夏の宵│01

「篠塚さんと中畑さん、今日の夜、暇?」
 盆休みを数日後に控えたある日のこと。櫻花が社員食堂で中畑と昼食を摂っていたところへ、トレイを持った原がやってきて質問をした。二人はお互い顔を見 合わせながら、頭の中でスケジュール帳をめくって今夜の予定を確認する。
「特に予定ないなら、花火見に行かない?」
「えっ、花火ですか!?」
 原の言葉に中畑が食いついた。確かにこの季節、いろんな所で花火大会が開催されている。だが、たいていは週末で、こんな週の頭から開催されるところがあ るとは思えない。不思議に思った櫻花が首をひねっている間に、原と中畑の間でどんどん話が進んでいく。
「まあ、花火というより野球観戦なんだけど、そこで花火が上がるから」
「……私、野球とか一切知らないですよ」
「だろうねー。でも大丈夫、俺が解説してあげるから」
「原主任の解説じゃ、解るものも解らないような気がします」
「おっ、言うようになったね」
「ああっ、ごめんなさい、つい本音が」
「いいのいいの。それよりどう?行ってみない?花火綺麗だよ」
「うーん」
「ビール片手に、焼き鳥食べながら」
「……ルール解らないんですけど、本当にいいんですか?」
「平気、平気」
 どうやら野球場で上がる花火を、観戦ついでに見に行こうというお誘いだったようだ。原と中畑の間ではすっかり「行く」ということで話がついたようで、今 度はその矛先が櫻花へと向く。
 櫻花も中畑同様野球には全く興味がなく、今回話に上っている野球場がどこにあるのかすら知らない。そんな状態で行ってもいいものか、とも思うのだが、二 人の話を聞いているうちに少しだけ興味が湧いてくるから不思議なものだ。
「篠塚さんはどうする?」
「どうしましょう……」
「無理にとは言わないけど、ちょっとお金のかかるビアガーデンだと思って」
 入場料にプラスして、中で飲食するにはそれなりにお金が必要だ。しかも、テーマパークというのは通常より高い値段設定がされているものだ。普段はそんな にアルコールを飲みたいとは思わない櫻花だったが、そういった場所特有の開放感で、いつもより酒が進んでしまうかもしれない。そうした場合、財布の中身は 大丈夫だろうか。
 色々なことが頭に浮かんでは消えていく。櫻花は、そんな中のひとつを原にぶつけてみた。
「あの、行くのは原主任と中畑さんだけですか?」
「課の納涼会も兼ねてるから、行けるって人には全員参加してもらうつもりだよ」
「そうですか……」
 課の納涼会ということは、当然岡崎にも声が掛かっていることだろう。せっかく内輪の会だというのに、先日のように呼んでもいない他部署の人間に来られて は、きっと楽しめるものも楽しめない。そう考えてしまう自分が卑しいと思いながらも、櫻花は先日の出来事を思い出さずにはいられなかった。
 箸を止めたまま考えこむ櫻花を、原がじっと見つめている。答えを急かすでもなく、ただ静かに見つめている様を見て、中畑はこれまで雲を掴むようにあやふ やだった疑問が、はっきりと形になったような気がしていた。それは、原が櫻花のことを好きなのではないか、ということだ。
 企画課に配属されて約四ヶ月、いつも櫻花の隣にいるうちに、彼女への視線があちこちから飛んでくるのが嫌でも判るようになっていた。その中でも特に熱い 視線を送っていると感じるのが、この原だった。
 いつも飄々としてつかみ所のない原だが、櫻花へのちょっかいの出し方は“好きな女の子をいじめる男の子”な気がしてならないのだ。
「判りました。私も行きます」
「やった」
「他の課の人は来ないんですよね?」
「呼んでないもん、来るわけないよ」
「無理矢理ついて来るとか……」
「ああ、ないない。だってチケット取っても席知らなきゃついて来られないでしょ?」
「……それは確かにそうですね」
 櫻花が承諾したことで一層浮き足立っている原を見て、中畑は心の中の疑惑が確信へと変わった気がした。今にもスキップしそうな足取りで元いたテーブルへ 戻っていく原の後ろ姿を見て、後で絶対問い詰めようとぐっと拳を握りしめる。
 その様子を見た櫻花が、不思議そうな顔をして声を掛けた。
「中畑さん、具合でも悪いの?」
「いえ、別に、そういう訳では」
「じゃあ何か心配事?凄く怖い顔してたけど」
「心配事というか、なんというか」
 普段は明朗な中畑が言葉を濁すのを見て、櫻花はすぐに行動に移した。
 午後の業務が始まるやいなや、フロアの会議室が空いているのを確認すると岡崎と原に「少しミーティングをします」と言い置いて、中畑を強引に会議室に 引っ張り込んだのだ。
 盆休みは目の前で、詰めなければいけない作業もある。また、どうにも動かせない作業もある。仕事の濃度は忙しかったり暇だったりのまだら模様を描いてい るが、何か問題を抱えているであろう新人の面談に時間を割くことぐらいどうということはない。
