〜銀色の翼〜
夕刻、二人はようやく岡崎邸を辞して帰路についた。夕食も食べて行け、なんなら一泊して行けと散々引き留められたのだが、それらをなんとか振り
切って文字通り逃げてきたのだ。
せっかくだからどこかで飯でも食って帰るか、という岡崎の提案に、精魂尽き果てていた櫻花は一も二もなく頷いた。これから帰宅して夕飯を作る気力など
残っていなかったのだ。
東銀座の路地裏に佇むその店は、気付かなければ通りすぎてしまうような質素な店構えをしていた。
この辺りはビジネス街なため、土曜日の夕方ともなると閑散としている。小さな灯りがひとつ点っただけの、屋号も暖簾もない玄関を入ると、そこはいかにも
高級そうな造りをしていた。
大きな一枚板のカウンターに、四人がけのテーブル席が数卓。座敷はないので接待には使いにくいだろうが、それでも、この近所の会社の上層部の人達に何か
と贔屓されていそうな雰囲気である。値段の書いていない寿司屋のイメージがそのまま目の前に広がっているといった感じだった。
近くのビルの地下駐車場からここまで歩く間、牡蠣は大丈夫かと訊かれていたので、恐らくここは牡蠣が美味い店なのだろう。そこまでは察しがつくのだが、
櫻花の知識と経験ではそれ以上の答えを導き出せなかった。
そんな店内はというと、週末だというのにいかにもやり手といった風のサラリーマン、いや、会社経営者と言った方がよいだろう。そのような人達で賑わってお
り、辛うじて空いていたカウンターの席に案内される。
「実は予約していた」
さらりと言われて驚くが、そうでなければ満席で入れないほどの人気店なのだろう。
「ここは冬は牡蠣、夏は穴子を食わせる店でな。昼は安いランチを提供しているが、夜は予約なしでは入れない人気店だ」
季節によって出す料理が変わるとはなんとも不思議な感じがするが、よくよく考えてみればそれぞれ旬と呼ばれる時季に料理を提供するだけの、当たり前の話
だった。ただ、現代社会ではそれが簡単ではないだけで、それが出来るこの店はレベルも客単価も高いのだろう。
スーツ姿の客の中に、ラフな格好をした二人組は浮くのではないかと思われたが、皆他の客のことなど気にも留めていないし、もしこちらを見ることがあって
もそれはただの反射で、詮索や値踏みなどしようとは思いもしないだろう。
「苦手な食べ物はあるか?」
「あるにはありますが、大丈夫です」
「それならいい」
しばらくして運ばれてきたのは、先付けの生牡蠣三種。ほんの少しの塩にレモン汁をかけたもの、甘酢と大根おろしで和えたもの、紅葉おろしと万能ネギにポ
ン酢がかかったもの。そのどれもが牡蠣の濃厚な甘みを引き出していて、それでいて生だというのに生臭さを感じさせない、素晴らしい逸品だ。
「美味いか?」
「はい!」
「そうか」
力一杯返事をしてしまったことに恥ずかしくなり頬を染めるが、岡崎が静かに肯定してくれたのでそれ以上気にすることはやめた。
続いて出された焼き物は、牡蠣と青菜の炒め物。しゃきしゃきの小松菜とプリプリの牡蠣がほんのり醤油味でまとめられているのだが、薄味なのに何故かこく
深い。そして定番の殻焼きは、シンプルにレモンを搾っただけのもの。
「どれも美味しいですね」
「そうか」
同じ言葉を返してくる岡崎だが、その顔にはうっすらと笑みが浮かんでいる。
「今日は本当に、色々とありがとう。助かった」
「いえ……」
仕事ですから、という言葉を牡蠣と共にぐっと呑み込む。
この夕食会は一体どういう趣旨のもと開かれているのだろうか。今日の反省会なのか、それとも慰労会なのか。どちらにせよ、これでこの茶番もお終いという
ことだ。だから櫻花は、すっかり慣れてしまったこの距離感をもう少しだけ堪能したいという気持ちに蓋をすることができなかった。
そんな櫻花の切なさなど関係ないとばかりに、料理は次々と運ばれてくる。牡蠣の磯辺揚げは、巻かれた海苔よりも牡蠣自身が一番磯を感じさせている。
「天ぷらにしても美味しいんですね」
「そうだろう?」
「牡蠣フライは出ないんですか?」
「欲しければ頼むが、今日は“牡蠣づくしコース・和”を頼んでいるから、フライは出ないぞ」
「ということは、洋もあるということですか?」
「ああ。中華もある。カキフライは洋食コースに出されるが……どうする?」
「ああ、いえ、いいんです。そうですか、和洋中のコースがあるんですか。凄いなぁ」
それならば半年の間に三度は全く違うメニューで楽しめるというわけだ。もちろんそう易々と予約は取れぬだろうし、気軽に来られる雰囲気でもない。そんな
店でも客を飽きさせない努力をしているように思えて、櫻花はまたひとつ勉強になった気がした。それが今すぐ何かの役に立つわけではないが、そういうことを
知るということが大事なのだ。
一人納得しているところへ、今度は鍋が運ばれてきた。
「牡蠣の土手鍋です」
味噌で土手を築いてある、いわゆる味噌味の鍋だった。沢山の野菜と牡蠣がぐつぐつと煮えていて、土手の味噌を崩して味を調節する。
熱々の所をそれぞれ直箸で取り分けて頬張ると、生とは違うプリプリとした弾力の牡蠣と、野菜のくたりとした食感のなんともいえないハーモニーが口いっぱ
いに広がり、味噌、牡蠣、春菊の香りが鼻を抜けていく。
