聖誕祭│03

 株式会社フォーワーズの営業部企画課において、クリスマスイブというのはある女性社員の不機嫌が最高潮に達する日、というのが共通認識となってい た。ところが今年、それに異変が起こった。その女性社員の機嫌が例年ほど悪くないのである。
 とはいえ、相変わらずクリスマスは嫌いなようで、それに関する質問をすれば不機嫌そうに答えを寄越すので、マイナスの感情を露わにしない、という大人の 技術を身につけたわけではなさそうだった。
 その女性社員は元々喜怒哀楽を表に出さない方だったため、例えそれが不機嫌でも感情豊かになるのは良いことだ、と思われていたのだが、それが鳴りを潜め たことで却って周囲の心配を集めていた。
 その女性社員こと篠塚櫻花は、二日前の朝、正確には三日前の夜からこちら、心ここに在らずといった状態に陥っていた。その原因はもちろん、窓際の席に 座って仕事をしている男だ。
 櫻花にとってあまりに衝撃的な出来事だったため、嫌だと思っていることにまでエネルギーを向けられていない、という状況だった。それが果たして今夜解消 されるのか、それは櫻花にも判っていない。話の内容次第ではこの状態が続くことも考えられる――その可能性は高いだろう――が、その時はその時だと、半ば 開き直りの境地に達しつつある。
 そして夕刻。定時の鐘が鳴ると同時に潮が引くように人がいなくなり、企画課には岡崎と櫻花の二人だけがとり残されていた。
「篠塚、仕事はもう終わったか?」
「はい」
 二人は連れ立ってオフィスを後にした。向かうのは、徒歩十五分ほどの所にある鄙びた洋食店だった。その店はビジネス街と繁華街の境目にあり、余り人目に つかない店構えをしているため、いつ行っても客の入りが芳しくない。だが味は抜群で、岡崎のような常連達に支えられている、いわるゆ隠れ家のような店だっ た。
 最後の一卓に滑り込んだ二人は、ほっと一息吐いてメニューをめくる。それぞれ飲み物と食べ物を注文すると、途端に手持ちぶさたになってしまう。
「普段は客なんていやしないんだがな」
「そうなんですか?」
「クリスマスだけはご覧の通りだ。と言っても、常連が一堂に会しているだけ、という感じだが」
「課長も常連さんなんですか?」
「まあな」
「そんな所に連れてきていただいて良かったんでしょうか……」
「気にするな。ただし、他の連中には内緒にしろよ」
「解りました」
 またひとつ共有する小さな秘密が増えた、と喜んでいた櫻花だったが、よくよく考えてみるとこれからする話の内容ほど大きな秘密はない。たかだか行きつけ の店を教えてもらったぐらいで喜んでいる場合ではなかった。
 とんでもないことに気付いた櫻花が口を閉ざし、二人の間に沈黙が流れる。どちらも会話を切り出せないでいるうちに飲み物が運ばれてきて、その場の空気が 少し変わった。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
 岡崎は赤のグラスワインを、櫻花はオレンジジュースを注文しており、グラスを掲げて乾杯する。大事な話を聞くのに酒を飲むわけにはいかないと思った櫻花 は、ワインを呷るように飲む岡崎を見て「酔った勢いでないと出来ないような話なのか」と不安を募らせる。
 そんな中、岡崎はもう一口ワインを飲むと、静かに切り出した。
「例の仕事の話をすると言っておいたな」
「はい」
「もしどうしても嫌だと思うなら、きっぱり断ってくれてもいい。だがその場合にも、報酬はきちんと受け取ってくれ。迷惑料だ」
「大丈夫です、断りません」
「だといいんだがな。……一日だけ彼女のフリをして欲しいと言ったな」
「はい、そう伺っています」
「彼女として、うちの親に会って欲しいんだ」
 その言葉に、櫻花が目を瞠る。相槌も打てず、言葉も出てこない様子だ。何度目かの沈黙が流れ、居たたまれなくなったのか岡崎が再びぐいとワインを呷る。
 櫻花が躊躇いがちに口を開こうとした時、タイミングが良いのか悪いのか、料理が運ばれてきた。途端にテーブルはいい匂いに包まれる。それに刺激されたの か、櫻花のお腹がぐう、と鳴った。
「あっ……!」
 再び空気が変わる。顔を真っ赤にして恥ずかしがる櫻花に、岡崎は笑いを堪えながら言った。
「まあ、とりあえず食え。ここのビーフシチューは絶品だぞ」
「はい。本当に、お恥ずかしい限りです……」
 ビーフシチューを一掬い口に入れた瞬間、櫻花の顔が今度はぱぁっと明るくなる。その花が咲いたような笑顔を見ながら、岡崎は自嘲気味に呟いた。
「本当に恥ずかしいのは俺の方だよ」
 岡崎は残ったワインを飲み干すと、もう一杯注文する。
 その言葉の裏にどれだけの意味が込められているのか、櫻花にはとうてい解るはずもなかった。だが、恥ずかしいなどと自分を卑下して欲しくはなかった。
 これに乗じて何か進展があれば、などと考えている自分の方がよほど恥ずかしい人間だ――。
 だから嬉しい気持ちを必死にこらえ、ビジネスに徹しているよう装うことにした。
「課長」
「なんだ」
「それで私は、いつ課長のご実家にお伺いすればよいのでしょうか」
