如月│01


 のぼせ上がった頭を冷やすために何をすればいいか考えた櫻花は、翌日、いつもの時間には出社しなかった。物理的に距離を置くべきだと考えたのだ。とはい え同じ職場の上司と部下である。そうそう距離など置けるはずもない。そこで考えたのが、朝のお茶出しをやめる、ということだった。
 それでどれだけ冷静になれるかは判らないが、頼まれもしていないのにお茶を出していたのは、無駄に近づいていたということにもなる。それを止めれば、少 しは距離を置けるというもの。
 しかし、いきなりゆっくり出社して、いつも準備されているお茶やコーヒーが出来ていなかったら、これまでの行いが白日の下にさらされると考えた櫻花は、 少し小細工を弄することにした。
 いつも通りの時間に家を出て、会社の最寄り駅から会社までの間にある公園で時間を潰す。よき頃合いを見計らって会社に向かい、他の社員達が出社してくる ギリギリに給湯室の準備をするというものだった。
 時間を潰すといってもたかだか十五分程度のこと、しかも公園は通勤経路から二ブロック奥まった所にあるため、行き帰りにも時間が必要だ。公園に滞在して いられる時間はそう長くはない。
 そもそも、櫻花がお茶やコーヒーの準備をしていることを知らない人はいない。皆うすうす感づいてはいて、毎朝申し訳ない、有り難いと思いこそすれ、何か やましいことをしているのでは、などとは思いもしていない。だが櫻花にしてみれば、下心があったためやましい気持ちがぬぐい去れず、コソコソとこのような ことをしてしまうのだった。
 ただ、これが全くの時間の浪費かと言われればそうでもなく、僅かな時間だが目を瞑って鳥のさえずりを聴き、精神と肉体を切り離すイメージをしながら深呼 吸を繰り返すと、心が落ち着いてくるのだ。それはある種の瞑想のようなもので、出社前にこれをやるとやらないとでは、一日の仕事の捗り具合が明らかに違う から不思議だ。
 恐らく心の動揺を抑えることに一役買っていたのだろうが、それを続けること一週間経ったある日、櫻花は尚美に呼び出しを食らった。



 定時でオフィスを出ると、以前原に連れて行かれた小料理屋へ向かう。まだ週の半ばということもあり、どうやら客の出足は遅いようだった。櫻花達の他には サラリーマン客が一組いるだけで、好きな席に座るよう言われた。二人は一番奥まったテーブル席に収まり、ほっと一息吐く。
「よくこんな店知ってたわね」
「前に原主任に連れてきてもらったことがあって」
「あー、あの人色んな店知ってそうよね」
 尚美は特に怒っている様子でもない。少し肩の力が抜けた櫻花は、おしぼりで手を拭く尚美の、左手薬指に光る指輪に気を取られていた。それは約束された幸 せを手にした者の証のように見えて、今の櫻花には目がくらむほど眩しく見えた。
「それで?」
 尚美の鋭い声が飛んできた。その目は言い逃れなど許さないと言っており、また、たった一言で尚美が何を言わんとしているのかを理解してしまった櫻花は、 とりあえず飲み物と食べ物を適当に注文してから、これまでの経緯をぽつりぽつりと話し始めた。
 尚美は櫻花が話し終わるまで口を挟まずにただ黙って聞いていたが、途中眉間に皺を寄せたり笑いを堪えたり、色々と思う所はあるようだた。
「……ということなんだけど」
「だいたいは判った。私も櫻花に迷惑かけちゃったね」
「ううん、いいの。尚ちゃんは今幸せなんでしょ?」
「うん」
「それなら万事オーケーじゃない。ね?」
「そう言ってくれると嬉しいけど、でも」
 尚美は手にしていたビールをぐいと飲み干し、櫻花に厳しい目を向ける。
「それとこれとは話が別。だいたい、どうしてそのお願いを聞いたのよ?」
「私でよければ、って思って」
「どうしてそう思ったの?」
「えっと……」
