〜銀色の翼〜
年明け、櫻花は例年通りフラフラになりながら出勤した。年々その疲労度が増している気がするが、自分に都合の悪いことにはあまり目を向けたくない
ものである。
仕事始めの日というのは業務などないに等しい。社内放送で社長からの訓示がある所などがいかにも年始という感じがするし、社員は皆正月のぼんやりとした
雰囲気を引きずっている。
昼で業務が終わると、そのまま帰る者もいれば、翌日以降の業務の準備をする者もいて、フロア内の空気は徐々に正月気分から日常へと移行しつつあった。
櫻花は毎年、正月疲れもあるため早々に帰宅をすることにしていた。荷物をまとめようとしていたその時、スマホがぶるりと震えメールが着信したことを教え
る。
何気なくメールを開いて見ると、そこにはこれまでメールを受け取ったことのない人物の名前が記されていた。
慌ててバッグをひっ掴んでフロアを出ると、トイレの個室に籠もり恐る恐るメールを開封する。
『新年おめでとう。今年もよろしく。例の件、日程が決まったので詳細の打ち合わせをしたい。都合のよい日を連絡請う』
ずいぶんと硬い文章だが、らしいといえばらしい。だがこれも偽りの姿なのだろう。
櫻花は『いつでも大丈夫です』と返信してから、じわじわと喜びが湧いてくるのを抑えられなかった。内容も文面も色気など皆無だが、想いを寄せている人と
メールのやり取りをするのはこんなにも心躍るものなのかと、今の今まで知りもしなかった。
ドキドキが収まるまで待ってから帰ろうと思っていたが、岡崎からの返信が早く、またしても頬を染めることになる。
そうして何度かメールのやり取りをし、作戦会議の日程を決めると、今度こそようやく帰宅することができた。
作戦会議当日、退社後に櫻花が連れてこられたのは全国にチェーン展開している、ごく普通の居酒屋だった。店内は酔っ払い達の話し声や笑い声でざわざわと
ざわめき、小声で会話するには適さないと思ったのが顔に出ていたのだろう。岡崎が「こういう所の方が内緒話には向いているんだ。皆自分達の話に夢中だか
ら」とこの店を選んだ理由を教えてくれ、それを聞いた櫻花は、そこまで配慮してくれているのかと感動しきりだった。
席に案内されると早速いくつかの料理と飲み物を注文し、乾杯もそこそこに話し合いが始まった。
「早速だが、決行の日が来週の土曜日に決まった。都合は大丈夫か?」
「はい、特に問題ありません」
「そうか。それで、だ」
「はい」
「あー、ええと、なんだ」
「はい」
嫌に歯切れの悪い岡崎の態度に内心不安を抱えながら、櫻花は次の言葉を待っていた。ところが一向に話をしてくれようとしないため、一体どんな無理難題を
言われるのかと身構えた。
「えー、まず細かい設定を考えないといけないと思うんだが」
「設定?」
「指輪を贈るような仲、ということはそれなりに長い付き合いをしているということになる、といった設定だ」
「ああ、それは確かにそうですね」
作戦会議とはそういうことだったのかと、ここにきてようやく今日の会合の意味を理解した櫻花は、自分なりに意見を出してみようと頭をひねった。ところ
が、恋愛経験のほとんどない櫻花にとってはなかなかにハードルが高く、何と答えてよいやら判らなかった。
「えっと、課長は以前お付き合いされた方にはどれぐらいで指輪をプレゼントされたんですか?」
判らなければ訊いてしまえばよい、と思ってついうっかり言葉にしたものの、自分の質問に心をえぐられる。本当はそんなこと知りたくもないが、様々な設定
を考えるには避けては通れない話題でもある。
課長の頼みなら、と軽い気持ちで引き受けた櫻花は、今回の件に関してどこか夢の世界の話といった感覚があった。ところがこうして具体的な話をすることに
より、段々と現実味を帯びてきて、胃の辺りが重くなっていくのを感じていた。
櫻花が今更の緊張に苛まれていようと、話はどんどん進んでいく。大きな流れに身を任せてしまった以上、この荒波を乗り越えて無事目的地にたどり着く他な
い。
「非常に言いにくいんだが」
ぼんやりしていた櫻花が、その言葉ではっと我に返った。三十半ばでここまでの色気を放つ人物が、若い頃からモテないはずがない。一体どんな女性遍歴を聞
かされるのか、暑くもないのに冷や汗を流しながら耳を傾けた。
「実は、指輪を贈るような関係になったことがある女性がいなくてだな……」
「まさか」
櫻花は耳を疑った。このモテ男の代表のような岡崎が、これまで女性に指輪を贈ったことがないなんて、にわかには信じられるものではなかった。
「本当だ」
「嘘ですよね?」
「嘘じゃない」
