如月│02
季節の早取りは何もハロウィンやクリスマスに限ったことではなく、近年では十月にもなるとお節料理やお歳暮の予約が始まったりする。正月も松の内が過ぎ
ればひな人形の宣伝が流れるようになる。
そして同時に、バレンタインデーの宣伝広告が幅をきかせはじめ、街の中は段々とチョコレート色に染まりつつある。それに比例するように世の女性達のテン
ションも高くなっていく。
それはフォーワーズの女性社員達も例外ではなく、昼時の社食ではあちらこちらでそういった類いの話で盛り上がっていた。
櫻花は、今までなぜこれに気付かなかったのかと、自分の視野の狭さに呆れ返るばかり。それを向かいに座ってラーメンを啜っている尚美に零すと、くすりと
笑われ「今は気付いたんだからいいじゃない」とあっさりと流されてしまった。
確かにこのところ、これまで気づけなかったことに色々と目が行くようになったと自分でも思っていて、お陰で仕事にも良い影響が出始めているのを実感して
いた。
「それで、どっちにするか決めた?」
「うん、手作りにしようかと思って」
櫻花が一晩悩んで決めたのは、手作りのボンボンショコラを渡すということだった。先月渡しそびれた日本酒に目をつけ、それを使おうと考えたのだ。
「えー、何それ美味しそう!っていうかさ、手作りにするなら櫻花にちょっとお願いがあるんだけど」
「なあに?」
「櫻花ん家で一緒に作らせて!」
「いいけど、でもどうして?」
「私お菓子作りとか苦手だし、それに……家で作ると庸一朗さんにバレちゃうんだもん」
恥ずかしそうに頬を染めながらお願いされては、断れるはずもない。尚美のこんな姿を見るのも珍しいことだし、二人でチョコレート作りというのも楽しそう
だ。
櫻花は一も二もなく了承し、とりあえずこの週末に試作をしようと話をまとめると、他愛もない話をしながら食事を続ける。
そんな時、櫻花の背中越しにあまり聞きたくない会話が聞こえてきた。
「私、今年は岡崎課長にチョコ渡すわ。マジ気合いいれてく」
「えー、やだ、本気?だってあの課長怖くない?」
「確かにいつも眉間に皺寄せてるけど、それが渋かっこいいんじゃない」
「まあ、渋いと言われたら渋いわね」
それは簑田京子とその友人の会話だった。これ以上そんな話を聞きたくない櫻花は席を立とうとしたが、面白がった尚美に制止されてしまい、渋々浮かせかけ
た腰を落ち着ける。
「盗み聞きなんて趣味悪いよ」
と、一応それっぽいことを言ってみるものの、尚美は意に介さない。
「他人の迷惑も顧みず、社員食堂という公共の場で、馬鹿みたいに大きな声でくっちゃべってるのが悪い」
ピシリと言われ、櫻花はそれ以上何も言えなくなってしまった。
そんな間も、櫻花の背後ではキャアキャアと黄色い声での会話が続いている。
「じゃあ、江川観光の専務はもう完全に諦めたってこと?」
「だって、あの人全然なびいてくれないんだもん」
「それなら仕方ないよねー。いつまでも無理目な人狙ってても時間の無駄だし」
「そうそう。それに、社内の人の方がいつでも目が届くしね」
「言えてる。横からかっさらわれないよう気をつけなね?」
「んー、まあ、あそこの連中には負ける気しないし平気っしょ」
あはは、という高笑いが聞こえてくる。なんとも腹立たしいその言い草に、一言ぐらい言い返してやりたいのだが、そこは拳を握ってぐっとこらえる。それ
は、こんな所で騒ぎを起こして上司である岡崎に迷惑はかけられないということ、それに加えて、簑田京子に宣戦布告をして事態を困難にする必要はないとい
う、非常に利己的な判断を下せる冷静さを失ってはいない証拠だった。
「何が『なびいてくれない』よ。腹の立つったらありゃしない」
「まあまあ……」
櫻花がなだめると、尚美は人の悪い顔をしてニヤリと笑う。
