聖誕祭│04


 クリスマスイブに想いを寄せる人と二人、素敵なレストランで食事をする。
 それは、少し前までの櫻花には考えもつかないことだった。その相手が丸四年片想いをしている会社の上司だから、というのが理由のひとつだが、元々彼女が クリスマス嫌いというのも大きく影響しているだろう。
 そんな櫻花が今、その彼行きつけの隠れ家的洋食店で夕食を共にしている。テーブルの上には、小さな箱。それはクリスマスプレゼントという訳ではないが、 シチュエーションがそう錯覚させる部分もあるせいか、外箱から赤いケースを取り出す櫻花の指は心なしか震えているように見える。
 恐る恐る赤いケースを開くと、イエローゴールド、ホワイトゴールド、ピンクゴールドの三色の指輪が互いに絡み合っているという、いわゆるトリニティリン グが現れた。
「素敵……」
 櫻花は呟くと、黒い布張りの上に鎮座している指輪を取り出した。
「着けてみてもいいですか?」
「ああ」
 ぎこちない手つきで右手の薬指に填めると、角度を変えては眺めてみる。場所によって細い三本のリングが別の模様を描き出し、いつまでも飽きずに見つめて いられる。
 これが報酬とは、この取引はどう考えても岡崎が損をしているような気がするが、そうならないよう頑張って彼女を演じきるまでだ。
 櫻花は改めて心にそう誓うと、居住まいを正して礼を言う。
「課長、ありがとうございます。大事にします」
「ああ」
「それから、当日はちゃんと着けて伺いますので」
「ああ」
「今日はこのまま着けていてもいいですか?」
「ああ」
 先ほどから岡崎が生返事しか返していないが、浮かれ気分の方が上回っている櫻花にとってはほんの些細なことでしかなかった。
 ケースを箱に仕舞い、その箱をショッパーに仕舞って大事そうに膝に置く。そのままでは食事をしづらい為、しばし考えた後、ショッパーから箱を取り出して 鞄に仕舞い、残された紙袋は綺麗に折りたたんでそちらも鞄に入れる。こうしてみればなるほど、岡崎が箱と袋を別にしていたの理由がよく解る。
 少し違和感のある右手を気にしながら、楽しい夕食の時間は続く。クリスマスディナーと銘打った物は何もないが、シーザーサラダも、野菜のテリーヌも、 ビーフシチューも、白身魚の香草焼きも、出てくる料理全てが美味しく、バゲットを何度もおかわりをしてすっかりお腹はパンパンになっていた。
 ただ、デザートは別腹とばかりにティラミスを注文し、それを幸せな表情で頂いている時、岡崎が訊いた。
「こういうクリスマスなら悪くない、とは想わないか?」
 その言葉に、デザートを食べていた櫻花の手が止まる。しばし考えを巡らせた後、答えた。
「そうですね。生まれて初めて、クリスマスも悪くないかもしれないと思ました」
「どうしてそこまでクリスマスを嫌うんだ?」
「それは……」
 企画課内の人間は誰もが不思議に思っていることだったが、櫻花はクリスマスを嫌いな理由を誰にも話そうとはしなかったのだ。あれだけ演説をぶち上げてお いて、その理由が判らないから、陰であれこれと邪推をする者もいた。岡崎はその中に加わりはしなかったが、常よりその理由を知りたいとは思っていたのだろ う。
 櫻花は一瞬瞳を揺らし、覚悟を決めたように岡崎に向き直った。
「課長、誰にも言わないと約束して下さいますか?」
「お前が知られたくないのなら、誰にも言わない」
「実は、私の実家、神社なんです」
 櫻花がぽつりぽつりと語った内容は、だいたい岡崎の予想通りのものだった。篠塚家でも当たり前のように世間同様クリスマスを祝っていたが、小学生の頃に それを酷くからかわれたこと。その時は悔しくて悲しくてたまらなかったが、中学生ぐらいになると確かにおかしく感じたこと。そしてクリスマスを祝っていた 連中が、年明けには当たり前の顔をして初詣に来るのがおかしいと思い始めたこと。普段参拝などしないくせに、受験前になって神頼みをするような人間が多い こと。しかもそれらは、小学生の時にからかってきた人物達だということ。
 時折言葉を選びながら、高校に入る頃にはすっかりクリスマス嫌いになっていたことまで語り終えると、櫻花は思い出したように再びデザートに手をつけた。
 そんな状況に置かれたら、確かにクリスマスを嫌いになっても不思議はない。だがその犯人の男子生徒――で間違いないと岡崎は踏んでいる――は、きっと櫻 花のことを好きだったんだろうな、と思い苦笑する。気を引こうと放った言葉が櫻花を深く傷つけ、恐らくその後は徹底的に避けられたに違いない。同情する気 はないが哀れみは感じるな、などと暢気に考えていたが、ひとつ重要なことに気がついた。
 櫻花はどうしてその連中が初詣に来たのを知っているのか。からかいを受けた過去があるのに、わざわざ部屋からのぞき見をするようなことはすまい。と、い うことは。
「篠塚、ひとつ聞いていいか」
「なんでしょう」
「お前、正月はいつも実家で手伝いをしてるのか?」
「はい。年末年始は休む暇もありません。だから毎年、休み前より疲れてこちらに戻って来る始末で……」
