睦月│02


 空は青く晴れ渡り、冬特有の澄んだ空気がひやりと肌を刺す。
 清々しい天候とは対照的に、櫻花の心にはどんよりと重い雲がたれこめていた。
 今日はいよいよ決行当日、これから迎えに来る岡崎を自宅アパート前で待っているのだが、何度も姿見で確認した格好がどこかおかしいように感じて仕方がな かった。
 仕事用のスーツを着るというわけにもいかず、家にあるものをなんとか組み合わせてカジュアルすぎない感じにまとめてはみたのだが、ファッションセンスに 自信がないためどうにもその仕上がりに納得がいかない。
 こういう時に着物を着られればそれが一番楽なのに、と思ったが、さすがにそれはないなと却下して今の格好に落ち着いたのだ。
 なんとも落ち着かない気分で待っていると、目の前に一台の黒いスポーツカーが止まった。
「悪い、遅くなった」
 運転席から颯爽と降りてきた岡崎を見て、櫻花は息を呑んだ。ざっくりと大柄が編み込まれたセーターにジーンズ、スニーカーというごくラフな格好をしてい るのだが、初めて見る岡崎の私服姿はどこかのファッション雑誌から抜け出してきたモデルのように思えたのだ。
「どうぞ」
 と助手席のドアを開けてエスコートする動きはごく自然で、まるで自分がお姫様になったかのような錯覚に陥る。
 シートは櫻花が今まで見たことのない形をしていて、座るとぎゅっと包まれているような不思議な感じがした。
「座り心地が悪いかもしれんが、少し我慢してくれ」
「いえ、大丈夫です」
 シートベルトを締め、膝の上に置いた荷物を抱えると手を固く握りしめる。考えようによってはドライブデートとも言えるシチュエーションに気付き、今更な がらに緊張してきたのだ。
 車は滑るように走り出していて、櫻花は横目で岡崎が運転している姿を伺っていた。半年ほど前にカラオケで二人きりになった時よりも狭い空間で、あの時と は比べものにならないぐらい色々な距離が縮まっている状態で、ガチガチになるほど緊張しているのは確かだった。それでも、運転する姿を見たいという欲望は 抑えつけられなかったようだ。
 じっと前を見据える目、ハンドルを握る手、シフトチェンジをする時の手の動き、櫻花にとってはその全てがときめきという打撃を与えるもので、これから一 芝居打つということすら忘れて息も絶え絶えになっていた。
 最初こそ遠慮がちに伺う程度だったのだが、そのうち段々と物足りなくなってしまい、かなりしっかりと見つめてしまうことになっていた。
「篠塚、俺の顔に何かついてるのか?」
 この狭い空間の中で熱視線を送られれば、嫌でも気付くというもの。
「あー、髭のそり残しが気になるのか?」
 気をつけてはいるんだが、と左手で顎を一撫でしながら自己完結をしてくれたおかげで、櫻花が岡崎を見つめていた理由があやふやなものになったのだが、そ れは櫻花にとっては却って気まずいものであった。
 だからと言って正直に理由を話すのも憚られ、言葉を濁して誤魔化していると、岡崎が更に言いつのる。
「それともあれか、彼氏の運転と比べているとか」
「そんな人いませんし、いたら今ここにこうしていられません!」
「ははは、そうだな、悪かった」
 岡崎の無邪気な笑顔などついぞ見たことのなかった櫻花にとって、それはいとも簡単に心臓を撃ち抜いた。
 もちろん会社で笑わないわけではないし、四六時中難しい顔をしているというわけでもない。原と冗談を言い合っていたりしているのを何度も目撃してはいる が、ここまでガードが緩んだ笑顔は初めて見るものだった。
 狭い車内でのこと、バクバクとうるさい心臓の音が岡崎にも聞こえるのではないかと、ありもしない不安にかられる。なんとか落ち着こうと、目を瞑り深呼吸 をした。
 その沈黙の理由を怒りと捉えたのか、岡崎は先ほどまでの笑顔を消して謝罪の言葉を口にした。
「篠塚には本当に申し訳ないと思っている。今回の件もそうだし、さっきの発言も……会社では気をつけているんだが、どうもこう、なんていうか、お前が絡む とつい気が緩くなってセクハラとも取れる言動をだな……とにかく、申し訳ない」
 ばつが悪そうに眉をしかめる横顔を見て、せっかく落ち着いた櫻花の心臓はまたしても高鳴った。そして何か大事な言葉を聞いたような気がしたが、今はそれ どころではなく、この重苦しい空気を一掃しなければと、キョロキョロと車内を見回して話を変える糸口を見つけようとした。
 黒が基調のインテリアは、ステッチやシート中央など所々に赤の差し色が入っていて、シックなだけではない攻撃的な香りを漂わせていた。
 スポーツカーとは皆このような感じなのだろうか、ハンドルにもボタンがいくつもついていて、実家の軽自動車しか運転したことのない櫻花にとってはまさに 未知の世界の車だった。
「なんだ、こういう車は初めてか?」
「はい。これは外国の車ですか?」
「いや、日産だ」
「日産なら知ってます!うちの兄が昔マーチに乗ってました!」
 てっきり外車だと思っていた櫻花は、馴染みのある自動車メーカーの名前が出てきて驚いた。
「日産ってこんな車も作ってたんですね」
「はは、女の子なんてそんなもんだろうな」
 櫻花が感心していると、ようやく岡崎の顔に笑みが戻った。