「でもこれまで恋人がいなかったなんてことはないですよね?」
「それはまあ、そうなんだが……」
恋人はいたが指輪は贈ったことがない、というのはどういうことだろうか。都合の良い方に考えると、そこまで本気になれる相手ではなかったということだ
が、本当にそんなことがあるのだろうか。悪い方に考えると、短期間で恋人をとっかえひっかえしていたということだが、そんなに不誠実な人には思えない。
勝手に想像していた岡崎像が音を立てて崩れていき、櫻花の頭の中はぐちゃぐちゃだった。恋愛偏差値の低い自分が、この人を相手にするのは無理難題だった
のではないか、とすら思い始めていた。
「あまりこういうことは言いたくないんだが、黙っているのも心苦しいというか、こんなセクハラ・パワハラ案件にひっかかることに協力してくれる篠塚に対し
て、これを言わないままでいるのは卑怯な気がして……」
一体どんな重い話をしようというのか。櫻花はごくりと喉を鳴らし、言葉の続きを待った。
「俺の話を聞いて、嫌だと思ったらはっきり断ってくれていいし、軽蔑されても文句はない。ただ、会社での仕事だけはスムーズに進めていってほしい。勝手な
ことを言っているが、よろしく頼む」
「わかりました」
「実は、だな」
ボソリボソリと、いつもの張りのある声は何処に行ったのかと思うぐらい小さな声で語り始めたのは、過去の悪行の数々だった。
といっても感じ方は人それぞれで、本人は悪行だと思っていても他人もそう思うとは限らない。果たして櫻花はどう受け止めるのか。
「大学生の頃付き合っていた彼女にこっぴどく振られてからというもの、女性とまともに付き合ったことがない。その時々によって割り切った関係の女性がいた
ことがあるだけで……」
割り切った関係というのがどういうものか、恋愛ごとに疎い櫻花でもなんとなくは理解できた。そういう人達は自分には一生縁が無いと思っていたのに、思わ
ぬ所に潜んでいたことに衝撃を受けたし、それに対して嫌悪感を抱いていない自分にも驚きを隠せない。
だからと言って何と言ったらよいか判らず、かと言って黙っているわけにもいかず、櫻花は頭に浮かんだ疑問をそのまま口にした。
「えっと、あの、どうしてそんな刹那的な関係を?課長ならいくらでもちゃんとした彼女候補が寄ってきそうなのに……」
その言い草に思わず苦笑いをするが、聞かれたことには答えないといけないと思った岡崎は、嘘偽りなくその理由を述べた。
「本気で好きになれる相手がいなかった、ということだ」
「では、その大学時代の彼女さんのことが今でも……」
「それはない。ただ、後にそいつが零していたらしいんだ。『自分のことを好きじゃない人とはこれ以上付き合えない』と……好きで付き合ってたつもりが本心
はそうじゃないってことを見透かされていたことや、それに俺自身が全く気付いていなかったことにショックを受けて、それ以来適当でも何でも“付き合う”と
か“恋人同士”とかいった関係性を持てなくなったんだ。だったらセフレはいいのか、と言われるだろうが、あれはあくまで性欲解消のためだけの仲だったから
な。誘っても断られたり、誘われても断ったりしてお互い対等だったから楽だったんだよ」
淡々と語られる岡崎の過去を聞いて、櫻花はなぜか涙がこみ上げてきた。一体どうしてそんな心寂しい半生を歩んできたのだろうか。何が原因かは知らない
が、そこには触れないでおくべきだろう。それにしても、あまりに寂しいではないか。
瞳が潤みそうになるのを堪えながら、岡崎のこれまでの殺伐とした恋愛遍歴を思い起こそうとして、違和感に気付いた。櫻花が知る限りでは、岡崎には浮いた
噂一つないのだ。
いつも違う女性を連れて歩いているだとか、どこぞの美人を捨てただとかはもちろん、社内に彼を狙う女性――その筆頭が簑田京子だ――は数知れずいるが、
彼女達に手を出したという話も聞いたことがなかった。
社内で問題を起こせば出世の道が閉ざされる、というごく当たり前の理由もあるだろうが、過去一人も“割り切った関係”の相手が社内にいなかったとは考え
にくい。ということは、一体どういうことだろうか。
「あの、課長、不躾なことを伺いますが、今はそういった方は……?」
「もうここ五年ほどそういう相手はいない」
「三十路を迎えて心境の変化があった、とか?」
「……そういうことにしておいてくれ」
五年前といえば櫻花が入社した年だが、その頃岡崎は主任に昇進して仕事が忙しくなってきた頃でもある。そのせいで他へ向けるエネルギーがなくなってし
まった、とも考えられるし、櫻花の指摘通り心境の変化があってそういうことをスッパリとやめた、とも考えられる。