 答えながら、櫻花はもうひとつクリスマスが嫌いな理由を思い出して深い溜息を吐く。
 そうなのだ。クリスマスということは、年末に帰省して実家の手伝いをする日のカウントダウンが始まるということなのだ。
 家の仕事を手伝うのが嫌だというわけではない。それならば大学で神職に就くための勉強などしていないし、資格を取ることもなかった。ただ、大晦日から三 が日までの四日間、二十四時間体制で参拝客に対応しなければならないため、とにかく大変なのだ。
 そんな怒濤の日々が刻一刻と迫る中、世間が浮かれているのが腹立たしくて仕方ない、というのが今の櫻花のクリスマス嫌いの理由の半分を占めている。
 忘れたかった現実を思い出してげんなりしている櫻花に、岡崎は悪いことを訊いてしまったと掛ける言葉が見つからない。
「大変だな。実家はどの辺なんだ?」
「電車で二時間ほどの所です。無理をすれば通えるんですが、やっぱり大変ですし。それに兄夫婦の邪魔をしたくないので……」
 そこからは秘密を打ち明けてしまった開放感からか、櫻花はなぜか勝手に回る口を止めることが出来ず、岡崎に訊かれるままに答えていった。
 どんな格好で、どんな仕事を、どれぐらいの時間などなど、ついうっかり神社の所在地までもペラペラと喋ってしまっていた。
「ではその甘酒は篠塚の手作りというわけか」
「いえ、氏子に造り酒屋さんがいらっしゃるので、毎年お願いして作っていただくんです」
「それは飲んでみたいな」
「少し分けてもらいましょうか?」
「いや、そこまでして貰うのも悪い」
 櫻花が珍しく饒舌になっている間にも、すっかりデザートは食べ終わり、何杯かおかわりをした食後のコーヒーも飲み干してしまっていた。
 時計に目をやれば、入店してから二時間も経過していた。その時の流れの速さに驚き、これ以上の長居は店にも他の客にも迷惑だと、そろそろ店を出るべきで はないかと思い始めた時、岡崎も同じことを思っていたのだろう。
「今日はこの辺でお開きにするか。日程については篠塚の都合もあるだろうから、また年明けにでも相談しよう」
「はい」
「化粧直しとかしなくて大丈夫か?」
「あっ、では失礼して少し席を外します」
「急がなくていいからな」
「はい」
 櫻花はバッグから化粧ポーチを取り出して化粧室へ向かう。こんな細かい所にまで気を回せるだなんて、やはり将来が約束された有望株は視野が広い、とか、 それとも女性慣れしててこういうシチュエーションを嫌というほど経験しているんだ、とか、色々考えてしまい複雑な心境になってしまう。
 鏡に映る上気した自分の顔を見て我に返った櫻花は、気持ちを落ち着けながら軽く化粧を直す。右手の薬指には貰ったばかりのトリニティリングがその存在を 主張していて、それを見つめていると再び頬が熱くなってくるのを自覚する。
 いけない、いけない。こうやって馬鹿みたいにテンション上がって、いらないことまで喋ったのを忘れたの?
 鏡の中の自分に言い聞かせ、再び気持ちを落ち着かせると、早々に化粧室を後にした。そんなに長い時間待たせた訳ではないと思うが、なにぶん相手は上司で ある。一分一秒でも早く戻るべきであろう。
 櫻花が席に戻ると、急かされるように店を出た。支払いが済んでいることに気付き、何度かそれを口にしようとするものの、巧妙に話題を逸らされてしまい、 結局何も言えないまま駅に到着してしまった。
「今日は楽しかった。とんでもない仕事を頼んで申し訳ないが、嫌になったらいつでも言ってくれ」
「私の方こそ、こんな高価なものを頂いてしまって……それにお食事代だって」
「気にするな。これも労働の対価だと思ってくれればいい」
「……はい」
「じゃあ、また明日」
「はい。課長、今日は本当にごちそうさまでした。おやすみなさい」
「ああ」
 岡崎と別れ、独り電車で帰宅の途についた。車内のあちらこちらにほわわわんと浮かれている人達がいて、そのことに関しては相変わらず苦々しく思う。この 人達はあと十日もすれば何食わぬ顔をして神社に初詣するのだから、本当に嫌になる。それがただの八つ当たりだというのも承知してはいるが、子供の頃に心に 刻まれた思いというのはそう簡単には変えられるものではない。
 それでも今夜、初めて世間並みに近いクリスマスイブの夜を過ごし、ほんの少しではあるがその態度が軟化していた。二人で過ごしたディナーの時間は本当に 楽しいものだったし、あれに雰囲気がプラスされたらそれはそれは素敵なことだろう、と思う程度には。
 浮かれていた気分も徐々に落ち着きを取り戻し、これから先のことを考えてみる。
 年末年始は実家に帰って家の手伝いをすることは伝えてある。となれば、やはり日程は年が明けてからの土日で、ということになるだろう。それまでに心の準 備が出来るだろうか。言うなれば課長のご両親を騙すということで、その罪の意識に苛まれたりはしないだろうか。
 あれこれ不安は多いが、事態はもう動き出している。もうなるようになれ、と開き直るしかないだろう。
 大それたことをしている証拠を右手に感じながら、櫻花は車窓に流れる夜景を見つめていた。