晩秋の空│01

  展示会の初日を明日に控え、櫻花の心臓は破裂寸前だった。これまで準備してきたことが本当に来場者の興味を引くことなのか、その審判が下される のを待つ心境というのは想像に難くない。
 今日も搬入作業と設営作業をしている間は、余計なことを考えている暇などなかったのだが、ふとした瞬間にはそれを考えずにはいられなかった。
「おい、大丈夫か」
 最終チェックをしていた櫻花がぼーっと立ち止まっていたため、具合でも悪いのかと思った岡崎が慌てて声を掛ける。ここまで大きなトラブルはなかったもの の、小さなトラブルはいくつも発生していたため、櫻花は連日遅くまでかけずり回っていたのだ。
「あっ、はい、大丈夫です、ごめんなさい」
 大丈夫とは答えたものの、櫻花の体力も、精神力も、とっくに限界を迎えていた。だが、本番は明日からの三日間。ここでくたばってしまう訳にはいかない と、なんとか気力を振り絞ってチェック項目を埋めていく。
 こうして改めて確認をしていくと、どうしても気になる点が出てきてしまうもので、あれこれと変更したくなってくる。とはいえもう時間はない。とりあえず メモを取りながら全てのチェックを終わらせ、この変更は本当に必要なのかを考える。そしてチラリと時計に目をやると、もう午後十時を回っていた。
「もうこんな時間か……」
 小さく溜息を零してもう一度メモに目を落とす。設営中に変更の必要性を感じたものは、その場で手配したり営業車から持って来たりで手直しは終わってい る。問題は、営業車はもう会社に戻っているし、電話で手配しようにもこの時間ではどうにもならにということだ。それでもやはり、どうしても気になることが ひとつだけある。ほんの些細なことだが、それだけに小さなトゲが刺さったようにいつまでもチクチクと気になって仕方がないのだ。
 こうなったら明日の朝に一度会社へ寄って、必要なものを持ち出してから会場へ向かうしかないだろう。有明へは櫻花の家から直接向かう方が近いのだが、背 に腹は替えられない。
 何時に起きればいいだろうか、と時計とにらめっこをしながら頭の中でシミュレーションをしていると、片付けを終えた岡崎と原がやってきた。主立った手伝 い要員達は皆帰っており、櫻花達三人が最後まで残っていたというわけだ。
「篠塚さん、明日からが本番だから、今日はもう帰って寝た方がいいよ?」
「明日からが一番大事なんだから、もう帰れ」
 帰り支度も済ませている二人から口々にそう言われ、何も言い出せなくなってしまった。
 なんとか自分の中でこの気持ちを消化しようと、ただ黙って頷くことしかできない櫻花だったが、その様子を不審に思った岡崎に再び体調を気遣われてしまっ た。
「本当に大丈夫か?」
 確かにこのところの忙しさで体調は万全とは言いがたい。だが少し考え事をしていただけで体調不良を心配されるほど顔色が悪いのだろうか。明日は少しコン シーラーを厚めに塗ろうと、櫻花はその一瞬だけ悩みごとを忘れていた。だがやはり、直ぐに思い出してはまた頭を悩ませる。
 じっと一点を見つめながら微動だにしない櫻花を見て、岡崎も原もただごとではないと感じたようで、慌てて事情を聞き出そうとした。
「もしかして、何か展示に不都合な所でも見つかったのか?」
「篠塚さん、俺と課長がなんとかするから、遠慮なく言って?」
 二人の心遣いに熱いものがこみ上げそうになるが、それをぐっと我慢して先ほどから気になっていた点をぽつりと漏らす。
「ペラ物のチラシは、人が歩く風圧で飛ばされるんです。かといってカタログケースに入れておくと味気ないですし、ペーパーウェイトが欲しいなぁ、と……」
「それで?」
「それで、星雲シリーズを使いたい、と思ったんです……」
「そうか」
 その言葉を聞いた岡崎は、その件に関しては全面的に自分に任せろと言い、櫻花は強制的に帰宅させられることになった。
