〜銀色の翼〜
世間のクリスマスで浮かれた空気がやけに腹立たしく、このところ眉間に刻まれた皺が深くなる一方だった櫻花が、岡崎の見合いの件だけではなく、友
人のプライベートのゴタゴタで気もそぞろになりながらなんとか二週間を乗り切ったある日のこと。
「篠塚さん、本当に申し訳ないんだけど、この資料今日中にまとめてもらえるかな?」
終業まであと一時間を切ろうとした頃、隣席の鴻野葵に急ぎの仕事を頼まれた。これを引き受ければ確実に残業になるが、特に今は忙しくもなく、早く帰宅し
たとて何をするでもなく過ごすだけなので、困った時はお互い様とばかりにそれを承諾した。
どうやら保育園に預けている子供が熱を出したとかで、早退してこれから迎えに行かなければならないらしく、鴻野はしきりに頭を下げていた。
働くお母さんというのは大変だなあ、などと考えながら、渡された資料をパラパラと捲っていく。
きちんと指示は出されているし、必要な箇所には付箋も貼ってあるし、そう時間のかかる物でもなさそうだった。問題があるとすれば、これをどうまとめる
か、といった感性が問われる所だろう。
「篠塚さんの好きにしていいから」
と言われてはいるものの、その内容如何で今後の業務を引き継ぐ可能性もある、ということも示唆されており、どこまで自由にやるべきなのか悩ましい所だっ
た。
とにかくやれるだけのことはやろう、と作業に没頭していた櫻花がふと気付いた時にはフロアには人影もまばらになっていた。時計を見ればもう二十時を過ぎ
ている。
もう先も見えており、あと少し頑張れば終わると気合いを入れ直して作業を再開させたその時、櫻花の机にコンビニの袋が置かれた。あまりに突然のことに驚
いて振り返ると、そこには岡崎が立っていた。
「お疲れ」
櫻花は机に置かれたコンビニ袋と岡崎の顔の間に視線を何度か往復させ、その意図を読み取ろうとするが、どうにもよく解らない。
「あの、課長、これは?」
思い切って訊ねると、頑張っているご褒美だと言われ益々混乱する。これまでだって残業をしたことは多々あるし、その時にこんな差し入れを貰ったかといえ
ば否である。
ありがとうございます、と言って素直に受け取ったものの、その理由はよく解らないままだ。そして一体何をくれたのかと袋をのぞき込むと、そこにはケーキ
が入っていた。
なぜケーキなのか、櫻花は首をかしげる。
「課長、ケーキなんですが……」
「もうすぐクリスマスだからな」
まさかこの人にそんなことを言われるなんて、と櫻花は憮然とした表情になるのを堪えきれなかった。顔に出さないようにと気をつけているがつい出てしまっ
た、といったところだろうか。
「まあ、食べてくれ。ケーキに罪はないし、それにたかがコンビニケーキだ」
「それはまあ、そうですが」
不承不承といった態でケーキを取り出すと、確かにこれには罪はないと思い直す。この季節だからか柊の装飾があるのは目を瞑るとして、とても美味しそうな
苺ショートケーキではないか。
櫻花は目を輝かせながら礼を言う。
「課長、ありがとうございます。いただきます」
上司の前で失礼だとは思うものの、これをくれたのはその上司なのだから問題あるまいと、櫻花は早速ケーキを頬張った。最近のコンビニスイーツというのは
侮れないもので、クリームは甘さ控えめでくどくなく、スポンジもしっとりなめらかな舌触りで、そのバランスも絶妙だ。
思わぬ“ご褒美”をほくほく顔で食べているところへ、岡崎が声を掛ける。
「なあ篠塚、ちょっと頼みたい仕事があるんだが」
「これから、ですか?」
しまったこのケーキはそういう意味だったのか、と自分の迂闊さに呆れながら、それでも、この人の仕事なら引き受けて損はないと思い直す。きっと将来役に
立つことが習得できるはずだ。
とはいうものの、今の作業が終わるまであと十五分ぐらいはかかるだろう。そこから更に残業となると、一体何時に家に帰れるか判らない。
