〜銀色の翼〜
展示会から一週間が過ぎてもなかなか回復しないままでいた櫻花の体力は、週末には底を尽きかけていた。
今日は原が取り仕切った展示会の打ち上げの日で、三十人も入れば満席になる会社近所の居酒屋を貸し切って行われている。
営業部長の藤田が乾杯の音頭を取り、そこから一気に無礼講の世界になだれ込む。
料理はコースで決められているし、飲み物は各自注文するという、幹事にとってはこれ以上楽なことはない宴会で、原はビール片手にあちらのテーブル、こち
らの座敷と渡り歩いてご機嫌だ。
一方、この宴会の主役ともいえる櫻花は、ごっそり削られた体力をこれ以上消耗しないよう、席の移動もせずただ黙々と食事をすることに集中していた。
営業課のメンバーは同じ営業部に属しているから顔見知りばかりだが、フロアが違う商品開発や広報のメンバーとは今回の展示会を通じて初めて知り合った人
も多い。だから本来ならお礼がてら声を掛けて回るべきなのだが、何しろ疲れが酷くてそんな気力も湧いてこない。
櫻花もうすうす感じていることだが、削られたのは体力というより精神力なのだ。展示会の延長のようなこの打ち上げでは、食べ物や飲み物を目の前にしても
テンションが上がるはずもなく、挨拶もそこそこに自席で地蔵と化しているのだ。
それにもうひとつ、櫻花の気分が乗らない理由があった。それはこの打ち上げの参加者の中に簑田京子がいる、ということだ。嫌味を言うにしても自分をター
ゲットにすればいいのに、どうしてその矛先を後輩に向けるのかと、櫻花の怒りは日を追うごとにじわじわと高まってきていて、今何かを言われたら黙って聞い
ていられない自信がある。
大人としてそんなことはできないという自制心が働き、その原因には近寄らないでおこうと考えた結果が、これだった。
とてもお酒を飲みたい気分ではないということや、こういった居酒屋の飲み放題メニューには好みの酒がそう多くないこともあり、今日はウーロン茶を注文し
ていた。
料理をもそもそと食べながら奥の座敷から店内を見渡すと、わいわいと楽しげな様子が目に映る。皆今回の展示会では尽力してくれて、本当に感謝している。
それはもちろん簑田京子も例外ではない。仕事は仕事としてきちんとこなしてくれていた。ただ、その際の行動に少しばかり、いや、多大な疑問があるだけの話
だ。
櫻花は、三日目の出来事を思い出してしまい、イライラが増してしまった。腹立ち紛れに目の前にある料理を手当たり次第胃袋に納めていくが、腹が苦しくな
るばかりで一向にすかっとしない。
自分にはやけ食いは向いていないのだと悟るものの、酒を飲む気分でもない。仕方なく、注文したウーロン茶をちびちびとやっていると、しばらく席を外して
いた中畑が戻ってきた。
「篠塚さん、どうしたんですか?元気ないですよ?」
いつもの陽気さは鳴りを潜め、心底心配そうな顔をしている。
「もしかして、簑田さんに何か言われたんですか?」
当たらずとも遠からずといったところを突いてきて、中畑の勘の鋭さには舌を巻く。とはいえ、そのまま答えてしまうわけにもいかない。櫻花は、疲れが取れ
なくて、と当たり障りのないことだけを口にする。それも嘘ではないのだが、なぜか少し心が痛む。
「まだ若いのに何言ってるんですか」
中畑が笑う。
「燃え尽き症候群みたいなものかも」
「ああ、それなら解ります。私も高校や大学の文化祭の後、そんな感じになりました」
恐らく実行委員会などで忙しく働いていたのだろうな、と櫻花は推測した。中畑がこれまで絵に描いたように充実した学生生活を送ってきたことがうかがえ
て、後輩がますますまぶしく見える。これまで一切縁が無かった種類の人とこうして仕事をすることになるのだから、社会に出るということは本当に試練の連続
だ。
もちろん、櫻花が中畑を嫌っているとか、苦手にしているとかいうことではない。ただ、これまでそういう人達と接触してこなかったため、時折コミュニケー
ションの取り方で困惑するのだ。
敬愛する先輩がそんなことを考えているとは思いもしないし、その先輩が本当は精神的に疲れているなどとは気付いていない中畑は、眉間に皺を寄せながら小
声で櫻花に告げ口をする。