どちらにせよ過去のことであって、今、目の前でしょげている人を責める気になどなれない。過去に囚われすぎるとろくなことはない、というのは櫻花が身を
もって経験していることであり、そこからの脱却を計っている最中でもあるため、この件について特に掘り下げようとも思わなかった。
しかしこれでようやく合点がいった。岡崎ほどの人物が、なぜ女性に指輪を贈る関係になったことがなかったか、ということだが、確かにこれではそういう経
験もなかったと思われる。
となると困るのが、今日の会合の議題になっている「どのくらいの仲なのか」ということだ。櫻花も岡崎もその点については未知の世界の話で、ああでもない
こうでもないと角突き合わせて考えてみても、正解など浮かぶはずもない。
こういう時に頼りになるのは友人だが、櫻花は今回の件をまだ尚美には話していない。言えば怒られるのは間違いないし、彼女はようやく私生活の問題が解決
したばかりなので、心を煩わせたくないというのもある。それに、この話は任務完遂まで誰にも話したくないとも思っていた。
しかし櫻花には尚美以外にこんな相談を持ちかけられる友人はおらず、岡崎のことを心寂しい半生だなどとは言っていられないことに気付いた。
「あの、課長、誰か課長のご友人にヒントを貰うことはできませんか?」
年齢的に考えても岡崎の友人ならば既婚者もいるだろう、と己の友人の少なさからは目を背けながらそう提案してみた。
「友人か……実はこの仕事を発案した奴が既婚者ではあるんだが」
まさかこの話は岡崎の友人が考え出したことだとは思ってもみなかったが、それならば相談を持ちかけても問題はないように思える。
櫻花は、なんとかその友人に聞き出してはもらえないかと頼み込み、連絡が取れないかもしれないぞ、と念押しをされた上で今、岡崎が電話を掛けるのを見
守っている。
「……徹か?俺だけど。今大丈夫なのか?」
連絡が取れないかもしれない、と言っていた岡崎の友人はどうやら電話に出られたようだ。
「ちょっと訊きたいことがあるんだけどさ。お前、夏紀に指輪プレゼントしたの、いつ頃?……違ぇーよ、そうじゃなくて……まあ、そうなんだけど……
はぁ!?お前が言い出したんだろ!?」
何やら揉めているらしい。
「いいから早く教えろよ!……いや、だから、来週末実家に帰ることになってよ……そうなんだけどなんかムカつくな、お前」
先程から聞いている櫻花は、岡崎の口調が普段とは大きく異なっていることに気付いた。相手が仲の良い友人だからか、それとも素の彼はこうなのか。そうい
えば以前、猫を被っていると言っていたのを思い出す。ではやはり、これが本来の姿なのかもしれない。
「……誰がお前なんかに会わせるかよ。っていうか、今お前日本にいねーだろ……えっ、マジで?いつから?……そんなチェックなんかしねえよ。じゃなくて、
早く吐かねえと夏紀に訊くぞ」
どうやら海外にいると思っていたようだ。なかなか答えてくれない友人に業を煮やしたのか、今度は脅しにかかっているらしい。
「……確かに……そうだな。徹、大事な時に悪かったな……それは何とも言えねえけど……解ってるって。じゃあまたな……お前も頑張れよ」
通話を終わらせた岡崎はふぅ、と大きく息を吐き、ジョッキに残っていたビールを一気に飲み干した。
「どうでした?」
「それがあまり参考にならなかった。あの夫婦は幼馴染同士で、結婚するまで二十年ぐらいかかってるからな」
「それは確かに……」
「だから、俺なりの考えでいいんじゃないか、と言われた」
「課長なりの?」
「ああ。あまり嘘を重ねても仕方ないし、辻褄合わせも大変だから……こういうのはどうだ?」
岡崎が考えたシナリオはこうだ。
展示会の準備を通して距離が近づいた二人は、本番終了後に付き合い出した。指輪は初めて二人で過ごすクリスマスのプレゼントで、特に深い意味はない。
「じゃあ、まだ浅い仲ということですか?」
「そうだな」
それならお互いぎこちなくてもおかしくないし、役職で呼んでも慣れていないという言い訳もできる。
目の前の問題が解決したため、当日の集合時間等を手早く決めると、二人はようやく安心して飲み食いに集中することが出来た。
といっても明日もまだ仕事があるため、早々に居酒屋を辞してそれぞれ帰宅したわけだが、その晩櫻花はなかなか寝付けなかった。具体的なことが決まってい
くにつれ、段々と緊張感が増してきたのだ。
ごろり、と何度も寝返りを打つ。
「なんとかなる……よね?」
呟いてもそれに答えてくれる者はおらず、それが余計に不安を煽る。櫻花が眠りに落ちるまではまだしばらく時間がかかりそうだった。