そんな気持ちが顔に出ていたのだろう。
「これから、ですか?」
そう訊ねた櫻花に、岡崎が慌てたように答えた。
「いやいや、そうじゃない。個人的に頼みたいことがあってな。礼ははずむから、引き受けてくれるか?」
岡崎にそんなことを言われて否と言える櫻花ではない。はずむと言ってくれる礼などより、自分を頼ってくれたということそのものが何よりも嬉しいことだっ
た。
「いいですよ。何をすればいいんですか?」
詳細も聞かず二つ返事でオーケーした櫻花に、依頼主であるはずの岡崎の方が驚いていた。こんな簡単に引き受けてくれるとは思っていなかったのだろう。
いつも冷静で、何があっても取り乱した所など見せたことのなかった岡崎が、今、櫻花の目の前で視線を泳がせ「あ」とか「う」とか、意味を成さない言葉を
発している。
一体何が彼をそこまで挙動不審にさせるのか、一体どんな頼まれごとなのか、櫻花がドキドキしながら待っていると、ようやく意を決した岡崎がボソリと零し
た。
「今度、お前の身体と時間を貸してくれないか」
「……え?」
「やむにやまれぬ事情があってな。一日だけ彼女のフリをして欲しい」
「彼女のフリ、ですか……」
今度は櫻花が挙動不審になる番である。今言われた言葉を頭の中で反芻し、その意味を理解しようと必死になって考える。
やむにやまれぬ事情というのは、先日原から聞いた見合いの件で間違いないだろう。一日だけ彼女のフリをして欲しいというのは、恐らくそれを断るための口
実にしたいといったところではないだろうか。それよりも、自分に頼んできたのは一体どういうことなのか。本命の彼女には頼めないから自分に白羽の矢が立っ
たのか、それとも本命の彼女などいないのか。
などと考えてみるものの、それらは全て櫻花の想像でしかない。真実を知るには、この依頼を受けるしかないだろう。
しかし、そう簡単にこんな大役を引き受けても良いものなのだろうか。
今度は別の感情が湧いてきた。櫻花にとって岡崎の彼女の座というのは、そう易々と手に入るような代物ではなかった。これまでただ見ているだけで満足だっ
た彼女が、そこに座りたいと望むようになって半年以上が経過した。その間、己を高めるために仕事に精を出してはいたものの、具体的な行動に出ることは出来
なかった。まだその資格などないと思っていたからだ。
元々自己評価の低い櫻花が、ここで尻込みするのは仕方のないことだろう。それでも、もしここで自分が断ったらこの話は一体どうなってしまうのか、別の誰
かに頼むのか、そも別の誰かとは簑田京子ではないのか。そういったことを考えると、偽装彼女の座ではあるものの他人に譲りたくはないという思いが大きく
なってくる。
「無理にとは言わん。変なこと言って悪かった」
櫻花が黙り込んだのを拒否と捉えたのか、岡崎が謝罪する。言った本人もこんな頼みを聞いてくれるとは思っていなかったのだろう。
「じゃあそれ、早めに終わらせてくれ」
そう言って踵を返す岡崎の、上着の右の袖口をきゅっと掴んだ櫻花は、咄嗟に行動に出てしまった自分の手に驚きすぐに言葉が浮かんでこないため俯いてし
まった。
「篠塚?」
櫻花の行動の意図が読めず、今度は岡崎が黙り込む。何と声を掛けてよいか判らないようだった。
「課長、あの、私なんかでいいんですか?」
このまま黙って袖を掴んでいるだけではいけない。櫻花がそう決意して告げた言葉の意味を理解するのに、岡崎はたっぷり五秒は費やした。
「……引き受けてくれるのか?」
「ええと、はい、私なんかで良ければ」
櫻花は耳まで赤くなっているのを自覚した。こんなことでも岡崎に近づけるのは嬉しいし、プライベートに関わることができるのはこれが最初で最後かもしれ
ない。それならいっそ、立派に偽彼女を演じきってやろうという意気込みも湧いてくる。とはいえ、今は事の重大さよりも恥ずかしさが先に立つ。櫻花が赤面す
