聖誕祭│01

 十二月に入ると、世間は一気にクリスマス色に染め上げられる。このところ日本では十月末にハロウィンなる祭りを流行らせようとしているらしく、九 月が終わるとオレンジのカボチャや魔女っぽいイラストが溢れかえっていた。その余韻などないまま、十一月にはチラホラと赤と緑を見かけるようになり、月が 変わると同時にそれらが一斉に幅をきかせるようになる。
 今年は展示会の準備や本番で忙しくしていたため、街がハロウィンで盛り上がっていることなど気付きもしなかった櫻花だったが、その仕事も終わり心に余裕 が出来た途端、クリスマスムード一色になっていくのが目にとまるようになったのだった。
 またしてもこの季節がやってきてしまった。
 櫻花は苦虫を噛みつぶしたような顔をしながら出勤している。あちらを向いてもこちらを向いてもクリスマスばかり。あと三週間ほどの我慢だと自分に言い聞 かせながら、営業部のドアを開ける。
 年末でそろそろ忙しくなる頃ではあるが、この時間に出社している社員はおらず、フロアには人影がない。ただ一人を除いては。
 大きな音を立てて仕事に集中しているその人の邪魔にならないよう気をつけながら、給湯室でお茶の準備をする。薬缶を火にかけお湯を沸かしている間に、電 気ポットに水を入れてスイッチを入れ、コーヒーメーカーをセットする。
 紅茶、緑茶、砂糖、ミルク等の備品の確認をし、足りなくなりそうなものがあればメモをしておくことも忘れない。
 一通り準備を済ませたところで薬缶のお湯が沸き、いそいそと急須にお湯を注ぎ入れる。途端に玄米の香ばしさと緑茶のさわやかな香りが漂いはじめる。玉露 入り玄米茶の良い所は、熱湯で淹れられるところと、抽出時間が三十秒ほどで済むところだと櫻花は思っている。
 もちろん味も大事だが、朝のこの時間は一秒たりとも無駄にしたくはない櫻花にとって、短時間で淹れられ、かつ美味しい玄米茶は何物にも代えがたい一品な のだ。
 そうこうしているうちにゴポゴポとコーヒーメーカーが音を立てはじめる。そろそろ給湯室がコーヒーの香りで充満することだろう。櫻花は玄米茶をマグカッ プに注ぎ、いそいそとフロアに戻っていく。
「おはようございます、課長」
「ああ、おはよう、篠塚。毎朝悪いな」
 いつもの挨拶、いつものやり取り。こんな些細なことが、櫻花の荒んだ心を慰めてくれるから不思議だ。
 つい緩みがちになる頬を引き締めて岡崎の前から辞すると、給湯室で後片付けをする。ここなら誰にも見られないから、とニヤニヤしてしまうのも毎朝のこと だった。
 ところが翌朝、異変が起こった。
「おはようございます、課長」
 いつものように櫻花がお茶を淹れたマグカップを岡崎のデスクに置くが、返事がない。心ここにあらずといった様子で、どうやら仕事も捗っていないようだっ た。どこか具合でも悪いのかと心配した櫻花が「大丈夫ですか?」と訊くが、大丈夫ではない口調で「大丈夫だ」と言うばかり。
 岡崎のこのような姿を入社以来初めて目にした櫻花にしてみれば、今すぐ家に帰って大人しく寝ていて欲しいという思いで一杯だった。昨日までは普通にして いたのに、一体どうしてしまったのだろうか。
 一部下である自分には理由を聞き出すこともままならない、ということを痛感して朝から萎れていると、この人こそ暗い顔を見たことがない、という原が元気 に出社してきた。
「篠塚さんおはよ〜」
 渡りに船とはこのことで、櫻花は挨拶もそこそこに原を小会議室に引きずり込んだ。
「やだ、篠塚さん、朝から積極的だね。どうしたの?」
 櫻花はそんな冗談に付き合う余裕もなく、切々と訴える。
「岡崎課長の様子が変なんです。挨拶しても返事がないから仕事が忙しいのかと思ったらぼーっとしてるだけで、具合でも悪いのかと思って声を掛けても『大丈 夫』としか返してくれなくて……いつもの課長じゃないんです。主任、それとなく理由を探ってもらえますか?」
 ふぅん、と気のない返事をした原だったが、櫻花のあまりの必死さに絆されたのか、小会議室を出る前には首を縦に振っていた。