一緒に出された牡蠣の釜飯は薄味で、決して鍋の邪魔はしないが釜飯だけで食べても十分存在感があるという絶妙な味付けに、櫻花はただただ唸ることしかで
きない。
それまでぽつりぽつりと交わしていた会話がなくなり、目の前の食事だけに熱中していく。そうして鍋を空にして締めのうどんも平らげ、食後の甘味を待って
いる時、岡崎がぽつりと漏らした。
「何も訊かないんだな」
櫻花にはそれが何を指しているのかが判らなかった。今日の件に関してならきちんと説明は受けているし、それなり以上の対価も受け取っている。この店のこ
となら「さすが課長ともなると色んな店を知っているんだな」ぐらいにしか思っていない。
「何も、というのは……?」
「家のこととか、家族のこととか、一切気にならなかったのか?」
「それは……気にならないと言えば嘘になりますが、私はそういう立ち入ったことを訊ける立場ではありませんので」
「――……そうだな」
二人の間に重い沈黙が流れる。そんな中、甘味が運ばれてきた。渋めの緑茶が添えられたあんぽ柿である。
最後まで“かき”尽くしとは恐れ入る所ではあるが、今の櫻花にはそんな心の余裕はなかった。ねっとりとした食感が喉に貼り付き、何か喋ろうとしてもなか
なか声にならない。渋茶でそれを流し込もうとするが、表面を滑り落ちていくだけだ。
店内のざわめきが二人の沈黙をより気まずいものにしていく。最初は和気藹々としていたというのに、一体何が理由でこうなってしまったのか。よくよく思い
返してみるも判らない。
気まずいまま店を出たため、このまま電車で帰ろうかとも思ったのだが、岡崎がそれを許してはくれなかった。
豊洲から再び首都高速道路湾岸線に乗り、葛西インターチェンジを目指す。ここでも車の流れはスムーズで、すぐに右前方に大きな観覧車が見えてくる。
櫻花にはそれを見る余裕などなく、車内の息が詰まりそうなまでの空気に耐えることで精一杯だった。行きはあれだけ気軽に話をしてくれていた岡崎が、今は
ただじっと前を睨み付けるように運転している。
葛西インターチェンジを下りると、櫻花の自宅まではあと僅かである。そうすればこの仕事も終わり、岡崎との関係もただの上司と部下に戻るだけなのだが、
どうにもそれが寂しくて仕方がない。
最初から判っていたことなのに、今日一日、共に密度の濃い時間を過ごした記憶があまりにも鮮烈に残っていて、頭では理解していても心がそれについて行け
ていないようだった。
自宅アパートが見えてきて、このかりそめの関係の終わりを覚悟した。
「篠塚、今日は本当に助かった。ありがとう。迷惑をかけたな」
当たり前のように櫻花が助手席から降りるのをエスコートしてくれる岡崎だったが、その顔は精細を欠いていた。
離しがたいその手をなんとか離し、右手の薬指にはめられた指輪を撫でながら丁寧に礼を言う。
「本当は楽しんじゃいけなかったんでしょうが、今日は凄く楽しかったです。それなのにこんな立派な物を頂いて、先ほども夕食をご馳走になり……本当にあり
がとうございました」
「いや、礼を言うのは俺の方だ。それに……変なことに巻き込んですまなかった」
「そんな!やめて下さい!ああ、そうだ、課長にも飲んでいただこうと思って、ご実家用とは別に日本酒を用意しているんです。今取ってきますから、少し待っ
ていて下さい」
「いや、いい。こんな茶番に付き合ってもらった上に、何か物を貰えるような立場ではない」
そう言い残すと、岡崎は後ろ髪を引かれる様子もなく去って行った。小さくなるテールランプを見つめる櫻花の頭の中には、先ほどの言葉が繰り返し流れてい
た。
立場――。先にその言葉を使ったのは櫻花の方だった。その時は本心でそう言ったのだが、自分が言われるとこうも冷たく感じるものなのかと愕然とした。
丸いテールランプが見えなくなっても、しばらくの間はその場に立ち尽くしていた櫻花だったが、いつまでもそうしている訳にもいかず、まさにすごすごと部
屋に足を向けた。
一日留守にした部屋はそら寒く、まるで今の櫻花の心を映し出しているかのようだった。狭い台所に置かれた日本酒と甘酒の瓶が、寒々しさを増して見せてい
るが、それは櫻花の心がそう見せているだけである。
身も心も疲れ果て、ぐったりとベッドに倒れ込む。明日一日で気持ちを切り替えなければ、仕事に支障を来すことは明白だ。それでも、今はこうしていたい。
今だけ、もう少しだけ。
目頭が熱くなり、見慣れた天井がゆがむ。この仕事を受けると決めた時、辛いことが待ち受けているのは判っていたが、まさか自分で自分の首を絞めることに
なるとは思ってもみなかった。だから、この目に浮かぶものが涙だと認めるわけにはいかなかった。
首都高速七号小松川線を西に車を走らせながら、岡崎は何度目ともつかない溜息を吐いては己の器の小ささに嫌気がさす。どうしてあそこで嫌味たらしいこと
を言ってしまったのか、数分前の自分を殴りつけたい気分だ。
これで櫻花に避けられるようになるとしたら、それはもう自業自得である。
明後日から職場でどういう顔をしたら良いか判らず、また、櫻花にどう接すれば良いか見当もつかず、ただひたすら落ち込んでいくばかりの岡崎が運転する日
産GT-R NISMOは、そのステアリングを握る男の心の声を代弁するかのような咆哮をあげるのだった。