 何度か電車を乗り換え、買い物をしてから家にたどり着いたのはもうすぐ日付が変わろうかという頃だった。バキバキと音を立てそうなぐらい疲れている身体 に鞭を打ち、なんとか入浴を済ませるともぞもぞとベッドに潜り込む。目を瞑るととたんに睡魔に襲われ、エサをくれという腹の虫の猛抗議をよそにあっという 間に深い眠りに落ちていくのだった。



 さっき寝たばかりなのに次の瞬間にはもう朝になっている、という感覚はよくあることだが、今朝の櫻花もまさにそんな気分だった。
 枕元でがなり続けるスマホを静めると、のそのそとベッドから這い出して出勤の支度に取りかかる。今日はいつものオフィスカジュアルな格好ではなく、かっ ちりとしたビジネススーツを着ることになる。あれこれ動き回ることが予想されるため、念のためパンツスーツにしようと考えたところで、クローゼットをまさ ぐる手が止まる。もう何年もこのスーツに袖を通していないのを思い出したのだ。
「……着られなくなってたらどうしよう」
 恐る恐るパンツに足を通してみるが、太もももウェストも特にきつくなっている様子はない。心底ホッとした櫻花は、昼食を摂る時間がない可能性も考慮して 朝にしては重めの朝食を用意する。
 スーパーの総菜売り場で買ってきた鶏の唐揚げをオーブントースターで再加熱し、キャベツの千切りを作る。その間にインスタントの味噌汁を作るためにお湯 を沸かし、最後に冷凍しておいたご飯をレンジで温めれば立派な朝食のできあがりだ。朝から揚げ物というのもキツい年齢になってきてはいるが、今日のスケ ジュールを考えるとそうも言っていられない。
 昨日の夕食を抜いてしまったことを考えるとゆっくり噛んで食べたいところだったが、とにかく朝は時間が足りない。いつもより家を出る時間が遅いとはい え、あまりのんびりしていると間に合わなくなる可能性も出てくるのだ。昨今、何かといっては電車が遅れるため、移動経路が複雑になればなるほど、余分な時 間を見積もらないと不安になるというものだろう。
 急いで食事を掻き込むと、食後にお茶を飲んで一息、などという暇もなく洗い物や身支度を済ませて家を出る。チーズ味の栄養補助食品を一箱、鞄に忍ばせる のも忘れない。
 いつもよりほんの少しだけ人口密度の低い電車に揺られながら、昨日の帰り際に岡崎が請け負ってくれたペーパーウェイトの件を思い出す。
 本当に朝、自分が取りに行かなくて良かったのだろうか――。上司を使い走りさせたようなものだから、櫻花は気が気ではなかった。
 この展示会の期間中、企画課からは櫻花と中畑、そして岡崎が現場に常駐することになっていた。受付は広報課の女性社員が二名、その他営業課や商品開発課 からもそれぞれ二名から三名が入れ替わり立ち替わり“店番”をするのだが、櫻花達はあくまで裏方として立ち回る予定だった。
 昨夜同様、幾度か乗り換えをして会場に到着した頃には、ごっそり体力を削られてしまっていた。
「あっ、篠塚さん、おはようございます!」
 若い分だけパワーが有り余っているのか、中畑は疲れた様子も見せず元気に挨拶をしてきた。
「……お疲れですか?」
「そんなに酷い顔してる?」
「なんか、ゲッソリしてます」
 自覚はあったものの、他人にそう指摘されると余計に気分が落ち込むというもの。櫻花は深く息を吐いて気持ちを切り替えると、昨日設営中に変更することに なった箇所をチェックして回る。足りない備品や展示品等は既に届けられており、それらを所定の位置へと設置していく。
「おはよう」
「おはようございます」
 背後から声をかけられ、驚きのあまり息を呑んだ櫻花だったが、すぐに気を取り直して挨拶をする。見れば岡崎の手には紙袋があり、どうやらそこに例の物が 入っているようだ。
「持って来たぞ」
「ありがとうございます!」
 差し出された紙袋を受け取ると、中に入っている箱をひとつひとつ丁寧に取り出していく。そのうちのひとつを受付横のチラシ置き場に持っていき、本来の用 途であるペーパーウェイトとして利用すると、残りをリビングスペースに並べて陳列していく。
