如月│03


 櫻花の自宅アパートは築年数が古く、そのお陰か一人暮らしには十分な広さがあるのに家賃がそれほど高くなかった。快速が止まらないことも、目の前の江戸 川を渡ればそこは千葉県だということも、それこそ住めば都というもので今では気にもならなくなっている。
 そんな一人暮らしのOLの部屋に訪ねて来る者はそれほど多くなく、現在キッチンで悪戦苦闘している人妻はその数少ない者のうちの一人だった。
「熱っ!」
「あーあー、もう、だから気をつけてねって言ったのに」
「これ、レンチンしちゃダメなの?」
「うーん、ダメじゃないけど、たぶん綺麗に仕上がらないと思うよ?」
「お菓子作り面倒臭ーい!もうやだー!」
「尚ちゃん、お料理は上手なのにね……」
「そんな可哀想な子を見るような目はやめてくれる?」
 それぞれ片想い中の上司、新婚の夫へ贈るバレンタインチョコの試作をしている櫻花と尚美は、二人で使うにはそう広くはないダイニングキッチンでわあわあ と大騒ぎをしていた。
 お菓子作りが苦手な尚美のサポートをするのに手一杯で、櫻花も自分のチョコを思うように作れてはいない。それでもこうやって二人仲良くお菓子作りをする のはとても楽しく、岡崎の母が一緒に作りたがるというのが今ようやく解った気がした。
 試作とはいえ、渡せるレベルに達しているかどうかの判断をするためのもの、手抜きなどできないし適当になど作れない。味見をして納得をしてようやく、本 番用を作るのだ。
 大騒ぎをしながら数パターン作成し、冷やし固める時間を利用してお茶を楽しむ。今日のために作っておいた焼き菓子と紅茶を準備してこたつに入ると、ぬく ぬくとした暖かさと楽しいお喋りのせいでお尻に根が生えたように動けなくなる。
「そうそう、この前、原主任に言われたんだけど……私は今のまま変わらない方がいいって。どういう意味だと思う?」
「変わろうと思って頑張ってる所に『変わるな』って言われたら混乱するだろうけど、そこも含めて『今のまま』なんじゃない?でも、どうしてそんな話になっ たのよ」
「中畑さんと原主任がバレンタインについて楽しそうに話してたんだけど、私は全然その中に入って行けなくて……私は何も言ってないのに『大衆に迎合する なー』とか『孤高を貫けー』とか言われちゃって。よくわかんなくなっちゃった」
 櫻花は眉毛を八の字にしながらフィナンシェに手を伸ばす。良いできでよかったと胸をなで下ろし、尚美の言葉を待つ。
「きっと何かを感じ取ったんでしょうね。あの人のほほんとしてるようで、すごく鋭いから。義務感に駆られて動くのはやめなさい、ってことじゃないの?」
「義務感……」
「櫻花のことだから、これからはもっと世間の動きに目を向けなくちゃ、とか思ったんでしょ?興味があるならいいけど“ねばならない”と思って動く必要はな いってことよ」
「うーん、それだとアンテナは拡げられないんじゃない?」
「その辺は人にもよるんじゃないかなあ。きっと櫻花には、そういうやり方は向いてないってことよ」
「私のことなのに、私より尚ちゃんや原主任の方がよく解ってるのね……」
「人は時として自分のことの方が理解できていないものよ」
「難しいね……お菓子作りの方がよっぽど簡単よ」
「簡単かどうかは置いておいて、反応が素直だから楽っていうのは解るわ。料理もそうだもの」
 はぁ、と二人で溜息を吐く。人というのは複雑なもの、という経験がそうさせるのだろう。
 尚美にも「櫻花は今のままでいいよ」と原と同じことを言われた櫻花は、若干モヤモヤしつつもこの件はこれで終わりにしようと、別の話題を振ってみること にした。
「そういえば、今日は旦那さん何してるの?」
 今日は土曜日で、せっかくの休みの日なのに新妻を自宅に招いている事実に気がつき、本当に大丈夫なのだろうかという不安がわき上がってきたのだ。今週だ けならまだしも、来週も尚美に来てもらわなければならず、庸一朗に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 そんな櫻花の気持ちを読めたのか、尚美は笑って言う。
「仕事だから心配しないで。サービス業の辛い所よね」
「それじゃあ、別にうちに来て作らなくてもよかったんじゃない?」
「……私が一人で作れるわけないじゃない。それに、部屋中にチョコレートの匂いが漂ってたらすぐバレちゃうでしょ?」
「ここで作っても服とか髪に匂いつくんじゃない?」