「俺は車ぐらいしか趣味がないから、どうしても金をかけたくなるんだよ」
「そうなんですか?」
「あとは、ストレス発散」
「自動車にお金をかけることが、ですか?」
「ああ。これでも中間管理職の辛さってもんを味わっててな。都合が合えば走行会なんかでサーキットに行って走らせるんだ」
 またしても衝撃の事実を知らされた。先月以来、次々と明かされる岡崎の私生活に触れる度、櫻花は自分がずぶずぶと深い沼に沈んでいくような錯覚に陥るの だった。
 これはあくまでビジネスだと割り切っていたはずなのに、心がそれを拒絶する。知れば知るほど、この人をもっと知りたいという欲が際限なく櫻花を責め立 て、ただ見ているだけで満足していた日々が遠い過去のものとなっていく。
 いっそこのチャンスに乗じてそういう関係になってしまえばいい、という気持ちすら湧いてきて、しかもそれが日に日に強く大きくなっていくから、最近の櫻 花は自分自身を持て余してすらいた。
「サーキットにもこの車で行くんですか?」
「もちろん。この車で行って、走らせて、また戻ってくる」
「ずっと運転していると疲れちゃいませんか?」
「確かに疲れるが、楽しさの方が上だな」
「ちなみにどれぐらいスピード出すんですか?」
「そうだなぁ……俺はそんなにスピードを出すタイプじゃないから、出して二百から二百五十ぐらいだな」
「に、二百五十キロ……!?」
「富士スピードウェイなんかはストレートが長いから、出さないつもりでもつい出ちゃうんだよ」
「つい、ってスピードではないような……」
「ずっとその速さで走ってるわけじゃないんだぞ?一瞬それぐらい出る、というだけで」
「は〜、だとしても怖くて私にはとても無理そうです」
「安心しろ、公道でも安全運転がモットーだから」
 そうこうしているうちに車は葛西インターチェンジから首都高速道路湾岸線に入っていた。左手に東京湾を臨みながらすいすいと進んでいく。
 公道でも安全運転がモットーと言うだけあって、走行車線の流れに乗って、車間距離を開けつつ走らせている。
「俺の話ばかりじゃなく、篠塚のことも聞かせてもらってもいいか?」
「はい、どうぞ」
「俺は車が趣味だが、お前の趣味は?」
「えっと、私はおか……」
「おか?」
 車の走行速度に気を取られていた櫻花は、ついうっかり「岡崎課長を観察することです」と本人に向かって答えてしまいそうになり、慌てて続く言葉を呑み込 んだ。
「お、お菓子作りです。そんな難しい物は作れないんですけど」
「ほう、いかにも女の子らしい趣味だな」
 なんとか誤魔化しはしたものの、実はそんなに菓子作りは得意な方ではない。料理は一通りあれこれ作りはするが、それとて全て自己流で、分量をきっちり量 らなければならない菓子作りは、それだけで精神的ハードルが高いのだ。
 しかし感心しきりの横顔を見ると嘘だとは言い出せず、こうなったらその嘘に自分を寄せていくしかないなと、これまで幾度となく自分に言い聞かせてきた “口は災いの元”という諺を改めて胸に刻む。
 櫻花が己の失言癖にうんざりしていると、岡崎が申し訳なさそうに切り出した。
「ただな、篠塚。その話はうちの母親にはするなよ」
「お菓子作り、ですか?」
「ああ」
「理由を聞いてもいいですか?」
「面倒臭いことになるからだ。人の話を聞きやしないから、お前が迷惑を被ることになるぞ。今回こんなことになったのも、あの母親のせいなんだから」
 元々そんなに得意ではないことだし、そこまで言われては黙っているほかなさそうだった。
 車はレインボーブリッジを抜け、湾岸線から一号羽田線へと入っている。と、ここまで来てようやくではあるが、櫻花は岡崎の実家がどの辺りにあるのかを聞 いてすらいないことに気がついた。
「課長のご実家って、どの辺なんですか?」
 高速道路を使うぐらいだから、きっと神奈川の遠いところか、もしかしたら静岡あたりなのではないかと思っていると、車は高速を降りてしまった。
「都内だよ」
「では、課長もそこから?」
「いや、俺は一人暮らしだ」
 高速を降りてからというもの、これまで饒舌だった岡崎が嘘のように黙りこくっている。まるで会社で仕事をしている時のようで、櫻花も軽々に話しかけ難く なってしまった。
 車内には沈黙が下り、エンジン音とFMからの音楽だけが流れていた。重苦しい空気の中、互いに緊張感が高まっていくのを感じている。これから一世一代の 大芝居を打つのだから、無理もないことだ。
 櫻花の緊張の糸が極限まで張り詰め、これ以上はもう無理だと思われたその時、岡崎が大きな邸宅の前で車を停めた。車庫の扉が自動で開くと、そこへ入って いく。
「あの……?」
「着いたぞ、ここだ」
 そこには四台ほど自動車が停まっていて、今岡崎が停めた車以外に更にあと二、三台停められるほどの広さがあった。駐車場だけでこれだけの広さを設けてい るその邸宅は、櫻花が想像していたものとは全く違うお屋敷のような大きさだった。
 もしかしたらとんでもないことを引き受けてしまったのかもしれない――。
「いくぞ。準備はいいか?」
 岡崎がその場で立ちすくむ櫻花の背中に手を添え、玄関への道を踏み出した。