睦月│03


「ただいま」
 呼び鈴を鳴らすこともなく、重厚な扉を開けて岡崎が言う。広々とした玄関には、靴がいくつも並んでいて、在宅している家族が多いことを物語っている。
 もしかしたらこの靴の持ち主全員に見定められるのか、と戦々恐々となりながら、櫻花も岡崎に倣って上着と靴を脱ぐ。手土産と鞄、コートを手に立ち上がろ うとしたその時、後ろからバタバタと元気のよい足音が聞こえたかと思うとどすん、と何かがぶつかる音がした。
「たけちゃーん!」
 振り返って見ると、小学生の女の子が岡崎に抱きついていた。その女の子は、驚いて呆然としている櫻花を値踏みするような視線で睨めつけ、やがて勝ち誇っ た顔をすると櫻花の存在自体を無視するかのように岡崎に話しかけた。
「たけちゃん、お正月にも帰ってこなかったのに、今日はどうしたの?」
「こら、美海、離れろ、お客様の前だぞ」
「えー、お客って誰ー?このおばさんのことー?」
 確かに、小学生から見たら社会人なんて皆おばさんである。櫻花は内心苦笑しながら、あからさまに向けられる敵対心をどう受け流すべきかと考える。これが 本当の彼女なら受け流したりはせずに受け止めるのが礼儀だろうが、なにしろ櫻花はかりそめの存在。当たらず障らず、今日を乗り越えられればそれでいいの だ。
 しかし相手は子供である。子供というのは往々にして人の心の動きに敏感なものである。対処を間違えると大変なことになるのは目に見えており、軽々しく作 り笑いも浮かべられない。
「お前みたいに失礼な奴のことはもう知らん。邪魔だ、どけ」
 岡崎は抱きついている少女を無理矢理引き剥がすと、櫻花の背中に手を回してエスコートをする。もちろん少女を一睨みするのも忘れない。
 置き去りにされて不満げな声を挙げる少女が気になり、いいんですか?と訊ねるがただ一言「放っておけ」と返ってきた。そう言われてしまえば櫻花にはそれ 以上何もすることができず、黙って従うしかなかった。
 そうすると今度は背中に回された掌の感触が気になって、ドクンと心臓が跳ねる。今日は一体何度こうやってときめくのだろうか。この調子では、家に帰る頃 には疲れ果ててぐったりしていそうだ。もし翌日が出勤日なら、確実に仕事にならなかっただろう。櫻花は今日が土曜日であることを感謝した。
「篠塚、あんまり緊張しなくていいからな。どうせ今日だけしか関わり合わない連中だ。適当に相手をすればいいから」
「はい」
 とはいえ、相手は上司の家族である。そう単純な話ではない。それなりにきちんと対応しよう、と常識的な結論に至ったところで、とあるドアの前に到着し た。
 玄関からここまで結構な距離を歩いたような気がするし、そうでもない気もする。全ての感覚があやふやで、足下さえおぼつかない。完全に舞い上がっている な、と冷静に自己分析できる一方で、口を開けばそこから心臓が飛び出してきそうにもなっている。
「ただいま」
 またしてもいきなりドアを開け、櫻花を部屋の中へと誘う。するとうおおお、といった歓声が響き渡り、全身に拍手喝采を浴びる。
「まあまあ、いらっしゃい!あなたが威夫の彼女さんね!」
「こんな可愛い彼女がいるなら、どうして黙っていたんだ」
「そりゃこうなるのが判ってるもんな。それにしても、そうか、こういうのがタイプか」
「ちょっとたけちゃん、どこで騙くらかして釣り上げたのよ」
「うわー、たけ叔父さん面食いなんだねー」
 その勢いに圧倒されている櫻花の横を、先ほどの少女がすり抜けていく。
「だめ!たけちゃんは美海と結婚するんだもん!」
「なんだ、美海はパパと結婚するんじゃないのか?」
「だってパパにはママがいるもん。でもたけちゃんには誰もいないから美海が結婚してあげるんだー」
「やあねえ、この子は。誰かいるから、こうやって連れて来てるんじゃない」
「だめだもん!」
 わあわあと実に賑やかしい。
