夏の宵│02

 最寄り駅から球場への道は、観戦に向かう人でいっぱいだった。これだけの人数が皆同じ目的で同じ場所を目指して歩いているというのは、櫻花には少 し不思議な感覚だった。
 納涼会がわりの野球観戦兼花火見物は、結局四人しか集まらなかった。今日の今日では無理だという人がほとんどだったと、原が頭を掻きながら教えてくれ た。
 櫻花は中畑と並んで歩きながら、前を行く男性二人についてぼんやりと考える。一人は課長。緊急事態だったとはいえ、主任からいきなり課長に抜擢された有 能な人。もう一人は主任。現在空席になっている係長の仕事も兼務していると思われる、こちらも有能な人。
 課長は寡黙で、普段からあまり感情を表に出さない。無愛想に見えるが本当は心根の優しい人だというのは皆が知っていて、部下達からとても慕われている。 一方の主任はいつも笑顔で、チャラチャラしているように見えるが芯がしっかりしていてブレることがない。
 身長が優に一八〇センチはある課長と、一七〇センチまであと少しといったところの主任。二人とも甘い系統の顔をしてはいるが、課長は眼光鋭く、主任はわ たあめのようにやわらかな目をしていて、本当に何から何まで対照的だ。
 そんな二人が連れ立って歩けば目立たないはずもなく、先ほどからすれ違う女性がチラチラと視線を投げつけてはひそひそと話をする。いかにも値踏みしてい るといったそれらを、二人はまるで無いもののように振る舞っている。時折こちらを振り返り「ちゃんとついて来ているか」と気に掛けてくれ、上司でもなけれ ばこんな人達と一緒にこんな所を歩くこともなかっただろうと、嬉しいやら切ないやらで気持ちがぐちゃぐちゃになってきた。
 球場に到着したところで、原が各人に一枚ずつチケットを手渡した。
「試合が終わるまでなくさないように。言い出しっぺの俺は飲み物と食べ物を調達してから席に向かうので、二人は先に行ってて下さい。中畑さん、手伝い頼め るかな?」
「はい、いいですよ」
 鞄のチェックを受け、チケットをもぎってもらい中に入ると、原と中畑は売店へ向かった。櫻花は岡崎と二人、座席へと向かう。薄暗い通路を抜けると一気に 視界が広がり、えもいわれぬ高揚感に包まれた。これが初めてのスポーツ観戦になる櫻花だが、野球にしろサッカーにしろ、熱狂的なファンと呼ばれる人達が通 いつめる理由が少しだけ解ったような気がした。恐らく皆、この瞬間がとてつもなく好きなのだろう。
 手元のチケットと案内を見ながら座席を探すと、なんと一番前が櫻花達の席となっていた。チケットには三千円ほどの値段が書かれているが、こんな所がそん な安い値段で座れるとは、案外野球というのはお金のかからない趣味なのではないかと思い始めていた。
 席に着くと、目の前には青いユニフォームを着た人達がたむろしていて、お喋りをしながらストレッチをしたりボールで遊んだりしている。
「課長、あの人達は何をしているんですか?」
 岡崎は球場に入ってからずっと難しい顔をしていて、あまり声を掛けないでおこうと思っていた櫻花だったが、好奇心が勝ってつい質問をしてしまった。
「ああ、あいつらの出番はまだ後だからな。暇してるんだ」
 まるでその声を聞きとがめたかのように、その中の一人がこちらを向いた。その選手は何やら驚いた顔をして、帽子のつばに手を添えて頭を下げてくる。今度 は櫻花が驚く番だ。
「あの、課長、今の人……お知り合いですか?」
 見れば岡崎は苦虫を噛みつぶしたような顔をしていて、眉間に刻まれた皺が先ほどより深くなっている。グラウンドでは先ほどの選手がこちらを見ながらニヤ ニヤと笑っているし、一体何がどうなっているのか、櫻花の頭は混乱するばかりである。
「気にするな、放っておけ」
 この状況で気にするなと言われても、気にならない方がおかしい。櫻花は、グラウンドと岡崎の顔を交互に見ては首をひねる。