「簑田さん、さっきから岡崎課長のそばにべったりなんですよ?課長は適当に流してるんですけど、邪険にされないからって調子に乗っちゃって」
苦々しげに吐き捨てると、手にしていたビールをぐっと呷る。納涼会ですっかり酔っ払っていたことを思い出して、櫻花が飲むペースを落とすようやんわりと
言ってみるが、それはどうやら逆効果だったようである。
「飲まなきゃやってられないんです!」
ジョッキに残っていたビールを一気に飲み干して、次の一杯を注文する。今日はビールで通すつもりなのか、中畑には一切の迷いがない。
「お、なんか荒れてるねえ」
カリカリしている中畑をからかうような声の主は、今日の幹事である原だった。
櫻花と中畑の間に割り込んで腰を落ち着けると、中畑が荒れてる原因を聞き出そうと水を向ける。
「で、何があったの?おにーさんに話してごらん?」
チャラチャラとした軽い口調ではあるが、その人が今一番欲しい言葉を的確に与えるところはさすがだと、櫻花は感心しきりである。
一方の中畑は、原の誘導に乗せられて簑田への不満をぶちまけ始めた。ここだけ奥まった座敷とはいえ誰が聞いているか判らない場でのこと、なるべく周囲に
は聞き取れないよう小声でボソボソと話しているが、時折ヒートアップして声が大きくなる。慌てて声を潜めては大きくなるを繰り返しているうちに、話題は展
示会三日目の簑田の行動に移っていた。
「――……って思いながらも、ちゃんと対応してたんです。そうしたらあの人、私に訊くより課長に直接訊いた方が早いって言い出して。そりゃー確かにそうで
すよ?でも、よくよく見てたら、課長にしてる質問っていうのは私でも答えられるようなものばっかりだし、課長と話したいがために下らないことばっか訊いて
るの見え見えなんですよ!そんな女相手にされないに決まってるのに、そんなことも解らないとかほんと信じらんない」
中畑が先に怒ってくれたおかげで、櫻花は抱えていたイライラがすっと消えていくような気がした。そう思っていたのは自分だけではなかったのだという気持
ちが、少し心を落ち着けてくれたようだ。
一方の中畑は相変わらずプリプリと怒っていて、原がそれを面白そうに煽っている。
「えー、それどういうこと?簑田さんってうちの課長のこと好きなの?」
「本当に好きかどうか判りませんよ?ただ単に、独身・イケメン・出世しそう、っていう条件だけで嫁の座を狙ってるような気がします」
本当はあるかもしれない好意まであっさり否定されて、櫻花はさすがに簑田が可哀想になってくる。それと同時に、自分のこの気持ちを誰かに打ち明けたとし
て、同じように思われないという保証などないということに気付かされた。もちろん、何かと励ましてくれる尚美以外には何を言うつもりもない。ただ、最近尚
美のプライベートがバタついていて、相談を持ちかけられるような状態ではないのだ。友人相手に酒を飲みながら愚痴を零す、ということができない状況が、櫻
花の精神力削減に拍車をかけていると思われる。
「課長がイケメンかどうかは置いておくとして、そういう人には課長は落とせないと思うよ」
「えー!?じゃあ主任はうちの会社なら誰がイケメンだと思うんですか?」
「そうだなあ、俺」
「うわー、言うんじゃないかと思ったけど本当に言ったよこの人」
「酷いなあ」
二人が社内のイケメン談義に花を咲かせている間も、櫻花は原の言葉を頭の中で繰り返す。
――そういう人には課長は落とせないと思うよ――
岡崎の為人を鑑みた原なりの解釈なのか、それとも過去にそういうことがあったのを知っているのか。どちらにしても、簑田が岡崎に言い寄っている今、想い
を伝えるのは得策ではないように思えた。
ひとつ大きな仕事を終えてそれなりに自信もついたが、まだまだ半人前だという自覚もある。もうひとつだけ、何かを成すまで胸に秘めておくべきだろう。
二回連続で選ばれるなどとは思ってはいないが、六月の展示会用のブースデザイン案をもっと魅力あるものに仕上げて提出しよう。
打ち上げの席で次への気合いを入れるという、熱血サラリーマンのようなことを考えている櫻花の横では、話題はイケメン談義から美女談義へと移っている。