 櫻花は今、自分に腹を立てていた。高みを目指すことばかりを考え、指導している新人の様子を気に掛けることが出来なかったのは、ひとえに自らの驕りと怠 慢であると。
「それで、本当は何があったの?」
 自分などよりよほど深刻そうな顔をした櫻花に訊ねられ、中畑は返事に窮した。まさか原が櫻花に懸想してるのではと疑っていた、と言えるはずもなく、とは いえ嘘を吐く訳にもいかず、なんと言いますか、などと要領を得ない言葉しか口に出来ずにいた。
「……仕事、辛い?」
 手伝いという名の雑用ばっかりやらせてるから、と櫻花の肩が落ちるのを見て、中畑はなんとかしてこの場を切り抜けようと考えた。先輩の表情がこれ以上曇 るのを見ていられなくなったのだ。
「仕事は楽しいです。篠塚さんの言う“雑用”だって、篠塚さんが本当に手が回らない時しか頼まれないですし」
 中畑の言葉に、強張っていた櫻花の表情がほんの少しだけ緩む。
「それに、入社早々展示会の手伝いをできるなんて、ラッキーだと思っているんですよ。これ以上ない勉強です」
 嘘偽りの感じられないその言葉に、櫻花も一瞬安堵の表情を見せる。だが、すぐにまた元の険しさを取り戻した。そんなことには誤魔化されないぞ、とでも言 いたげな瞳を真っ直ぐに向けられ、中畑が少しばかりたじろいだ。
 このまま押し通そうと思ったが、納得するまで解放してくれる気はなさそうだ。中畑は、やんわりと「プライベートのことで少々」と言ってみるが、話すだけ でも気が晴れるかもしれないし、と返されてしまい困惑する。
 一方、中畑が「こんなくだらないことは言えない」と悶々としているとは思いもしない櫻花は、悩み事すらスマートに聞き出せないとは指導役失格だと、自分 自身に落胆していた。せめて話を聞くだけでも、と粘ってみるが、どうやら話してくれる気にはならないようで、この場は一端お開きとすることにした。
 ようやく解放された中畑の、明らかにほっとした顔を見ては内心また落ち込んでいた。何くわぬ顔で岡崎と原にミーティングが終わったと告げに行くが、岡崎 には不審げな目を向けられ、原には可哀想な子を見るような目をされ、今すぐこの場から逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
 意気消沈している櫻花に、原が笑いながら声を掛ける。
「ミーティングはどうだったの?」
「はあ、まあ、普通です」
「普通って」
 カラカラと笑い声をあげる原に一瞬注目が集まるが、またか、とばかりに皆自分の仕事に意識を戻す。
「それで?成果はあったの?」
「……ありませんでした」
「そっか」
 今更自分の無能ぶりを晒すことには抵抗はないが、それでもやはり悔しいという感情は強く残る。櫻花は、目の前でニコニコと笑っている原を見て、どうしよ うもない程の劣等感を抱いた。いつもちゃらんぽらんにしているようで、仕事はきっちりしているし、のほほんとしているくせに気配りが出来る。遠くの目標ば かり見ていたが、近くにもこんなに高い山がそびえ立っていて、とうてい越えられそうもない。
 グルグルとマイナス思考の渦に飲み込まれそうになっている櫻花を見て、原は面白いことを思いついたと言わんばかりの悪い笑みを浮かべた。そしてチョイ チョイと指で櫻花を招き寄せると、必要以上に顔を寄せてそっと囁いた。
「中畑さんには、今夜の納涼会の時にでも話を聞いておくよ。だからその間、篠塚さんは課長の相手をお願い」
 櫻花は、その言葉の意味をきちんと把握しきれないまま、ふらふらと自席に戻り考え込む。課長の相手とは、一体どういうことだろうか。
「大丈夫ですか?」
「うん、なんでもない」
 今度は中畑が櫻花を心配している。全くもって忙しい二人である。
 そして、少しばかりの悪戯心を発揮した原はというと、射殺されそうな視線を背中に浴びていた。こんなに簡単にひっかかってくれると、悪戯のし甲斐はある が同時に物足りなさも感じてしまう。もう少し抵抗してくれてもいいのに、などと自分勝手なことを考えているところへ、遠く営業課からも鋭い視線が送られて くることにも気が付いた。それもひとつではなく複数認められる。
「うわー……」
 思いもしなかった釣果に満足しつつ、これからの前途多難さを思うと頭が痛くなる。それでも、手を出すと決めたからには最後までやり通さなければならな い。
 ちらりと櫻花の様子を窺うと、隣の中畑がこちらを気にしている様子。
「やだなあ、俺モテモテじゃん」
 ポツリと漏らすが、楽しくて自然と頬が緩んでしまう。
 考えることは色々あるが、まずは目の前の仕事を片付けてしまおう。原は、上機嫌で書類の山に立ち向かっていくのだった。