「お前らいい加減にしろ!」
 業を煮やした岡崎の怒号が飛ぶが、そこにいる面々はそれを軽く受け流す。それどころか火に油を注いだような状態で、その可愛い子を紹介しろとせっつかれ ている。
「篠塚櫻花と申します。岡崎課長……えっと、威夫さんには、いつも会社でお世話になっています」
 櫻花はぺこりと頭を下げた。想い人の名を初めて呼ぶ感慨に耽る間もなく、質問攻めにあう。
「あらまあ、ということは、威夫の部下の方なのね?」
「こいつの仕事ぶりはどうだい?」
「そっかー、部下かー。いつ手を出されちゃったわけ?」
「ていうか、どっちが先に告ったの?どうせたけちゃんでしょ?」
「ねえねえ、おねえさんいくつ?若いんでしょ?こんなおじさんでいいの?」
「ええと、あの、その……」
「ほんとにやめろって!こいつが困ってるだろ!」
「なによ、彼女の前だからって格好つけちゃって」
「そうだぞ、威夫。どうせすぐに化けの皮が剥がれるんだから」
「かーっ、偉そうに。何が“こいつ”だよ!」
「たけちゃんってそういうタイプだったの?」
「ねえ、おねえさん、こんなおじさんより僕の方がいいんじゃない?」
「お兄ちゃん趣味わるーい」
 もうどうにも収拾が付かない。岡崎はそれらを全て無視して櫻花をソファーに座らせると、母親にお茶を出すよう指示をする。
「あらあら、私ったら」
 母親が少年少女の母らしき女性を伴って台所へ消えるのを横目にした岡崎に、そっと耳打ちをされた。
「あの母親、今はああやってお淑やかなフリをしているが、すぐに本性を現すからな」
「はあ」
 以前岡崎は自分が本性を現すのを楽しみにしていろ、と言っていたが、どうやらそれは彼一人だけの話ではなさそうだ。
 お茶が出されようやく落ち着いたところで、櫻花は改めて自己紹介をした。
「株式会社フォーワーズで岡崎課長と同じ企画課に所属している、篠塚櫻花と申します。本日はお招きいただきありがとうございます。こちら、私の実家近くに ある造り酒屋さんの日本酒と、酒まんじゅうです。お口に合うかどうかわかりませんが、よろしければお召し上がり下さい」
 櫻花は、ようやく手土産を渡すことができてほっと一安心していた。このまま渡しそびれてしまうのではないかと危惧していたのだ。
 年末に実家に手伝いをしに帰った時、今日のための品をいくつか見繕っていたのだが、無難な所で日本酒と酒まんじゅうといういかにも酒屋で調達しました、 といった品になってしまったのだった。
 これらを送ってもらう時、ついでにと言って別の日本酒と甘酒も一緒に配達してもらったのだが、それはまだ自宅の台所に眠っている。今日中に渡すタイミン グがあれば、と考えていた。
「おお、ありがとう。日本酒には目がなくてね」
「あっ、俺も俺も。大事に呑ませてもらうね」
「じゃあ、こっちの酒まんじゅうは今頂いちゃおうねー。おまんじゅう、食べる人ー?」
「はーい!」
「美海もー!」
 子供達が元気に手を挙げる。
「はるかさん、だったわよね。どういう字を書くの?」
「旧字体の櫻に花ではるか、と読ませるんです」
「それじゃあ初見できちんと読める人って少ないだろうね。春生まれなのかい?」
「はい。ちょうど桜が満開だったそうで」
 和やかに会話は進んでいくが、櫻花には相手が一体誰なのか、推測でしか解らないという非常にあやふやな状態が続いていた。その困惑を察知したのか、岡崎 がリビングにいる家族達に命令をする。
「まずはお前らも自己紹介をしろよ」
「……もういい!全部バラしてやる!威夫の母でーす。寿子ちゃんって呼んでねー」
「父の信輔です。ほら、寿子ちゃん、櫻花さんびっくりしてるだろう?」
「兄の佳太。威夫とは三つ離れてるけど、櫻花ちゃん、歳いくつ?」
「今年二十八になります」
「若いねーっ!俺と十違うのかよーっ!」
「んもう、うるさい。えっと、私はこの人の嫁でかおる。お見合い結婚したんだけど、実はたけちゃんとは高校の同級生なのよ」
