〜銀色の翼〜
何事もなく二日目を終え、迎えた展示会最終日。櫻花にとって最も厄介な人物が担当としてやってきた。簑田京子だ。
元々、櫻花達企画課と簑田京子が所属する商品開発課は社内でも犬猿の仲として知られている。企画課は、会社の上層部から「コストや技術など一切考慮せず
に思うまま企画を提出するように。但し“凄く良い”と思える物でなければならない」と言われていて、その企画が採用された後、商品開発課が全ての苦労を背
負って商品化にこぎ着けるという経緯があり、無茶な企画を出す上に会議でも口を出してくるという理由で、一方的に嫌われているのだ。
企画課としては、会社の方針に従っているだけで文句を言われる筋合いはない、と思っているから余計に感情的にこじれることになる。
さすがに主任、係長、課長クラスにもなればそういった感情を表には出さないようになるが、若手になればなる程その傾向は顕著だった。
「私、あの人嫌いです」
普段あまりそういうことを言わない中畑が、苦々しげな顔をして告げてくるのを見て、櫻花は年長者としてそれをたしなめた。
「そういうことは、思ってても口に出しちゃ駄目」
「それは解ってるんですけどね」
まだ商品開発課との接点などないはずの中畑がどうしてそこまで簑田京子を嫌っているのか、少し興味が湧いてしまった櫻花は小声で理由を訊ねてみた。
「営業の同期が言ってたんです。『普段、営業部を社内カースト最下層と見下してるくせに、岡崎課長に色目使ってる。社内コンペでも商品開発から出された物
は一度たりとも商品化されてないのに、どうしてあんなに偉そうにしてられるんだ』って」
櫻花は、隣の課に配属された三人の新人の顔を思い浮かべて溜息を吐く。
「最初は『そんなことないだろう』って思っていたんですけど……」
中畑の歯切れが急に悪くなる。何か彼女に嫌な思いでもさせられたのだろうか。
「実は、盆明け頃に簑田さんに岡崎課長のことを根掘り葉掘り訊かれたんです。それだけなら私も適当に答えておくだけだったんですが、なぜか篠塚さんのこと
まで訊かれまして……」
その言葉に櫻花は驚いた。簑田京子とは同期だが仲が良いとは言えず、交流もほとんどなかった。接点があるとすれば例のカラオケ屋で一緒になったぐらい
で、あれ以外はこれといった出来事などなかったはずだ。それなのに、なぜ。
櫻花の顔が曇ったのを見て、中畑は渋面を益々渋くする。
「だから私、言ってやったんです。篠塚さんとは同期なんですから、私なんかに話を訊かれず直接確かめたらどうですか、って。そしたらあの人、何て言ったと
思います!?」
開場前の準備をしながら小声で話していたはずが、いつの間にか興奮して声が大きくなっていく。そんな中畑をなだめながら、櫻花は話の続きを促した。
「『だって篠塚さん、暗くて話しかけたくないのよね』なんて言うんですよ!?酷いと思いませんか!?そう思うならなんで知りたいのか意味わかんないし、私
が篠塚さんの部下だって判ってて訊いてくるのも趣味悪いし、ほんっと嫌いです、あの人」
いつも元気で明るく、こういった人の暗い一面とは無縁だと思っていた中畑が、誰か特定の人物を嫌うということに、櫻花は少なからず衝撃を受けていた。そ
のきっかけが自分であるということは関係なくて、この後輩にもそういう所があったのかということに驚きを隠せなかった。もちろん自分を悪く言われたことに
対して怒ってくれるのは嬉しい。が、それ以上に驚いてしまってしばらく言葉が出てこなかった。
まだプリプリと怒っている中畑をなんとか落ち着かせると、今日一日問題が起きないよう先手を打っておく。
「もし簑田さんに何か言われたら、自分で判断つかないものは私か岡崎課長に指示を仰ぎます、って言って逃げてきていいからね」
「なんかそれも癪に障りますけど……私じゃまだ無理なのは判ってますから、言われた通りにします」
ひとしきり文句を言って気が済んだのか、中畑はやる気十分な様子で両手に握り拳を作っている。三日目だというのに元気なもので、櫻花は中畑の若さを羨ま
しく思う。自分もまだ二十代ではあるが、二十五歳を超えたところでひとつ、何か重要な階段を降りたような気がしていた。それはまだ目に見えて現れてはきて
いないが、そのうち嫌でも解る日が来るだろう。
ダンジョンへ向かう勇者が如く気合いの入った顔をしている中畑を眩しい思いで見つめながら、今の自分にしか出来ないことだってあるはずだと、考えを改め
る。三年後、五年後、十年後には、今の自分の年齢を“若い”と思い、あの頃ああしておけば良かったと振り返ることになる。そういった後悔を少しでも減らす
ために、今は目の前の仕事に全力を注ぐべきだった。ここまで大きなトラブルもなくやって来られたものを、最終日にぶち壊すようなことになっては目も当てら
れない。
櫻花は、頭の中から簑田京子のことも岡崎のことも追い出して、展示会を成功に終わらせることだけに集中することにした。慣れてきて緩みがちになる気持ち
を引き締め、初日の緊張感を思い出しながら仕事に臨む。
最終日は閉会時間が早いこともあり、午前中から多くの人出があった。フォーワーズのブースにも足を向けてくれる人は多く、櫻花達裏方が表に引っ張り出さ
れるほどの盛況ぶりだった。
当然休憩時間など取れるはずもなく、バタバタしているうちにあっという間に一日が過ぎていった。閉会時間には全員グッタリとしていて、後片付けの動きも
鈍い。会社から片付け要員で数名が派遣されてきたが、広報課をはじめとした女性社員達は彼らにほとんどを任せきりにして、お喋りに花を咲かせている。
