睦月│06


 いつもと変わらぬ朝、いつもと変わらぬ月曜日。週の始まりの日は皆気鬱になりがちだが、これまで櫻花はそれには該当しなかった。なんと言っても想い人に 会えるのだから、気鬱どころか高揚感を抑えるのに精一杯なほどだった。
 ところが今日の櫻花は朝から気分が沈んでいた。満員電車の中で髪の毛が見知らぬサラリーマンのボタンにひっかかり、お気に入りのパンプスを踏まれ、出勤 するだけで散々な目に遭っていたのだ。その上、岡崎とは土曜日に気まずい別れ方をしたままで、どんな顔をして会えばいいか昨日一日を使って考えていたのだ が、結論が出ないまま今日を迎えてしまっている。これでは高揚感も何もあったものではない。
 本当は早く出社などしたくなかったのに、長年の習慣というのは恐ろしいもので、身体が勝手にその時間になると動いてしまうのだ。そうやっていつも通りの 時間に出社し、いつも通りにお茶を淹れる。
「おはようございます、課長」
「ああ、おはよう、篠塚。毎朝悪いな」
 いつも通りのやり取り、いつも通りの態度。何か少しくらい動揺なりぎこちなさなりを見せてくれてもいいだろうに、あまりにいつも通りすぎて櫻花はようや く悟った。見返りを求めてはいけない、ということを。
 ここのところ、物理的にも心理的にも距離が近づきすぎて忘れていたが、岡崎は元々社内でも女性社員人気の高い、モテる上司なのだ。仕事面で彼を目指すの は良いことだが、プライベートでももっと接近したい、などと思ったのがそもそもの間違いだったのだ。
 あんな重要なことをお願いされたからいい気になっていたんだ――。自分でも気付かないうちに自惚れていたことを思い知らされ、櫻花は自己嫌悪に陥った。 あの日たまたま残業していたのが自分だったから、あんなことを頼んでも後腐れなさそうなのが自分だったから、ただそれだけの理由で声を掛けられただけなの に、一体何を勘違いしていたのか。
「篠塚さん、どこか具合でも悪いんですか?」
「あれ、篠塚さん今日はどうしたの?何か悩み事でもあるなら遠慮なく相談してよ?」
 ただでさえ朝からついていないことばかりだった櫻花は、ますます落ち込んでどんよりとした空気を漂わせ、元気に出社してきた中畑や普段はのほほんとして いる原にまで心配をかける始末。
 そんな自分が余計に情けなくなり、せめて仕事だけは頑張ろうと、いつにない気迫でやるべきことを片付けていく。
 やはり私は仕事に生きる女、などといった感傷もないではないが、このやるせなさを発散させる手立てとして、とりあえずは目の前にある仕事に逃げたという わけだ。
「なんだ、具合悪いわけじゃなかったんですね。でもあんまり根を詰めすぎるのは良くないって、篠塚さんが言ってくれたんですよ?」
 昼になっても手を休めようとしない櫻花に、中畑が今度は心配そうな顔で声を掛ける。
「あっ……もうお昼?」
「やだ、気付いてなかったんですか?」
「うん、ごめん……」
「さあさあ、ご飯食べに行きますよ」
 櫻花にはきりの良い所まで進めておきたい気持ちもあったが、ここは素直に従っておこうと席を立つ。
 外に出るのも寒いということで、連れ立って社食に向かう。櫻花は月見うどんとおいなりさんのセットを、中畑は唐揚げ定食をそれぞれ選択し、空席を探して 目を彷徨わせると、こちらを見ながらひらひらと手を振る人物がいた。見れば四人がけのテーブルの半分が空いており、これは相席をしろとの合図だろう。中畑 もそれに気付いたのか、トレイを持ってスタスタとそちらへ足を進める。
 櫻花も中畑に続くが、その足取りは重い。何しろ手を振る人物の向かいに座っているのは岡崎なのだから。こういう時は、こちらに背を向けているのに一瞬で そうだと判る自分が嫌になる。長年目で追って培ってきた、他で一切使いどころのない技術があだになっていて、もう笑うしかなかった。
「原主任、今日は何にしたんですか?」
「今日はねえ、焼き魚定食にしたんだ」
「岡崎課長は……」
「今日はかき揚げそばだ」
「珍しいですね。いつももっといっぱい食べてません?」
 中畑が原の横に陣取ったため、当然だが櫻花は岡崎の横に座ることになる。中畑の言うように、岡崎はいつも社食では何かしらの定食に小鉢をひとつ追加をし ていて、そば一杯ではとても足りないのではないかと思われた。
 珍しいこともあるものだ、と思うが櫻花はそちらを見られない。三人の会話に適当に相槌を打ちながら、目の前の月見うどんとおいなりさんに視線を定める。
「ちょっと身体が重くてな。軽く節制するところだ」
「身体が重くて節制、とか俺も言ってみたいなぁ〜」
「ダイエットですか?」
「いや、そこまでじゃない」