「あのキレイな顔が悔しさでゆがむ日も近いと思うと、これぐらい我慢のうちに入らないわよ」
「もしかして結婚式に呼ぶつもりなの?」
「うーん、それがまだ決まってないのよね。ああ、もちろん櫻花は呼ぶんだけど、規模をどうするかで話がまとまらないってボヤいてたわ」
「なんだか大変そうね」
「大変なのは私じゃなくて庸一朗さんの方よ。私なんてああしたい、こうしたい、っていう希望を出すだけなんだもの。本当にこれでいいのかしら、って思うぐ
らい。だからまあ、労いの意味も込めて、手作りチョコレートを渡したいなぁ、なんて……」
苦労して結婚までこぎつけたため、とにかく尚美が嫌な気持ちを抱かないよう、率先して面倒事を引き受けているという。なんともいじらしいことだが、尚美
の夫も仕事で忙しいのに、と櫻花は感心しきりである。
それというのも、尚美が紆余曲折を経て結婚した相手というのは、先ほど簑田京子が“なびいてくれない”と零していた江川観光の専務、江川庸一朗なのだ。
本社の専務とは別に、事業部長として新たなホテルグループを立ち上げ、そちらの仕事もしている彼は本当に多忙で、去年の展示会に来たのもその仕事の一環
だったのだ。そんな中、一体どうやって結婚式の準備という時間をひねり出しているのか不思議な程である。
櫻花と尚美が小声でそんな会話を交わしている間も、簑田京子とその友人は未だかしましくしていて、いい加減うんざりしてきた櫻花達はそっと席を立った。
トレイを返しながら、尚美と顔を見合わせて苦笑する。つい出来心で聞き耳を立ててしまったが、その内容が余りに自信に満ちあふれていて、その自信を少し
でいいから分けてもらいたいという気持ちになっていた。
過剰な自信は滑稽だが、普段からあまり自信のない櫻花は笑ってばかりもいられない話で、その自信のなさが現在の状況を招いているとも言えるのだ。
少しぐらい見習った方が良いのではないか、と思っていた時、耳元で囁かれた。
「櫻花は無理にあいつの真似しなくていいからね?」
「……尚ちゃんはエスパーかなにか?」
勘が鋭い、という一言では片付けられない尚美の鋭さに、櫻花はついまぬけなことを聞いてしまう。
冗談半分での発言だと解ってはいるものの、櫻花の顔があまりに真剣だったため、尚美はつい吹き出してしまった。笑われた櫻花は唇を尖らせ、何が可笑しい
のかといった顔をしている。その様子がまた面白くて、尚美は笑いをこらえるのに必死になる。
そんなこんなであっという間に昼休憩の時間は過ぎてゆき、二人はそれぞれの持ち場へと戻って行った。
午後の仕事の間中ずっと、櫻花の頭の中には簑田京子の自信に満ちあふれた声がこだましていた。狙った獲物は逃さない、商品開発課の女豹などと言われては
いるが、彼女とて最初からそうではなかっただろうし、そんな肉食系になるきっかけがあったはずだ。
尚美には「真似をしなくていい」と言われたが、あの姿勢は見習うべき所がある。特に仕事面では、最近ようやく自信がついてきたが、それでもまだまだ自信
不足な所が多いように思われる。
昨年は大きな仕事も任され、それと並行して約一年間面倒を見てきた中畑も、春にはきちんと独り立ちできそうな目処も立った。これを自信にしなくてどうす
るのか、という自己分析もしている。
櫻花は全てにおいて自己評価が低い傾向にあるが、ここにきてようやくそれを見直そうという気持ちになってきたようだ。
本人にはあまり自覚はないが、それは一年前の櫻花からはとても考えられない成長ぶりで、自分を変えようという心がけひとつで、人というのはいくらでも伸
びていくものなのだ。
そんな前向きな気持ちが顔に出ていたのか、櫻花は終業後中畑に声を掛けられた。
「篠塚さん、今日は午後からずっとご機嫌でしたけど、何かいいことありました?」