「……そこまで考えてなかった!やだ!帰ったらすぐお風呂入らなきゃ!」
 今も部屋とダイニングキッチンを隔てるドアの向こうから甘い香りが漂ってきている状態で、染みついた匂いが消える前に鼻が慣れてしまって匂いを感じなく なるだろう。すると、自分では気付いていないがそれまで一緒にいなかった人は甘い匂いをかぎ取る、といった事態が起こりうるわけで、完璧な隠蔽を謀るなら ば帰宅後すぐの入浴と衣服の消臭は絶対条件だろう。
 櫻花は、同居している家族に内緒に事を運ぶというのは色々と大変なのだなあと、正に他人事のように考えてはその苦労が報われるよう手助けしようと思うの だった。
「ねえ、今度は櫻花がうちに遊びに来てよ?」
「もちろん。でも新婚家庭にお邪魔するのは気が引けるのよね」
「今更じゃない。あっ、そうだ、じゃあこうしましょ。今度うちに来る時は課長と一緒に、ってことで」
「ええっ!?そんなの無理だよ!」
「じゃあ何のために課長にチョコ渡すのよ」
「それは、まあ、なんていうか……」
「春は桜が綺麗なのよねぇ」
「うん」
「夏は花火がよく見えるわよねぇ」
「……そうね」
「櫻花と一緒に料理作ったり、お酒飲んだり、そのまま寝ちゃったりしたいわねぇ」
「……もう!プレッシャーかけないでよ!」
「あはは!」
 そんなことを話しているうちに時間は過ぎ、冷やしていたチョコレートを確認するといい具合に固まっていた。
 それらを全て味見し、それぞれ一番だと納得したものを来週末本番用として作るのだが、その“一番”をなかなか決められない。
 ああでもない、こうでもないと二人で散々悩んだ挙げ句、ようやくこれというものを選び出した。ラッピングは来週末までに各自用意することにして、今日の ところはこれで解散となった。
「じゃあ、また来週!」
「うん、またね。って言っても会社でも会うんだけどね」
「こういうのは雰囲気が大事だからね。櫻花、今日は本当にありがとね」
「ううん、いいの。私も楽しかったし。気をつけて帰ってね」
 尚美が乗ったタクシーが見えなくなるまで見送ると、櫻花は急いで部屋へ戻る。ドアを開けた瞬間、チョコレートの甘い匂いが漂ってきて、確かにこれでは家 で内緒で作るというのは難しいなというのがよく判る。この先、自分が尚美のような幸せな悩みを抱える日が来るのだろうか、と考えるとその見通しは真っ暗で 悲しくなるが、それよりも今は目の前に残された試作品たちの処理、本番用のラッピング、そして渡し方などなど、どうすればいいのか考えなければならない問 題が山積みで、まずはそれらをクリアしていくことだけに意識を集中させる。
 とりあえず試作品を冷蔵庫に仕舞い、ついでに冷蔵庫をチェックして夕飯のおかずを決めると、部屋に戻って一冊のノートを取り出した。
 櫻花は絵が得意だというわけではないが、企画のネタ出しをする際にこうして紙に向かって自由にスケッチするという方法をとっていた。拙い絵や抽象的な言 葉の羅列、時には写真を貼り付けたりもして、とても他人には見せられないものが沢山詰まったノートだが、櫻花にとっては宝物である。
 入社以来その方式を採用しているため、今のノートでもう三十冊にはなるだろう。最初は全部取っておいたのだが、そのうち置き場所に困るようになり、最近 では一冊使い終わったらそれを全ページスキャンしてパソコンに取り込むようにしていた。
 時折過去のページを見返して新たな着想を得ることもあるのだが、今回は仕事ではないためそういうことはせず、ただなんとなく頭に浮かんできたものを片っ 端からノートに描いていった。
 そうして作業に集中しているうちにあっという間に夜を迎え、今日のところはここまでと筆を置く。あっという間に案が出ることもあれば、何日かかってもう まくまとまらない場合もあるのだが、今回はどうやら後者のようだったので早々に切り上げることにしたのだ。
 冷蔵庫の残り物で夕食を作り、明日は買い出しに行かないといけないなあ、などと考えながら風呂に浸かり、いつものように髪のケアをしながらCS放送の紀 行番組を見ては旅行気分を満喫し、早々にベッドに潜り込めば途端にまぶたが重くなる。
 気付いた時にはもう翌朝で、櫻花はいつもながら己の寝付きの良さに呆れるばかり。
 そこからの時間の進み方は正に光陰矢のごとしといった感じで、あっという間に過ぎていき、二度目のチョコレート作りの日を経て、バレンタインデー当日が やってきた。