 そうこうしているうちに、目の前で一人の選手が投球練習を始めた。スパーン、といういい音に驚いてそちらを見ると、その選手はどんどんとボールを投げ込 んでいく。櫻花は、そのボールの速さに目を丸くしながら見入っていた。



 櫻花と岡崎が席に着いた頃、原と中畑はお目当ての売店へ向かって歩いていた。
「ねえ、昼間なんのミーティングしてたの?」
「あー、いやー、あれは別にそんな大したものでは」
 櫻花に相談できなかった話題の張本人からの質問に、中畑はどぎまぎして目を泳がせてしまう。原はその様子を見やってクスリと笑いを漏らす。
「篠塚さんがさ、自分はまだまだ相談相手としては不足だ、って悩んでたんだよね」
 原が、昼間話した時に受けた印象を更に大げさにした言葉を投げかけてみると、中畑は面白いぐらい動揺を見せる。このところちらちらと受け取る視線とい い、この態度といい、色々勘違いをしていそうだと内心苦笑するが、そんなことはおくびにも出さずに続ける。
「篠塚さんにも相談できないようなことなら俺にも言えないだろうけど、あんまり仕事に支障を来すようなら、無理矢理にでも話を聞き出すことになるよ?」
 ちょっとした脅しである。だが間違ったことは言っていないので、中畑も首を縦に振らざるを得ない。
 原はしばし考え、決断を下す。ここで中畑の誤解を解いて味方に引き入れることもできるが、この件は極秘で進めている。彼女は、秘密を知る者が増えるリス クを冒してまで引き入れるべき味方かと言われたら、答えは否だ。自分には既に一人、力強い味方がいる。今はそれだけで十分ではないだろうか。もし、更に助 力が必要となる時が来たら、改めて打ち明けよう。それに、この誤解をうまい具合に利用できるかもしれない――。
 少々腹黒い結論を出すと、この話はお終い、とばかりに話を変える。ほんわかしている見た目に反して、中身は即決即断タイプなのだ。
「中畑さん、ここの名物の山盛りウィンナー、食べる?」
「はい、ぜひ」



 原と中畑の二人は、山盛りウィンナーと焼き鳥を買い、席に近い売店で生ビール四つを仕入れるとようやく櫻花達の元へと戻って来た。
「お待たせ〜。あ、篠塚さん、ビール回して」
「そんなに沢山、大変じゃなかったですか?」
「平気、平気。言い出しっぺが働くのは世の常だからね」
「すみません……」
「気にしないで。では課長、乾杯の音頭をお願いします」
 全員にビールが行き渡り、真ん中に座る櫻花と中畑の膝の上につまみが鎮座するのを確認した原が、岡崎に声を掛ける。一応これは納涼会も兼ねているので、 それなりの体裁を整えるべきだと考えたのだろう。
 四人しかいないのに何か一言と言われても困るのは岡崎の方だ。
「……お疲れ様。インプレー中はボールから目を切らないよう、気をつけるように。乾杯」
 ほぼ野球場での注意事項となった挨拶を合図に、無礼講の宴会が始まった。
「あの、課長、さっきの気をつける話をもっと解りやすくお願いします」
 櫻花の左隣から顔を出した中畑が、先ほどの挨拶について説明を求めた。櫻花もそれに深く同意して頷くと、岡崎は驚いたように目を瞠った。なぜ解らないの か、といった顔をしている。
「課長、野球に触れたことのない人には、もっとかみ砕いて説明してあげないとダメですよ」
「……逆に難しいな、それ」
 男性二人に挟まれた女性二人が、一体何に気をつければいいのか解らないといった顔で首をひねる。
「やっぱり俺が解説してあげないとダメみたいだねー。篠塚さんのことは課長、任せましたからね」
 そう言って、原が中畑に先ほどの注意事項について説明を始める。それを見た岡崎も、仕方ないと溜息を吐くと櫻花に解説をする。
「野球というのは、サッカーやバスケみたいにずっとプレーが連続してるわけじゃない。そこは解るか?」
「えっと……プレーが連続してる、の意味がよく解りません」
 岡崎が、これはもうどうしようもない、といった感じで眉を下げる。
「とにかく、ボールからは絶対に目を離すな、ということだ」