 これを契機にプライベートでお近づきになりたい、などという下心があったということを、素直に言えるはずもない。だが尚美の追求を躱せるかと言われれ ば、それも無理な話だ。
 早々に窮地に陥った櫻花は、とうとう白旗を揚げた。
「課長の私生活を垣間見られたらいいな、とか」
「とか?」
「……これを機に距離を縮めたいと思った、とか?」
「なんでそこで疑問系なのよ」
 尚美は呆れ顔になりながら、それでもようやく本音を零した櫻花に対し、追求の手を緩めようとはしない。
「今更隠したって無駄よ」
「うう……本当はこのまま付き合えるといいな、とか妄想してました……」
 言葉にすることによって、自分の浅ましさが浮き彫りになるような気がして、段々と声も尻すぼみになる。そんな櫻花の告白を聞いて、尚美は満足そうに頷い た。
「最初からそう言えばいいのに。それで、そこまで考えてたのに、どうして朝が遅くなってるのよ」
「バレてましたか」
「バレてましたよ」
 櫻花はそこでようやく、尚美に呼び出された理由を悟った。尚美には朝のお茶出しのことを話していたから、それより遅い時間に出社している所を見られたら 不審に思われても仕方のないことだろう。
 そこで櫻花は、先ほどは話さなかった土曜日の帰りの出来事も含めて、簡潔に話をする。
 最初は楽しく食事をしていたこと。ところが岡崎のある質問に答えた所雰囲気が悪くなったこと。帰りの車はお互い言葉を発しなかったこと。日本酒を渡そう と思ったら断られたこと。
 ひとつひとつ思い返しながら尚美に話すことで、一連の出来事を客観的に見ることができた。そして改めて思ったのだ。
「やっぱり課長は、私のことをただの部下としてしか見ていないわよね」
 つい零れた本音を、尚美はフン、と鼻で笑い飛ばした。
「そう思ってるのはあんただけよ」
「そんなことないよ」
「じゃあ聞くけど、もし櫻花が親に見合いをさせられそうになって、それを回避する為に偽の彼氏を連れて実家に帰ることになったら、どうする?」
「だって、そんなことにはならないもん」
「仮定の話でしょ。誰を連れて行く?一番最初に頭に浮かんだのは誰?それはどうして?」
 尚美にそうたたみかけられ、一番に櫻花の頭に浮かんだのはもちろん岡崎だ。理由は言うまでもない。ただ、それをそのまま言うのは癪に障るため、他に候補 者はいないかよくよく考えてみることにした。
 原になら気軽に頼めそうだが、連れて行った実家で調子のよいことをあれこれ喋られてしまいそうだ。同期にも仲の良い男性社員はいるが、皆彼女持ちか婚約 者持ちばかりで頼めない。大学時代の友人に頼もうものなら、あっという間に本当のことがバレるか、逆に結婚させられてしまうのが落ちだ。
 そう考えると、こんなことを頼める相手というのはそう簡単に見つかるものではないし、よほど信頼のある人物でない限り頼めるものではなかった。そうする とやはり、最後には自分の「好き」という感情が一番大きな決定打になる。
「たまたまその日残業してたのは私だったから、それで頼んできたのかと思った……」
 逆の立場になって考えてみて初めて解ることもあるのだと、櫻花は目から鱗が落ちる思いをした。
「解ったでしょ?そんなお願いされた時点で脈ありだっつーの!」
 鈍い櫻花がようやく気付いたことで肩の荷が下りたのか、尚美が大きく息を吐いてほとんど減っていなかった料理をやっつけ始めた。
 一方の櫻花は、思いもしなかったことを言われ動揺が収まらない。まさかという気持ちと、もしかしたらという気持ちがせめぎ合い、頭が混乱していた。
 尚美は櫻花が赤くなったり青くなったり、眉間に皺を寄せたり眉尻を下げたりするのを横目で見ながら、料理をつまみつつそれが落ち着くのを黙って待ってい た。