 櫻花はパンをちぎりながら何気ない口調で、それでいて真剣な眼差しで問う。今度は岡崎が絶句する番だった。
「私にも色々と準備がありますし、出来れば早めに日程を教えていただけると有り難いんですが」
 たたみかけられた岡崎は、まだ事態を飲み込めていなかった。櫻花の言葉の意味を理解するのにたっぷり六十秒かけ、ようやく言葉を紡ぎ出す。
「本当にいいのか?」
 それを聞いた櫻花は、自分から頼んでおいてなんという言い草だろうと可笑しくなる。だが、いくら可笑しかろうと欠片も笑みを浮かべるわけにはいかない。
「はい。構いません」
 岡崎はあくまでビジネスとして依頼してきているのだからこちらもその態度を崩せない、とばかりに櫻花はきっぱりと言い切った。そうでもしないと勘違いし そうで怖い、というのが本音ではあったのだが。
「課長には課長のお考えがあって私に頼まれたことだと思いますので、理由はお聞きしません。でも、ご両親にお会いした後はどうするんですか?」
 本当は理由を知りたい。どうして自分に頼んだのかを何度も考えたが答えは出ず、この話を持ちかけられて以来毎日モヤモヤとしている。だが、それを訊いて しまうと今のこの関係が崩れてしまうような気がして、その気持ちには蓋をすることにしたのだ。
「大丈夫だ。無理矢理家に連れて行ったのが原因で振られた、とでも言っておく」
 そっか、自分が振ったことにするのか。
 櫻花は少し落ち込んだ。せっかく両親に紹介してもらえるというのに、二つも嘘を重ねることになるということに、少なからぬ罪悪感が疼いて仕方がない。
「本当にそんな言い訳をなさるんですか?」
「あの親を見たらそんなこと言ってられなくなる。それに……」
「それに?」
「俺も猫を被っているのがバレるからな。幻滅された、と言えば丸く収まる」
 櫻花は目を丸くした。猫を被っているとは一体どういうことだろうか。普段見ている姿は作られたものだということなのだろうか。
「まあ楽しみにしておくことだ。俺がどれほど豹変するか」
 社会人なのだから、家と会社では見せる顔が違うというのはよくある話だ。だが本人がここまで言うとなると、話は別だ。
 長い間遠くから見ていた人の姿が、実は作り上げられた物だったとは。決して見た目だけではなく、仕事をする姿や心根の優しさに惹かれたつもりでいたが、 もしかしたらそれすら虚像だったというのか。
 しかし、考え方を変えてみれば、普段会社ではひた隠しにしている素顔を見せてくれるということで、家族や親しい友人以外はそれこそ“彼女”という特別な 存在でなければ見ることが出来ないものなのではないだろうか。
 櫻花は心の中で大声を上げていた。なんという僥倖か。その経験だけでこの先何年も楽しく生きていけそうな気すらしていた。
 嬉しさを隠そうと、ビーフシチューに入っているブロッコリーを真顔でもしゃもしゃと食べている所へ、岡崎が鞄から何やら取り出してテーブルに置いた。
「報酬を渡すのを忘れていたな」
 あまりに軽い調子で言われたため、櫻花もそう構えずに報酬を頂くことにした。クリスマス仕様のラッピングに少々頬が引きつったものの、今の時期ではそれ も致し方ないことと思い直す。
 リボンを外し、包装紙を綺麗に剥がすと、出てきたのはフランスの有名ブランドの名前が入った箱だった。貴金属類やブランド物に疎い櫻花ですらその名前を 知っているということは、値段もそれ相応するということだ。
「課長、こん高価な物は頂けません!」
 中身も見ずに突き返す。こんな高い物が欲しくて指輪をくれと言ったわけではないからだ。ショッピングモールに入っているような店で手に入るような、若者 向けの安いファッションリングで良かったのだ。それを、どう考えても数万円はするような高級ブランド品を用意するなど、自分はどんなごうつくばりだと思わ れているのだろう。
 櫻花は嬉しいを通り越して複雑な心境に陥っているが、岡崎とてこれを受け取ってもらわねば困るのだ。労働には対価を支払わなければならないと思っている し、これが手元にあっても持て余すだけなのだから。
「いいから取っておけ。それと……」
 岡崎は綺麗に折りたたんで鞄に仕舞っておいたショッパーも取り出した。
「紙袋も必要だろう?」
 その言葉に櫻花が思わず吹き出した。
「課長、紙袋じゃなくてショッパーって言うんですよ」
「判ってはいるんだが、その呼び方はどうも気持ち悪くてな」
 岡崎は照れ隠しにポリポリと頬を掻く。岡崎とて企画課員のはしくれ、というか責任者だ。流行に敏感でないと仕事は勤まらないから、世間ではショップの紙 袋をそう呼ぶことは知っている。だが実際その言葉を使うというのには抵抗があるらしかった。
 だがおかげで場が和み、岡崎は小さな箱と紙袋を櫻花に押しつけることに成功した。
「気に入らなければ捨ててもいい。ただ、決行当日はそれを着けてきてくれると有り難い」
 言われてみればその通りで、親に彼女を紹介するのだから、指輪の一つや二つは贈っている仲になっていてもおかしくはないのだ。
 だから櫻花はそれを素直に受け取ることにした。そしてそれを着けて行こうと決めた。例えそれがかりそめの仲であったとしても――。