 かき揚げそばはカロリー高そうだけどいいのかな、とか、普段から体型維持していたんだ、とか、どうしても岡崎のことを考えてしまい、櫻花はふるふると小 さく頭を振ってうどんを啜る。ツルツルとした喉ごしのはずなのに、なぜかざらついて上手く胃に流し込めない。
 櫻花は、月見うどんを食べるのに精一杯で、おいなりさんが入らないような気がしてくるが、残すという選択肢がないため無理矢理腹に詰め込むことになる。
「どうした、食欲がないのか?」
 箸の動きが滞りがちになっている櫻花に気付いて、岡崎が声を掛けた。その態度は自然で、これまでと何ひとつ変わらない。同席している二人に、ほんの二日 前に行き違いがあったことなど微塵も感じさせない所など、いっそ見事なものである。
 そうしてようやく、櫻花は気付いた。あれは行き違いでも何でもなかったのではないか、と。岡崎は本当に「物など貰う必要なし」と考えていただけで、売り 言葉に買い言葉的な意味などなかったし、そもそも岡崎がそのようなことをする理由もないのだ、と。
 それは岡崎が櫻花のことをただの部下としか見ていないということになるが、今のこの態度を見れば納得せざるを得ない。
「そんなことないですよ」
 櫻花はそう答えると、味のないうどんとおいなりさんを黙々と食べ始めた。他の三人は談笑に相槌を打つことすらせず、なんとか残さず食べ終えると「ちょっ と用事があるのでお先に失礼します」と言い残してその場を逃げ出した。
 本当は用事などないが、そうでも言わなければ不自然に思われるというのが理由だが、この状態では下手に仕事に手をつけない方が自分のためだ。
 櫻花は気持ちを整理するために、屋上に向かった。一月下旬だというのにそれなりに人がいて、日向ぼっこをしたり、ぼうっとしたりと、皆思い思いに過ごし ている。櫻花もその仲間になるべくドアを開いたが、思いつきで来てしまったため外出用の上着を持っていないことに気がついた。
 室内用の上着などあってないような物と言わんばかりに、冷たい空気が身体を撫でていく。寒くはあるが、暖房でぼんやりしがちな頭を冷やしてシャキッとす るにはもってこいだった。
 寒風吹きすさぶ屋上で、ただ空を眺める。雲ひとつない青空は明日の冷え込みを知らせているが、櫻花は今、その青に意識を預けて雑念を取り払おうとしてい た。そして、段々と頭がクリアになっていくに従い、これからどうするべきかが明確になっていく。
 とはいえ、頭では理解できても心はすぐには納得しない。そこをどうやって折り合いをつけていくか、考えているうちに昼休憩の終わりが近づいてきた。頭が すっきりしたことに味をしめた櫻花は、今後ちょくちょく利用しようと算段しながら企画課のフロアに戻っていく。
 冷たい空気を纏ったまま自席に戻ると、中畑が少し驚いたような顔をした。用事があるからと言って早々に昼食を終わらせて席を立った櫻花が、いかにも冷え 切った様子で戻ってきたのだから驚きもするだろう。だが何も言わず黙っているところを見ると、中畑は中畑で櫻花のただならぬ雰囲気を察知しているのかもし れない。
 午後も仕事に没頭し、気付けば定時の鐘が鳴っていた。こういう心持ちの時には残業をしても無駄とばかりに、そそくさと片付けをしてフロアを後にした。



「篠塚さん、今日なんかちょっと変でしたね」
「うーん、でもあの子、元からちょっと変わってるからねぇ。というか、企画課に配属されてる時点で“変人”なのよ?あなたも、私も」
「わー、鴻野さん酷いですー!」
「やだ、あなた自分が普通だと思ってたの!?」
「普通ですよ、ごく普通!」
「……そういう所を残しつつ、きちんと仕事が出来るように育ててるのねぇ。篠塚さん、教育向いてるかもしれないわ」
「えっ、私きちんと仕事出来てますか!?」
「ええ」
「やった!お局様のお墨付き頂いた!」
「ちょっと、誰がお局様よ!?」
「ああっ、ごめんなさい、つい口が滑って」
「全く、どういう了見かしら。どうせ呼ぶなら御台様とお呼び。……お先に失礼します」
「お先に失礼しまーす!鴻野さん、御台様ってなんですかー?」
 中畑は櫻花の異変を気にしているが、鴻野はなんでもないことのようにを笑い飛ばす。人間というもの誰しも感情の波があるもので、それが目に見えるように なったのは櫻花にとって良い変化だと思っているようだった。
 わいわいとお喋りに花を咲かせながら帰って行く新人とベテランの後ろ姿を、岡崎は神妙な顔をして見送った。
 何やら妙なことが起きている、と原は感じた。一時期、どこかぽわんとした空気が漂っていた二人の間に、すきま風が吹いているような気がしてならない。そ れが一時的なものなのか、それとも決定的なものなのか、注視して今後の出方を考えなければならないだろう。
 そして翌日――櫻花はいつもの時間には出社して来なかった。