 その日一日、櫻花が気に掛けて時折二人の様子を窺っていると、特に変わった様子は見受けられなかった。
 朝の異変は勘違いだったのではないか、と思い初めていた夕方頃、原からの社内メッセージが届いた。
『終業後、報告事項があります。懇談の場所等、詳細は後ほど連絡します』
 それを読んだ櫻花は、その短いメッセージにこめられた意味を考え、気が重くなった。
 原が何らかの情報を掴んだのは確かで、それは直接会って話さなければいけないような内容だということが読み取れる。それが櫻花にとって都合の良い内容か 悪い内容かは判らないが、どちらにしても軽い話ではなさそうだ。



 じりじりとしながら終業時間を迎え、原に連れられて入ったのは趣のある居酒屋だった。客は三十代後半以上が大半で、皆、声を荒げることもなく静かに楽し く酒と料理を楽しんでいるようだ。
 普段こういった店に来慣れていない櫻花は、見るもの全てが珍しく、本来の目的も忘れてキョロキョロと店内を見回している。壁に掲げられたメニューは品数 が多く、初めての客はどれを注文すればいいのか迷うのではないかと思われた。
「篠塚さん、飲み物はどうする?」
 原に手渡されたメニューを見た櫻花は、ずらりと書かれた酒の名前に少しばかりくらくらしはじめた。日本酒はもちろん、焼酎、ビール、カクテルにワインま で取りそろえてあり、飲みたいものが沢山あって目移りしてしまう。
「ノンアルコールカクテルもあるよ?」
「本当だ……」
「決められない?」
「ええと、ちょっと待って下さい」
 メニューを見れば見るほどわからなくなる。こうなったらと、メニューを閉じて目を瞑る。適当なページを開いて指を差した所にある物を頼むことにした。
「……モヒートを」
 それがどんな物かよく知らないまま注文し、原が頼んだビールと共に運ばれてきたのを見て絶句する。
「葉っぱが……もじゃもじゃしてる……」
 そう呟いた櫻花の顔がよほど面白かったのか、原はケラケラと腹を抱えて笑っている。目尻にうっすら涙を浮かべながら、とりあえず乾杯と言ってグラスを合 わせた。
「うわ、これ、甘くてミントが凄く爽やかで飲みやすいです」
「それはよかった。でもここのはアルコール度数高めだから、あんまりグビグビいかないようにね」
「はい」
 お通しはぶり大根とほうれん草の白和えの二種盛り。真ん中に仕切りのある皿に、どちらもちんまりと盛られている。ぶり大根の方は刺身ぐらいの大きさのぶ り一切れに、大根が一切れ。よく味が染みているようで、大根は中まで飴色に染まっている。上に削った柚子の皮を散らしてあるのが憎らしい。もう一つのほう れん草の白和えは、定番の蒟蒻、にんじん以外にもれんこん、しめじ等が入った具だくさん。こちらは上にすりごまが散らしてある。
 櫻花はまずほうれん草の白和えに箸を伸ばした。口に入れるとほんわりと甘い味が広がり、シャキシャキとしたほうれん草とれんこんの歯触りが楽しい。後味 に大豆の香りが押し寄せ、鼻を抜けていく。
「美味しいですね」
「ふふ、気に入ってくれた?」
「はい」
 それはお世辞でも何でもなく、機会があればまた来店したいと思った櫻花の本心だった。
 と、ここでようやくこの店に来た本来の目的を思い出し、原が適当に注文した料理が来るのを待つまでの間、報告事項とやらを話してもらうことにした。
「その前に約束して?この内容は絶対、誰にも、何があっても他言無用だよ?」
「はい」
「それが課長本人でも、だよ?」
「……はい」
 原が本人から聞き出したことを、第三者である櫻花が知っているのはおかしな話だ。櫻花はもちろん黙っているつもりだったが、こうまで念押しされるという ことは、よほど重い内容なのだろうと身構えた。
「課長、見合いをさせられそうなんだって」
 原がサラリと言った。
 見合いというのは、結婚相手を探すために仲人に紹介された男女、そしてその両親達が仲人と共に料亭やホテルなどで食事をし、後は若い人達だけで……など と言って男女が二人きりになり、そこで意気投合したら結婚へ向けて交際を始めるという、アレだろうか?課長がそれをするということだろうか?