 透明な球体の中に遙か彼方の宇宙を閉じ込めたようなそれは、本来の使い方よりもインテリアとして利用されることが圧倒的に多い。販売価格はかなり高めに 設定されているにもかかわらず、発売から十年近く経ってもなお、売り上げ上位に食い込む人気商品だ。
 綺麗に並べられたペーパーウェイトを眺め、よし、と満足げに頷くとその成果を報告するために岡崎を探してキョロキョロとブース内を見回した。目当ての人 はすぐに見つかったが、受付で何やら話し込んでいる様子。とても声をかけられる雰囲気ではないため、櫻花はとりあえず今しなければならないことを片付けて いくことにした。
 開場時間が目前に迫り、場内のざわめきは一層増していく。準備は万端にしていても、常に不安と緊張が襲いかかってくるのは仕方がないだろう。ましてや今 回初めて大仕事を任された櫻花にしてみれば、きちんと出来ていても全てが足りないような気がして当然だ。
 ブースの片隅に全員が集まり軽いミーティングをしているが、櫻花一人、ソワソワとして落ち着かないでいた。
「じゃあ、今回この展示会のブースデザイン案から設営まで中心になって動いてくれた篠塚から、皆に何か一言」
 今日のスケジュールや注意事項などを話していた岡崎にいきなり指名され、櫻花は慌てふためいた。何も考えずに人前で喋る時には大概失敗している過去を思 い出し、暑くもないのに冷や汗が流れる。時間もないことだし、あまり長々と話せば舌禍が待ち受けている。櫻花は簡潔に、淡々と、事実だけを述べることにし た。
「ええと……皆さんご覧になって解ると思いますが、今回はマンションの間取りを再現しています。都会の共働き夫婦が休日を楽しく過ごすための家、がコンセ プトです。営業、商品開発両課のイチオシ商品の中から、特に素敵だなと思った物を選びました。皆さん、今日から三日間よろしくお願いいたします」
 ペコリと頭を下げると、パチパチと拍手をされる。特に変なことは言わなかったようだとホッと胸をなで下ろす櫻花に、中畑から質問が飛んだ。
「新商品ばかりじゃなくて、結構古いものも展示されてますけど、何か理由があるんですか?」
「古くても未だに一線級だったりするからですが、本当は私が『この部屋に住んでるご夫婦はこういう物を持っているだろうな』と思ったからです。ここに展示 してある商品は、全てそういった基準で選びました。中には私の趣味には合わないな、という物もあります。それでも、この部屋の住人が選ぶであろう物なら躊 躇わずに持ってきました」
 櫻花の回答を聞いた営業の川相が手を挙げる。
「篠塚さんが考えている、このモデルルームの住人である夫婦はどういった人達なのかな?そこを知っておかないとセールストークに説得力が出ないんだけど」
 困った櫻花が岡崎を仰ぎ見るが、答えろ、という無言の圧力を感じて観念する。
「三十代半ばの、子供さんのいない、会社ではある程度のキャリアがある……」
「もっと細かい設定が知りたいでーす!」
「……えっと、長い雌伏の時を経てようやく結ばれた、ラブラブの新婚さんです」
 女性社員達の「親に反対されて説得するのに時間かかったのかしら」「もっと大きな障害があったのかもよ」「色々想像して萌えちゃうわね」などといった感 想を耳にして、櫻花は穴を掘って今すぐそこに埋まりたい気分になった。
 嘘は何一つ言っていないが重大なことを隠している後ろめたさと、どうしてこんな案を提出してしまったのかという今更すぎる後悔に苛まれ、一瞬で三日間が 過ぎてくれればいいのに、などという現実逃避をしかけるが、もうすぐ開会するという館内放送によってその思考は遮断された。
「じゃあ、これから三日間よろしく」
 岡崎の挨拶で全員所定の位置に戻り、来場客を今や遅しと待つ準備を整える。



 こうして、櫻花の長くて短い三日間が始まった。