 十分ぐらいか、それとも三十分ぐらいか。もしかしたらほんの三分ほどだったかもしれないが、櫻花にはとてつもなく長く感じた数分間で、ようやく頭の整理 がついたらしく、ぬるくなったビールを呷り言う。
「ってことは、私、やっぱり課長を怒らせちゃったってこと?」
「そうね」
「でも私、本当に課長のご実家のこととか訊ける立場じゃないって思ってたし……」
「それはまあ、ニブチンの櫻花相手にはっきりと言わない岡崎課長も悪いわよね」
「うっ……。じゃあじゃあ、私が朝お茶出ししなくなったのは……」
「逆効果よねー。脈なしどころか、嫌われたと思ってるかもよ?」
「どうしよう……」
 櫻花自身「距離を置いて頭を冷やすつもりだったくせに」、という気持ちもなくはないのだが、そこは恋する乙女のこと、自分に都合の良い状況を自ら切り捨 てた可能性があるなら、それをなんとかしなければ、と思うのも無理はない。
 今更誤解でした、と言うのもおかしな話だし、いきなり止めたお茶出しを何のきっかけもなく再開するのも不自然だ。
 なす術もない、とがっくり項垂れる櫻花に、尚美は春菊のおひたしをぱくつきながらこともなげに言い放つ。
「あと二週間もすればバレンタインデーよねー」
 これまでバレンタインデーなどというものに縁のなかった櫻花にとって、それは考えてもみないことだった。
「せっかくだから、バレンタインデーにチョコ渡して告っちゃえば?」
 という、人妻となった友人の暢気なアドバイスが、櫻花には天啓のように聞こえた。
「バレンタインデー……」
 それはとても魅力的な提案だった。ただチョコレートを渡すだけで、その意味が解るという、実にお手軽に告白ができるチャンスなのだ。実際その日に賭けて いる女性達に聞かれたら怒られそうだが、これまで製菓会社の仕掛けたイベント程度にしか考えていなかった櫻花にしてみれば、それに乗っかるだけでいいだな んてなんて楽ちんなんだろう、と思ってしまうのだ。
「わ、渡してみようかな……」
「そうこなくっちゃ!」
 尚美は途端に目を輝かせ、これまでこういったイベント事に全く興味を示さなかった櫻花をどう指導しようかと、あれこれ脳内でシミュレーションを始めた。
 先ほど聞いた話によれば、クリスマスも二人でディナーを楽しんだということだし、このまま岡崎と櫻花がくっついてくれれば、これまで彼女が目を向けてこ なかった普通の女の子が楽しむイベントを体験してくれるのではないか、と思うのだ。
 そもそも、これまで頑なだった櫻花の心をこじ開け、自ら変わりたいなどと言わせるその力が、尚美には羨ましくもあった。友人の自分では彼女の生き方など 変えられないし、その友人の言葉を借りるなら「そういう立場にない」から、岡崎に対してある種の嫉妬を抱いているのかもしれない。
 尚美はそんな自分に気付いて苦笑を漏らすと、気を取り直して今後の方針について話し合うことにした。
「で、どうする?買う?それとも手作り?」
 バレンタインデーのチョコレートは、デパートの地下などで買うものだとばかり思っていた櫻花には、作るという発想がなかったのだ。テレビなどで見知って いる、もしくは遠い遠い過去――それこそ小学生ぐらい――の記憶をさかのぼった先にある知識は、なんとかいう海外ブランドの物が美味しいとか、生チョコが 流行っているだとか、ずいぶん古いまま更新されていない。
「とりあえず、どっちにするかじっくり考えてみてよ。とは言え、作るとなるとあんまりのんびりもしてられないけどさ」
「そうね、今夜一晩考えてみる」
「あとさ、ついでに友チョコの交換もしようよ!」
「なにそれ?」
「そのまんまよ。友達に贈るチョコ。こっちは値段決めて買った物を交換、ってことでどう?」
「楽しそう!」
「でしょー?」
 バレンタインデーに乗り気になった櫻花は、これまでの気鬱さなどすっかり忘れてしまい、美味い料理と酒を存分に楽しんだのだった。