るのも無理からぬことだろう。
袖を掴んだまま顔を上げられない櫻花の頭の上から、極めて冷静な声が降ってくる。
「よし、決まりだ。ではまず報酬の話をしようか」
そう言った岡崎の顔には、まるで能面のような硬い表情が貼り付いていた。それを見た櫻花は悟る。ああ、これはビジネスなのだ、と。その証拠にお礼の言葉
もなく報酬の話に入ったではないか、と。
ほんの僅かでも某かの気持ちを期待した自分が馬鹿だったのだ。
名残惜しくはあるが、恐らく“これ”も快く思われてはいないだろう。櫻花はずっと握っていた岡崎の右手の袖からそっと自身の左手を引き剥がす。心にチク
リとした痛みが走るが、あえてそれには気付かないフリをする。
一方、すっかりビジネスモードに入っているように見える岡崎は、今回の件の報酬について話を始めた。
「何か欲しい物があるなら買ってやるし、して欲しいことがあるなら叶えてやる」
安月給だからあんまり高い物は困るが、と付け加える顔は真剣そのものだ。
それを受けて、櫻花も真剣に考える。これまで独りであれやこれやと妄想を繰り広げていた時には、あんなにもして欲しいこと、二人でやりたいと思ったこと
があったのに、いざそれが実現するとなると何ひとつ浮かんでこない。
想い出というのはいつか色あせていくものだ。そもそも偽彼女になることが最大の想い出なのだから、ここはひとつ形で残るモノを貰うべきではないのか。
そう考えた時、ピコン、とある一つのモノが櫻花の脳裏に浮かんできた。手頃な値段のものもあり、かつ、貰えば一生心に残るであろう代物。これ以上ない名
案に櫻花の瞳が輝いた。
ただ、これを欲しいと言うと重く取られてしまうのではないかとか、意味深長すぎて断られるのではないかとかいう気持ちになり、なかなか口に出すことがで
きない。
岡崎に「遠慮しなくていいぞ」と促されてようやく、おずおずと口を開いた。
「あの……もしご迷惑でなければ……指輪、が欲しいです……」
「わかった」
なんということはない、といった風に頷かれると、櫻花も拍子抜けしてしまう。岡崎にとって女性に指輪を贈るということは大したことではないのか、そもそ
もこんなことを頼む時点でその程度は想定内なのか、櫻花には判らない。早く仕事を終わらせるよう改めて言い残して自席へ戻る後ろ姿には、何の感情も浮かん
でないように見える。
時間が経ち、すっかり乾いてしまった可哀想な苺ショートケーキの残りを急いで腹に収め、仕事の残りを仕上げに入る。
いつの間にかフロアに残っているのは櫻花と岡崎の二人だけとなっていた。キーボードを叩く音がやけに大きく聞こえ、それが余計に櫻花の緊張感を高めてい
る。自分がこれを終わらせないと、責任者である岡崎もいつまで経っても帰れないのだ。
ケーキの差し入れを貰うまではあと十五分もすれば終わると踏んでいた作業だったが、余りに衝撃的な出来事があったせいか予定の倍ほども時間がかかってし
まった。集中しようとすればするほど、妄想が邪魔をするのだ。
データを保存し、二部ほどプリントアウトをしてから、パソコンの電源を落とす。一部を鴻野のデスクに置き、一部は自分のデスクに仕舞っておく。時刻は二
十一時を回っていた。
「では課長、お先に失礼します」
上司に挨拶をして帰る、といういつもと同じ行動なのに、なぜか妙にこそばゆい。岡崎にそれを悟られないよう急いでドアに手を掛けると、後ろから名前を呼
ぶ声が聞こえる。
「篠塚!」
「はい、なんでしょう?」
内心どぎまぎしながら、櫻花はすまし顔を作って振り向いた。
「仕事内容については、後日詳細を説明する。よろしく頼む」
「はい。ではお疲れ様です」
ぺこりと頭を下げ、今度こそ本当にフロアを出ていく。この時間に会社に残っている人はほとんどおらず、薄暗いエレベーターホールは不気味さを漂わせてい