「かわいい系で言ったら、ダントツで受付のカオルさんですよ」
「カオルちゃんかー、確かにかわいい。じゃあ、色々総合して一番美人だと思うのは誰?」
「見た目だけじゃなくて中身も加味して考えると、簑田さんなんて真っ先に脱落ですよね。ふふふ」
「へえ、簑田さんのこと嫌ってるけど美人だって認めてるんだ?」
「そりゃ、見た目はそうですよ?でもなんていうかこう、腹黒さがにじみ出ているって言いますか……だから、一番はやっぱり篠塚さんだと思います」
「えっ」
聞くとはなしに聞いていた美女談義でいきなり名前を挙げられて狼狽える櫻花をよそに、原と中畑はすぐ横にいる人物に対しての批評を続ける。
「配属初日に顔を合わせた時びっくりしましたもん。『女神様がいる!』って」
「女神様」
「黒く艶やかな髪、透き通るような白い肌、薔薇のような唇から紡ぎ出される玲瓏な声……」
「うっとりしてるね……」
「声に聞き惚れてて話の中身が頭に入ってこなくて何度怒られたことか」
「それは自慢しちゃいけないと思うよ」
「それに!一年目から色んな経験をさせてもらって、私、本当に感謝してるんです!だから、篠塚さんに近寄るハイエナどもからその身をお守りするのが私の使
命!」
「……完全に出来上がってるね、君」
原は、熱弁を振るう中畑を落ち着かせて、手からビールジョッキを取り上げる。ウーロンハイだと偽ってウーロン茶を飲ませると、今度は身体ごと向き直って
櫻花に訊いた。
「さっきの中畑さんの話、聞いてたよね?」
「はい」
これだけ近い所で話しているのだから、聞きたくなくても聞こえてしまうというもの。中畑のあまりの高評価に、途中から恥ずかしくて消えてしまいたくなる
程だった。
「最初は初めての新人教育に不安しかなかったと思うけど、あれから半年以上経った今はどう思ってる?」
原の顔も声も至って真面目で、楽しそうに飲み食いしている周囲の喧噪が一瞬かき消されたような気すらした。だから櫻花も誤魔化そうとはせず、きちんと考
えてからそれに答えた。
「正直、今も不安はあります。もっといい教え方があるんじゃないかとか、中畑さんの才能を伸ばすのに本当にこの方向で大丈夫なのか、とか……。でも、さっ
き中畑さんが感謝してるって言ってくれて、少しは役に立ててるんだなって実感しています」
櫻花の答えに満足したのか、原はにっこり笑いながらうんうんと頷いている。
「三月まで頑張って面倒見てあげてね?」
「大したものではないですが、私の持てる全てを伝えようと思っています」
櫻花の決意表明を聞いて、原は内心ほくそ笑んだ。新人指導と展示会リーダーというふたつの仕事を任されたことによって、物の考え方が明らかに変わってい
る。もちろん本人は気付いていないが、言動や仕事への取り組み方も少し積極的になってきているのだ。
櫻花の成長を期待して中畑の指導役を任せたのだが、こうも上手くいくと却って手応えを感じないぐらいだった。それでも、自信をつけて硬い心の殻を破りつ
つある今、この先きっと楽しいことが待ち受けているに違いない。それはもちろん原にとっての“楽しいこと”ではあるのだが、最終的には関係各所から感謝さ
れること請け合いだと確信していた。
楽しさのあまり頬が緩みそうになるのを懸命に堪えようとするが、どうやら失敗したらしい。櫻花が原のなんとも微妙な顔を見て不安そうに呟いた。
「あの、私、やっぱり駄目なんですか?」
しゅん、とうなだれるのを見て慌ててフォローするが、まだまだ砂上の楼閣に等しい櫻花の自信などほんの些細なことで崩れてしまい、原は己の迂闊さを呪っ
た。こういう所が上司には遠く及ばないのだと反省するが、今は目の前の櫻花が自信を取り戻すことが先決だ。
どうしたものかと考えあぐねている所へ、原にとっての救世主が現れた。
「なんだ、せっかくの打ち上げなのに反省会でもしてるのか?」
簑田が目を離した隙に席を立った岡崎が、部下三人が固まっている所へ避難してきたのだった。
「課長、いい所へ!」
原の熱烈な歓迎を受けて何やら面倒な予感がしたものの、簑田に纏わり付かれることに比べると天国のようなものだろう。