 櫻花は頭の中でそんなことを考えるものの、なかなかその意味を理解できないでいた。いや、理解できないというよりは理解したくないと言った方がいいかも しれない。
 あまりの衝撃に言葉を失った櫻花にあれこれ話しかけるでもなく、原はただ黙ってその様子を見守っている。心中察して余りある、といったところだろうか。
 二人の間には沈黙が流れ、店内のそれほど大きくないざわめきがやけに耳につく。そこへ料理が運ばれてきて、緊張の糸が少し解れた。
「まずは食べようか?」
「……はい」
 櫻花にしてみたら食事どころではないのだが、湯気が立ち上る料理に目も鼻も刺激され、お腹がきゅるると鳴り出した。精神的な食欲不振に陥るには時間が足 りなかったようである。
 若鶏の唐揚げ、豆腐田楽、かぶのエビあんかけ、水菜のサラダ、トラウトのホイル焼き。どれも美味しそうだが、定番の唐揚げ以外はどれも若者らしからぬ チョイスで、櫻花はつい笑いを漏らす。
「さあさあ、熱いうちにいただこう」
「そうですね」
 櫻花はまず若鶏の唐揚げからいただくことにした。一切れが大きく、囓ると熱い肉汁と脂が勢いよく口の中で弾ける。噛めば噛むほどじんわりとうま味があふ れだし、鶏もも肉の素晴らしさを堪能できる。つづけざまに水菜のサラダを口にすると、水菜の苦みをカリカリに焼いたベーコンと柑橘系のドレッシングが中和 する。
「美味しい……」
「でしょ?それにここ、会社の人はあんまり知らないみたいだから、内緒話するのに最高なんだよね」
 美味しい料理に美味しいお酒、客層も悪くないという隠れた名店と言えよう。そんな店に来た理由を思い出した櫻花が顔を曇らせると、向かいに座ってもりも り食べている原はなんでもないことのように言う。
「親御さんに言われたらしいんだけど、課長はその気が無いから困ってるみたいだったよ。だからまあ、体調が悪いとかじゃないし、そんなに心配しなくてもい いんじゃないかな」
 とんでもない爆弾を落とした本人にそう言われても安心などできるはずもないが、そもそものきっかけは自分が様子を探ってくれと頼んだことだったのだか ら、櫻花には原を責める資格などなかった。
 これを機にいっそ想いを告げてしまえば、という気持ちがないわけではない。しかし、それで岡崎が確実にお見合いをやめるとは断言できないし、そもそも告 白というのは、その人が好きだ、という一心で告げるものであって、見合いをやめて欲しいから、などといった二心ある状態でするものではないと櫻花は考えて いる。
 当事者でもなく、助言をする立場にもなく、本来ならばこの事実を知らないはずの人間である櫻花が、今ここでうだうだと考えても解決策など見つかるはずが ないし、もし見つかったとしてもそれを伝えることはできない。それに、これ以上は原を巻き込むわけにもいかない。
 自分に許されるのは遠くから見守ることだけ、ということをようやく認めた櫻花は、今はこの食事と酒を大いに楽しんで憂さを晴らすことにした。
 豆腐田楽は甘い味噌と田舎豆腐の相性もばっちりで、かぶのえびあんかけは口の中に入れただけでかぶが溶けるほど柔らかく、しっかり染み込んだ出汁とえび あんかけのうま味が口いっぱいに広がる。トラウトのホイル焼きにレモンをたっぷりと搾り、醤油をかけると見た目からして美味しい。
 櫻花はその後、かぼのちゃの焼きコロッケ、白菜と豚肉のせいろ蒸し、セロリの浅漬け、締めににゅうめんと季節の自家製シャーベットまで頼んで、十年熟成 梅酒のロックと共に満喫した。



「原主任、今日は色々とありがとうございました」
「そう?俺は何もしてないけど、篠塚さんがそう言うなら良かったよ」
 店を出て駅までの道すがら、空元気で楽しそうにしている櫻花をじっと観察しながら、事態が急転しそうで俄然楽しくなってきた原だったが、その前払いとし て軽くなった財布に涙を禁じ得なかった。