自分では浮かれていたり、機嫌が良かったりしたつもりがなかったため、そう言われてとても驚いた。
「そんなことないんだけど……」
「えー、そうなんですか?あっ、解った!もうすぐバレンタインだからそれでテンション上がってるんですね!」
「えっ!?」
当たらずとも遠からずな言葉にギクリ、と一瞬身を固める。
「私もそうなんでよーく解ります!街を彩るハートの煌めき、胸がときめくシチュエーションの妄想、そして何より、今しかお目にかかれない限定チョコやス
イーツの数々!」
たまらんですよ、と頬を緩めてにんまりしている。
「中畑さんは色気より食い気だね〜」
「いいんです。あげる相手がいなくても、あれこれ楽しめるのがバレンタインなんですから」
「誰かにあげるフリして自分用のチョコ買ったり?」
「そうです!ちょっとした自分へのご褒美です」
「あの中に突入して行けるのは、女の子の特権だよね。まあ、俺はチョコに執着ないからいいけど、甘い物好きな男にとっては地獄のようなシーズンなんだって
さ」
「買いたくても自分で買いに行けないですもんねぇ」
原が当たり前のように会話に加わってきて、バレンタイン談義に花を咲かせている。櫻花はそれを横でふんふんと聞きながら、世の女性達は自分に関係ない日
でもそうやって楽しんでいるのか、と目から鱗が落ちる思いをしていた。
尚美に「友チョコ」なる物の存在を聞かされた時にも感じたことだがが、自分に関係ないと思った情報は一度目にしても頭に一切残っていないことに落胆を隠
せないでいた。こんなことでは今後の仕事に支障を来すような気がしたのだ。
これまでは自分本位で企画を立ててきたが、これからはもっと世間に目を向けて、大衆受けするような物を考えなければならないのではないだろうか。
「原主任、その、バレンタインというのは世の女性なら皆そうやって楽しむものなんでしょうか?」
「どうしたの?いきなり」
「私はこれまでそういったことに一切目を向けずに来たので、だからあまり企画が通らないのかと……」
櫻花が恥を承知で問うたというのに、原はあはは、と腹を抱えて笑う。
「そんなこと言ったら、俺、男だよ?それにね、人にはそれぞれ個性というものがあるでしょ?それを生かすためのこの仕事なんだから、我々は大衆に迎合し
ちゃダメなんだよ」
「でも……」
「じゃあ訊くけど、篠塚さんから見てうちの課の女性達に、そういった世間一般を代表するような人、いると思う?」
そう言われてみれば、先輩も同僚も後輩も、楽しんではいるがどこか斜に構えて捉えている所があるような気もする。キャアキャア言っている中畑にしても、
一番最初に出てきた言葉は『街を彩るハートの煌めき』である。チョコレートは二の次、三の次で、それを演出する方が気になると言うのだからやはり普通では
ない。
「いないでしょ?いいんだよ、うちはそれで。後で商品開発の人達が一般大衆目線で作ってくれるから。だから篠塚さんは今のまま、世の中に迎合しようなんて
思わないで孤高を貫いてね?ああ、もちろんアンテナを拡げるのはいいことだよ」
「原主任、私は普通ですよ?」
「いやいや、中畑さん、君はどう考えても普通じゃないよ?いやあ、うちの人事は見る目があるよねえ」
「解せぬー!」
再び原と中畑の掛け合いが始まってしまったため、櫻花も再び考えこむ。口にする前に原に牽制をされ、自分の進むべき道が判らなくなったのだ。
これ以上考えても頭の中がまとまるはずもない、と見切りをつけた櫻花は、週末にチョコレートを作りに来る尚美に相談することにした。せっかくの楽しいお
菓子作りに水を差すかもしれないが、待ち時間があるのも事実。その時に少しだけ話題に上らせてみればいい、と考えたのだ。
こうやってすぐに気持ちを切り替えられるようになったのもこの一年での大きな成長なのだが、櫻花本人はもちろんそこには気付いていない。