 簡潔に解りやすく説明され、それぐらいなら自分にも出来る、と胸を張る櫻花だったが、隣を見れば岡崎の大きな身体が心持ち小さくなっているように見え る。
「あの、課長……?」
「ああ、いや、なんでもない」
 盛大に肩を落としながらビールをちびりちびりと飲む姿は、どこか哀愁漂うサラリーマンといった風情である。哀愁漂うサラリーマンというのは何一つ間違っ てはいないのだが、これまでの岡崎のイメージとはかけ離れているため、櫻花は珍しいものを見たような気になっていた。
 それにしても、と櫻花は思う。野球場の座席というのは、こんなにも狭いものなのか、と。今時の映画館はシネコン化が進み、それによって座席の改良も進ん でいて、横も前も余裕のある作りになっている。それがここはどうだ。座り心地の悪い硬い椅子が、横幅も前後もぎっちりと詰められている。岡崎のように身長 もあれば身体の厚みもあるような男性には、かなり辛いのではないだろうかと思うのだ。
 それでもここはまだ良い方だ。応援団がいる席というのは背もたれすらないというから、好きで通っている人達は一体なぜ自らそんな苦行を受けるのか、全く 理解できないでいた。
 日が傾き空が茜色に染まり始めた頃、大時計の針が六時を指した。試合開始である。
 まだ試合が始まっていない間に、両端に座っている男性陣は、既に一杯目のビールを飲み干していた。
「篠塚、お前ビール嫌いだろ?それ全部飲めるか?」
 突然の質問に櫻花は驚いた。確かにビールは苦手で、課の飲み会でも最初からサワー類にするか、小さいグラスでほんの少しだけ注いでもらうかしていた。ま さかそれを知られていたとは、嬉しいやら恥ずかしいやらで頬が熱くなる。
 ずっとプラスチックのコップを手にしていたせいで中身はぬるくなっているし、とても全部飲みきれるとは思えない。だからと言って棄ててしまうのは勿体な い。どうしたものかと思っていると、右側からひょいと出てきた手がコップを持ち去ってしまった。
「あ……」
 櫻花が驚いている隙にそれをごくりと飲むと「ぬるいな」と言って眉をしかめる。
「課長!」
「なんだ」
「なんだ、じゃなくてですね……」
「お前、飲めないだろう?」
「それはまあそうなんですけど……」
 所謂間接キッスというやつですけどいいんですか、などと小学生のようなことを言えるはずもない。チラリと見れば顔色一つ変えておらず、ああ、これはもう 女として見てもらえていないんだなと、がっくりと項垂れる。
 飲み物を取り上げられ、膝の上に置いてあったおつまみの山盛りウィンナーもほぼ食べ尽くされ、櫻花はすっかり手持ちぶさたになってしまった。時折売り子 のお姉さんが席の近くまでやって来るが、それらはほぼビールの売り子だ。ソフトドリンクの売り子もやってくるとは聞いているが、なかなか巡り会えない。 せっかく屋外で飲み食いできるチャンスだというのに、それすらやれなくなってしまったら、後は本格的に野球観戦をするしかなかった。
 ただぼんやり眺めていても、一体今何が起こっているのか解らない。そもそもルールを知らないのだから、ここは思い切って隣の人に聞くしかないだろう。
「あの、課長」
「なんだ」
「今何が起こっているんですか?」
「ああ、そういえばお前は野球を全く知らないんだったな」
 悪い悪い、と謝りながら、岡崎はグラウンドで今どんな試合が展開されているか、懇切丁寧に教えてくれる。
 ところが問題があった。それは野球場のうるささだ。常にどちらかのチームの応援団がトランペットを鳴らし、ファンが大声で歌っているため、普通に会話を すると声が聞こえない。それだからか、説明してくれる時にいちいち身体をこちらに傾げ、聞こえやすいように話してくれるから、その度に櫻花の心拍数が跳ね 上がるのだ。
 右腕に岡崎の左腕が掠り熱を感じる。耳元で滑らかなバリトンが囁く。その瞬間、櫻花の耳には球場のざわめきが聞こえなくなる。これ以上の幸せはないと、 ただうっとりとその感覚に酔いしれるのだ。