見れば櫻花はしょげていて、中畑は酔ってくだを巻いている。そんな二人に挟まれた原はというと、彼らしくもなく慌てふためいている。珍しいことがあるも
のだと思いながら、一体どんな尻ぬぐいをさせられるのかと身構えた。
そんな岡崎の心情など知る由もない原は、身体を中畑の方に寄せて無理矢理隙間を作ると、そこに岡崎を座らせた。座敷というのはこういう時に便利なもので
ある。
「ちょっと失敗しまして……褒めてたはずの篠塚さんをなぜか落ち込ませてしまいました。俺は中畑さんの面倒見ますんで、後はよろしくお願いします」
そう言って丸投げしてきた原の後頭部を睨み付け、思わず零れそうになった溜息を呑み込んだ。
「で、どうして落ち込んでいるんだ?」
単刀直入に訊かれ、俯きがちだった顔を上げた櫻花はまたすぐに顔を俯かせた。テーブルに頬杖をついてこちらを見ている様が、酒の力もあってか壮絶な色香
を漂わせており、とても直視できなかったのだ。
ボソボソと小さな声で「ええと」とか「そうじゃなくて」などと呟きながら言葉を探すも、突き刺さる視線に耐えるのが精一杯で、どうして落ち込んでいたの
かなどすっかり忘れてしまった。
こんな簡単なことで落ちていた気分が上がる自分に呆れながら、それでも櫻花は気持ちが浮つくのを抑えられなかった。
相変わらず纏わり付くような視線を投げかけてくる岡崎から目を逸らしながら、それでも時折チラリと観察をしてみる。いつもは鋭い目つきをしているのに、
酒が入っているせいだろうか、今はトロンとした半目でこちらを見ている。
そんな目で見られたら言わなくていいことまで白状してしまいそうだ、という危機感すら抱く櫻花だったが、岡崎の口から出てきた言葉は質問ではなく労い
だった。
「お前は今回よく頑張ったよ」
口元に薄い笑みを浮かべながら優しく語りかけられ、櫻花の心臓は破裂しそうなほどバクバクと脈打つ。その破壊力にノックアウト寸前だ。
なんとか正気を保とうと、あれやこれやと小難しいことを頭に浮かべてみるものの、隣の人の存在がそれを許してくれない。だからと言ってそっぽを向くわけ
にもいかず、黙って喋らないわけにもいかず、いよいよ進退窮まったと思われたその時。
「あの、課長、あの時は本当に申し訳ありませんでした」
櫻花は謝罪した。
いきなりのことに驚いた岡崎が目を丸くする。そんな様子もまた素敵だ、などと砂糖がかった考えが浮かびそうになるのを打ち消し、櫻花はきちんと説明をす
る。
「あの日、私が無理を言ってペーパーウェイトを持ってきてもらった時、パンフレットのことなんてすっかり忘れていました。それなのにちゃんと用意して下
さって、本当に助かりました。自分の視野の狭さを思い知ったのに、きちんとお礼も謝罪もし損ねたまま今日までズルズルときてしまって……本当に申し訳あり
ませんでした」
展示会初日、櫻花は上司におつかいを頼んだことや、その時気を利かせてパンフレットを持ってきてくれたことに対して、きちんとお礼を言おうと思っていた
のだが、バタバタしていて満足に礼も言えないまま終わってしまっていた。それを気に病んでいたものの、精神的な余裕がなかった櫻花は今の今までチャンスを
逃し続けていたのだった。
毎朝僅かとはいえ二人きりになる時間があるにも関わらず、そこではどうしても言い出せなかった。あの時間は挨拶を交わすだけのものと決めているわけでは
ないが、これまで長い時間かけて築き上げてきた雰囲気を壊したくなかったのかもしれない。
ようやく胸のつかえが取れたとほっとしていた櫻花だったが、下げた頭をふわりと大きな掌が撫でる感覚に再び心臓が早鐘を打ち始めた。
慌てて頭を上げると、撫でた本人の方が驚いて手を宙に浮かせたまま固まっている。
「すまん、つい……」
「いえ、お構いなく……」
会話にならない言葉を交わし、その場を取り繕うように料理に箸を伸ばす。
「いももちって美味しいですよね」
「ああ、そうだな」
二人の間にはなんともいえない空気が漂っているが、宴会がお開きになるまでまだ三十分は時間がある。当たり障りのない話をしながら、居たたまれない思い
で時間が過ぎるのをじっと待つしかないだろう。
そして、その一部始終を原に見られていたことに、櫻花も岡崎も気付いていなかった。