。両隣の部屋から漏れてくる不明瞭な音が、やけに大きく聞こえてく る。
「篠塚なら黙っていてくれると思って」
 先に沈黙を破ったのは岡崎だった。理由は解らないが、歌が巧いというのを人に知られたくないようだった。恐らく数少ないであろうその秘密を共有するに値 する、と判断されたのは、櫻花にとって嬉しいことこの上ない。
「解りました。内緒にしておきます」
「ああ、頼む」
 ふふ、と思わず笑みが零れる。いくつになっても内緒事というのは心躍るものだ。しかもその相手が意中の人であれば尚更だ。言えなくて苦しくなるどころ か、誰にも知られたくなくて、頼まれなくても率先して口をつぐんでいたことだろう。
「じゃあ篠塚、もう一曲歌え」
「ええっ!?」
「せっかくカラオケ屋に来てるんだ、歌わないと勿体ないだろう」
 それなら課長ももう一曲、と喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、コントローラーを操作する。そろそろ川相が来てもおかしくない時間だ。他人に歌声を披 露したがらない岡崎に無理矢理歌わせるわけにもいかない。それに、二人の秘密を早々に公にしてしまうのも癪だ。
 しかしここで問題が発生した。櫻花もそんなにカラオケが好きな方ではないので、先ほど歌った魔女っ子系アニメソング以外に何を歌えばいいのか判らなく なったのだ。近年巷で流行っているものはよく知らないし、かといって懐メロもよく知らない。
「課長、何かリクエストありますか?」
 こういう時はリクエストを募るのが一番だ。櫻花は、手にしていたコントローラーを渡しながら岡崎に次に歌う曲を決めてもらうことにした。
「いいのか?」
「はい。でも何でも歌えるわけじゃないですからね」
 一応断りを入れたものの、コントローラーで選曲している岡崎の耳には届いていなさそうだ。少しばかりの不安を抱えながら、曲が流れ始めるのをただじっと 待つ。
 そして流れてきたのは、一九八〇年代のアニメソングだった。この曲はとにかく有名で、テレビの“なつかしのアニメ”とか“なつかしのアニメソング”など で必ず紹介されるので、櫻花も曲は知っていた。
 なんとか一曲歌いきり頭を下げると、またしても拍手喝采を浴びた。岡崎がなぜこの曲をリクエストしたのかは判らないが、拙い歌でも喜んでもらえたような ので、櫻花はほっと胸をなで下ろす。確か、双子の兄弟が甲子園を目指しつつ隣に住んでいる幼なじみと三角関係に陥る、とかいう内容だったなと思い起こしな がら、この人にもそういう過去――例えば幼なじみと三角関係になったことがある、など――があるのかな、などとぼんやり考える。
 だがそれもほんの一時のこと。カラオケルームという密室に二人きりでいる事実が、今更ながらに櫻花に襲いかかってきて、頬がカッと熱くなるのを自覚し た。川相に無理矢理連れて来られた結果ではあるが、こんなにいい思いをしてよいのだろうかと、ある種の罪悪感すら抱いていた。
 意識しはじめると余計に恥ずかしさが増すもので、櫻花は今や視線を横にずらすことすら出来なくなっていた。しかし、この状況に緊張しているのは自分だけ なのだということも解っていて、己の自意識過剰さに嫌気が差してきてもいた。
 これ以上歌うことも出来ず、かといって気軽に世間話も出来ず、櫻花は八方ふさがりになってしまった。手にしたウーロン茶をじっと睨み付けながら、どうし たものかと考える。
 そういえば、これから展示会までの間にどう動けばいいのか、その辺りをきちんと聞いてはいなかった。自分がやらなければならないことは頭に入っているつ もりだが、果たしてそれだけでいいのかどうか、確認しておくべきではないだろうか。
 櫻花が岡崎に向き直り、今頭に浮かんだ疑問をぶつけようとしたその時、何の前触れもなく部屋のドアが開いた。
「遅くなりました!」
 会社に車を戻しに行っていた川相がやってきたのだ。
「飛び入り参加のゲストを連れてきました」
 その言葉に二人が訝しんでいると、あの簑田京子が川相の後ろから姿を現した。
「出る時に声かけられまして。構いませんよね?」