る。だが今の櫻花にそんなものを感じる余裕などなかった。残業の終了間際に起きた出来事をひとつひとつ思い返しては赤面し、期待と不安で胸がいっぱいにな
る。わー、と大声を上げて走り出したくなるのを我慢するだけで精一杯だったのだ。
会社を出てから駅までの間、夜道を歩きながらニヤニヤしたり落ち込んだりと百面相を繰り広げながら、少しずつ心の平穏を取り戻していった。街灯は明る
く、こんな時間まで働いている人も多いようで人通りも少なくない中のこと、不審者と思われないよう意識を向ければ自然と落ち着いてくるというもの。
駅に着いてからは、なるべく他のことを考えるようにして頬が緩むのを堪え、無心になって家路を急ぐ。そのお陰か、自宅に到着する頃には高揚感は消えてな
くなり、物事を冷静に考えられるようになっていた。
胸がつかえてあまり喉を通らない夕飯もそこそこに風呂に入り、ごちゃごちゃした感情を全て洗い流したところで今日の出来事を改めて振り返る。
急な仕事を頼まれ残業をしていたら、岡崎にコンビニケーキの差し入れを貰った。それだけでも嬉しいことだったのに、あろうことか一日だけ彼女のフリをし
て欲しいと頼まれた。しかもお礼は物でもして欲しいことでも、何でもいいという。
洗い髪に椿オイルを塗り込めながら、櫻花は思う。これはあまりに自分に都合が良すぎるのではないか、と。千載一遇のチャンスとばかりにこの話に乗ったの
はいいが、実は大きな落とし穴が用意してあるのではないのか。前にしかないチャンスの神様の髪の毛を掴んだつもりでいるが、実はそれはカツラだったという
可能性もあるのではないか。
それでも、この役目を他人に譲るのは嫌だったし、一度引き受けたのだからそれを全うしたいとも思う。
髪の手入れをしているこの時が、櫻花にとって一番のリラックスタイムである。そんな時間にあれこれと思い悩むのは精神衛生上よくないと、今度は良いこと
だけを考えることにした。
つい勢いで指輪が欲しいと言ってしまったが、一体どんな物をくれるのだろうか。数千円でも見栄えの良いデザインリングは山のようにあるが、自分に似合う
物を選んでくれるのだろうか。それとも彼の趣味を全面に押し出した物をくれるのだろうか。そもそも、何を思って買ってくれるのだろうか。これを機に少しは
異性として気に掛けてくれるだろうか。
今時、高校生でももっと進んでいるというのに、いい歳をしてまるで中学生のようだという自覚はあるものの、これまでこういった経験がないから心の持ちよ
うが判らないのだ。頬が熱いのも、ドライヤーの熱風のせいだけではないだろう。
「おはようございます、課長」
「ああ、おはよう、篠塚。毎朝悪いな」
昨夜は悶々としてあまり眠れなかった櫻花に対し、岡崎は普段と変わらないように見えた。大人だなあ、と思う反面、何とも思われていない証拠のようで、そ
の余裕ある態度が憎たらしい。
「そうだ。昨夜の話なんだが」
「はい」
朝のこの時間、これまで話しかけられたことなどなかったのだが、他人がいる時には話しにくい内容だからか、珍しく声を掛けられた。
「お前、指輪のサイズはいくつだ?」
「7号です」
「そうか。明後日の夜打ち合わせをするから、そのつもりでいるように」
「……はい」
櫻花は一瞬身を固くしたが、岡崎にとってこれはあくまでビジネスだ。こちらが意識をしていると知られるわけにはいかない。表面上はさらりと受け流してい
るが、連日爆弾を投下されて櫻花の心の中は爆風が吹き荒れている。
誰かとこの苦しい胸の内を分かち合いたいが、唯一頼れる友人には今心配をかける訳にはいかない。結局は全て櫻花が独りで背負わなければいけないことなの
だ。だったら最初から自分で何とか耐えるほかない。
岡崎から指定された二日後の夜までの間、櫻花の眉間に寄った皺がより深くなったのは言うまでもなかった。