 時折指を差しながらあれこれと説明してくれるのだが、なにしろ頭がフワフワとしているものだから全く理解できないでいる。気付けば手にソフトドリンクを 持っていて、これは一体いつどうやって手にしたものか判らないぐらいの駄目さ加減だった。
 この世の春、というのは本当にあるようだ。ただ、この幸せは一瞬で消えてなくなる儚いもので、あと何時間か後には見る影もなくなってしまうのが判ってい る。そのことを思い出した櫻花は、浮かれ気分が一度に萎み冷水を浴びせられた気分になってしまった。
 相変わらず、目の前では白熱した試合が続いている。しおしおと萎れた気持ちで球場を見渡せば、皆自分の贔屓チームを懸命に応援している。中には付き合い で来ている人もいるのだろうが、それでもやはり楽しそうに観戦しているように思えた。
 隣で解説してくれている岡崎にも、そして今日のこの会を企画した原にも、頑張ってプレーしている選手にも、それを応援しているファンにも、今この球場に いる全ての人に対して失礼なことをしているような気がしてくる。
 一度目を瞑り、深く深呼吸をする。そうして心を落ち着けてから目を開くと、そこはこれまでとは別世界に見えてくるから不思議だ。試合開始の頃には薄暮 だった空もすっかり漆黒に支配され、眩いばかりのカクテル光線の中でプレーする選手達を浮かび上がらせる。カーン、と渇いた音を残して高く舞い上がった白 球が闇夜に弧を描く様子は、どこか幻想的ですらあった。
 都会のただ中にありながら、こんな非日常的な空間が広がっているとは。ここにきてようやく、櫻花は野球場での観戦に興味を持ち始めた。そして、興味を抱 くと色んなことが気になってくるもの。
「課長、あの名前が書いてある横の数字が順番に並んでないのは何故ですか?」
「ああ、あれは守備位置が書いてあるんだ」
「守備位置……」
「今、真ん中で投げてる奴がいるだろう?あいつはピッチャーだから一番。ボールを受けてるキャッチャーは二番」
「一番の人は一番下に名前を書く決まりなんですか?」
「いや、そうじゃない。あの名前の順番はバッターボックスに立つ順番なんだが、だいたいどこのチームも一番上は足が速い奴、次は小技が巧い奴、といった感 じで決めていくんだ。ピッチャー……あの番号が一番の奴は、投げるのが仕事で打つのは専門じゃないから、一番最後に順番が回ってくるようにしてるんだ」
「でも結局は回ってくるんですよね?」
「ああ」
「一番最後だと何か得なことでもあるんですか?」
「得なこと?難しい質問だな、それは……」
「すみません」
 恐らくぼうっとしている間に聞き逃していたであろうことも、嫌な顔ひとつせず答えてくれる岡崎を、変な質問で困惑させてしまった。なぜピッチャーの打順 が最後なのかという謎は解けなかったが、名前の横にある数字には意味があるというのは理解できた。
 その後も、解説を聞きながら疑問に思ったことあれやこれやと質問攻めにした。納得できない答えや理解に苦しむ答えも多かったが、それでも野球というス ポーツに少しだけ親しみを持てるようになってきた。
「課長って野球にお詳しいんですね」
「……普通だろ」
 世の男性というのは皆こうして詳しいものなのだろうか。櫻花は実家の父や兄がどうだったかを思い返してみる。興味のなかった櫻花は夕飯を済ませるとさっ さと自室に引っこんでいたからよくは知らないが、あの二人はブーブーと文句を言いながら毎晩CS放送でプロ野球中継を見ていたような気がする。あの頃は、 毎日同じものを見て何が楽しいのかと思っていたものだが、こうしてきちんと見てみると、同じチームの対戦でも日によって内容が全く異なるのなら飽きないの も頷ける。
 興味を持って見ていると時間というのはあっという間に過ぎていくもので、いつの間にやらグラウンドに着ぐるみやチアリーダー達が躍り出ていた。スタジア ムDJが観客を煽り、そしてカウントダウンが始まった――。