「そうなんですか!?」
「そうなのよー。全く乗り気じゃなかったから、釣書も写真も見ないまま会場に行ったら……って、私の話はどうでもいいのよ。この子達は、うちの拓海と美 海」
「岡崎拓海です。十歳です。年上の美人なお姉さんは大好きです」
「岡崎美海です。八歳……たけちゃんのお嫁さんになるのは私です!」
 一度に与えられた情報が多くて未だ混乱しているが、岡崎が義理の姉と高校の同級生、ということだけはしっかりとインプットされている。
 ひとしきり話をして盛り上がると、時刻はもう十二時を回っていた。もちろんお昼も食べていくわよね?という半ば強制のような言葉に従い、櫻花と岡崎はそ の家族とともに昼食をご馳走になることになった。
 ダイニングは手狭ということで広い和室に移動し、テーブルいっぱいに並べられた料理の数々を総勢八名で食べるのだが、それがまるで田舎の大家族の食事風 景のようで、どこか懐かしさを感じていた。
 唐揚げ、卵焼きにピーマンの肉詰めといった子供が好きそうな料理はみな奪い合うようにしているし、春菊のおひたし、さといものそぼろあん、ぶり大根、鰆 の西京焼き、茶碗蒸しなどは大人向けにも関わらず子供達も美味しそうに食べている。
 岡崎にも、その家族達にも「遠慮はするな」と言われ、櫻花はその言葉通り遠慮しないで料理に舌鼓を打つ。
 櫻花が持参した日本酒も振る舞われ、大人達は皆その味に酔いしれている。
「威夫は車だから飲めないわよねー」
「当たり前だろ」
「すんごく美味しいのに、残念ねえ」
「別に」
「そうやって澄ましていられるのも今だけよ。ねえ、櫻花さん。この子の昔話、聞きたくない?」
「おい!」
 母の挑発を適当にあしらっていた岡崎が、突然慌てはじめる。櫻花としては興味津々だが、立場を考えるとここで素直に聞きたいと答えるのは憚られる。そこ で、物欲しげな目をしつつ何も答えないという、櫻花にしては高度な技を思いついた。
 早速実践してみるものの、母と息子は段々ヒートアップしていき、櫻花には目を向ける余裕などないようだった。
「知られて困るようなことしてたのはあんたでしょ」
「なんもしてねえよ」
「よく言うよ、叩くどころか黙って立っていても埃が出る身体のくせに」
「どういう意味だよ」
「最初は大学の同級生で、次が……」
「おい!そんなこと誰に聞いた!」
「情報源をそんな簡単に明かす訳ないじゃないか。馬鹿だねえこの子は。確か三人目が……」
「母ちゃん!もういい加減にしてくれよ!」
 岡崎の母が暴露しようとしている内容は、あらかじめ本人から聞かされていたことなのでそれほどの驚きはなかった。それより、彼が母親を「母ちゃん」と呼 んでいることに驚きを隠せなかった。
 高級住宅街の、大きな邸宅に住んでいる、いかにもお金持ちといった風情の、見るからに上品な奥様を捕まえて「母ちゃん」と呼ばわったのだ。それも眉目秀 麗な、普段はダンディズム漂う色男が、である。
 作戦会議と称して居酒屋で食事をした際、友人と思しき人と電話をしているのを傍で聞いていた時にも気付いたことだが、岡崎はプライベートではかなり砕け た口調に変わるのだ。
 初めて聞いた時には、見た目とのアンバランスさやこれまでのイメージとのギャップなどに面食らいはしたものの、だからといって幻滅することなどなく、 却って心がキュンキュンしたものだった。
 こうして見ていると、岡崎のそういった資質というのはこの家の、この家族の中で育ったことにより培われたものだと思われる。彼は本来、人懐っこい性格の 持ち主なのだろう。
 会社で被っている「上司」「エリート」といった仮面を外した素顔をもっと見てみたい。
 櫻花はそんなことを思いながら、母親の前でただの子供に戻ってしまった岡崎の姿を、しっかりと目に焼き付けながら美味しい食事を続けていた。