 簑田は、驚きのあまり固まっている櫻花の前をすり抜け、ちゃっかり岡崎の隣に腰を下ろした。その隣には川相が座り、櫻花と岡崎の距離は遠く離れてしまっ た。先ほどまでの幸福感はすっかり消え、今はただ、なぜ簑田がこの場にいるのかということばかりを考えていた。
 先月尚美に聞いた「商品開発の女豹が岡崎を狙っている」という言葉が頭の中をぐるぐると回り、やはりここに来たのはそういった下心があってのことなのか と、二人を横目に見ては心が苦しくなる。
 狙った獲物は必ずモノにする、という訳ではないようだが、それでも少ないチャンスをきちんと生かす術を知っている簑田京子という女性は、櫻花にとって未 知の世界の住人だった。
 このまま手をこまねいて見ている訳にはいかないが、だからといって何をすればよいかも判らない。こういう時、己の恋愛偏差値の低さを嫌と言うほど感じる ことになる。
 櫻花はこれまで、幸せな片想いしかしたことがなかった。相手に想いを伝えることもなく、ただ自分一人の世界に籠もっているというのは、とても平和で幸せ なものだった。そしてそれは、傷つくことを極端に恐れる櫻花にとって唯一の選択肢でもあった。だから今、こうしてその殻を破ろうとした時、何をどうすれば 良いか解らないし、突然現れたライバルへもどう対処すれば良いか見当もつかないのだ。
 はぁ、とひとつ溜息を漏らし、ウーロン茶に口をつける。思っていた以上に喉がカラカラになっていたようで、グラスに残っていた半分をあっという間に飲み 干してしまう。
「ええと、飲み物は何がいいですか?」
 後から来た二人と岡崎に声を掛け、今度こそ自分でドリンクをオーダーする。ついでに軽食も注文し、とりあえず今は雑用係として働くことでこの場を切り抜 けようと考えた。
 それはただ目の前の問題を見て見ぬ振りをするというだけなのだが、今の櫻花にはそうすることでしか心の痛みを回避することができないのだった。
 元々この片想いを始めた時には、岡崎がいずれするであろう結婚までの“期間限定”と心に決めていたのに、どうしてこうも欲深くなってしまったのだろう か。見ているだけで幸せだった相手に、自分を見てもらいたいと思うとどうして胸が苦しくなるのだろうか。
 隣の川相があれこれ話しかけて来ているが、思考のスパイラルに陥った櫻花の耳にはその言葉は届いていなかった。オーダーした飲み物や軽食が来ても、ただ 機械のように動き回るだけで、その目には何も映ってはいなかった。



 結局その後一時間ほどでお開きとなり、櫻花は今、川相と肩を並べて歩いていた。目の前には岡崎と簑田が、これまた肩を並べて歩いている。簑田が楽しそう に話しかけているのを見て、心の中に黒い澱のようなものが沈殿していくような気がしていた。
「篠塚さん、元気ないけど大丈夫?」
「はい」
「無理させちゃったかな」
「いえ、別にそんなことは……」
 そうだ。確かに最初は無理矢理カラオケ屋の前に置き去りにされたが、その後いいこともあったではないか。
 櫻花は前向きに考えることにした。あの後岡崎はマイクを握ることはなかった。ということは、あの歌声を聞いたのは自分一人しかいないのだ、と。
 岡崎と交わした約束を思い出すと、ほんわりと胸が温かくなる。先ほどまで心に溜まろうとしていた黒い澱が浄化されるような、そんな気がした。我ながら現 金なものだとは思うものの、今の自分にはそれしか縋るものがないのだから仕方がないと開き直ることにした。
 それでも、目の前で楽しそうにしている簑田を見るのは胸が痛む。川相の話に相槌を打ってはいるものの、その視線は前の二人を通り越した遠いどこかを彷 徨っている。
「それじゃあ篠塚さん、また月曜日に」
「ああ、はい。お疲れ様でした」
 ぼんやりしているうちに駅に到着していた。櫻花は川相と別れ帰宅の途についたが、その時既に岡崎と簑田の姿はなくなっていた。あの二人が駅で別れたの か、それともどこか別の場所へ向かったのか。一部下という立場では、それを確かめる権利はない。櫻花は改めて、今のこの立場からの脱却を誓うのだった。