櫻花は立場上そういう訳にもいかず、またそういう気にもならず、黙々と作業を進めていた。借り受けていたベッド、ソファーをそれぞれのメーカーの社員が
引き取りに来てくれたのを手伝い、丁重にお礼を言う。後日改めて礼に伺うことを伝え、無傷で返却できたことに胸をなで下ろす。
一番の大仕事が終わり、展示品の数量確認も終われば、後は大きなパネル類を解体するという力仕事のみ。展示品を手分けして車に積み込んで戻ってみれば、
そこにはもう“都会の共働き夫婦”の暮らしは欠片も残っていなかった。ここまで頑張って作り上げてきたものが、あっという間に消えてしまった現実というも
のは、櫻花の心にとてつもない寂寥感を与えた。
一番近い感覚としては、文化祭が終わった後といったところだろうか。クラスの展示物を片付けて元通りの教室に戻った時、まるで夢から覚めたような寂しさ
を感じたものだ。そもそも仕事と学生のお遊びでは肩にのしかかる重圧や責任は比べようもないが、その分達成感も桁違いだ。
これまでこの手の社内コンペにあまり興味を持てなかった櫻花は、今回のこの経験でその考えを改めていた。今日この日を迎えるまでの道のりを思い返してみ
ると、決して平坦なものではなかった。だがそれを補って余りあるほどの充実感があった。その反動で心にぽっかりと穴が空いてしまってはいるものの、一度こ
の感覚を知ってしまったらもう一度味わいたくなるに違いない。
ガランとしたブースを眺めやり、またいつかここに戻って来られるように頑張ろうと心に誓う。今の櫻花には実績云々よりこの興奮を再び、といった気持ちの
方が遙かに上回っていた。
全ての作業が終わり、レンタルスタンドだけが残ったブース内に全社員が集まり、最後のミーティングを行う。岡崎からの講評が終わり、櫻花が一言挨拶をす
ることになった。
「皆さん、三日間お疲れ様でした。お陰で大きなトラブルもなく、閉会を迎えることが出来ました。これもひとえに皆さんの協力の賜だと思います」
そこで一端言葉を切り、型どおりの挨拶ではなく自分の言葉で語り始めた。
「私は今回初めて、この展示会のコンセプト案を採用されました。そこから今日まで、右も左も判らない状態で突っ走ってきました。色々迷惑を掛けたと思いま
すが、それでも見捨てずに私を支えて下さった皆さんには、感謝してもしきれません。本当にありがとうございました」
喉をぐっと締め付けられそうになりながら、なんとか言葉を絞り出した櫻花は、感極まって涙を堪えることで精一杯になる。下げた頭をなかなか上げられな
い。
「よくやったな」
岡崎の優しい言葉に、櫻花の我慢も限界を超えた。意思に反してボロボロと涙がこぼれ落ち、足下にいくつものシミを作る。それにつられて泣き出した中畑が
抱きついて、驚きのあまり櫻花の涙は引っ込んだ。
「中畑さん、ちょっと落ち着こう?」
岡崎が二人をちらりと見やってから、パンパンと手を叩いてミーティングを締める。
「中畑は放っておくとして、今日のところはこれでお開きだ。打ち上げは後日ということで、詳細はうちの原主任に訊くように。解散」
輪が解けて散会していく同僚達を見送ると、そこに残っているのは企画課の三人だけになった。
「帰るぞ」
「はーい」
まだぐずぐずと鼻をすすっている中畑が声だけは陽気に返事をして、櫻花の腕に纏わり付いて離れようとしない。
「中畑さん、歩きにくいよ……」
「えー、いいじゃないですか」
「どうしたの、そんなに甘えて」
「えへへー」
「しょうがないなあ」
女性陣のやり取りを見ながら、岡崎が苦笑いをしている。それに気付いた櫻花は、恥ずかしさのあまり頭から湯気が出そうになっていた。あらぬ誤解をされる
のではないかとか、こんな所を見せてみっともないだとか、恥じ入る理由は色々あるが、一番は想い人に笑われた、という点だろう。
馬鹿にされたのではないというのは解っているし、そんなことをする人ではないとも思っている。しかし笑われた、という事実は消せない。恋する乙女の心情
というのは、難しいものである。
「中畑、いい加減放してやれ」
と助け船まで出され、恥ずかしさが増すばかり。不承不承腕から離れた中畑はいかにも不満げな様子だが、櫻花は心底ほっとしていた。懐いてくれるのは嬉し
いが、公衆の面前で抱きつかれるなど、これまで経験したことのない懐き方をされるとどう反応していいのか判らないのだ。
そこからは三人で展示会の感想などを話しながら、最寄り駅へ向かう。十一月にもなるとこの時間はすっかり日が暮れた後で、昼間の名残が遙か西の空に僅か
ばかり感じられるだけだ。
海辺ということもあって風は冷たく、季節の移ろいを肌で感じると、ここまでの日々の長さを思い知る。コンセプト案が採用されたのは、梅雨入り直前。新緑
の季節から初夏へと移行しつつある頃だった。それから夏を迎え、秋が深まり、今や冬目前の晩秋だ。
たかが半年、されど半年。あっという間に過ぎ去った季節は、濃密な時間を過ごした証だろう。
ひとつ、大きな仕事はやり終えた。後進を育てる仕事は春まで続く。来年六月の展示会に向けてのコンペはもう間近。慌ただしい日々は相変わらずだが、自分
は少しは成長できたのだろうか。恋い焦がれるだけではなく、憧れの存在である上司に少しは近づけたのだろうか。
あれこれ考えることは浮かんでくるが、とりあえず今は展示会が無事に終わったことを素直に喜び、明日から待っている報告書提出という戦いに備えるべく今
夜は早く寝ようと心に誓う櫻花だった。