如月│04
朝から若干浮ついた空気が流れる中、櫻花と尚美は連れ立って社員食堂に来ていた。手にはそれぞれ小さな紙袋をぶら下げている。
「いやぁ、今日は朝からどこもかしこも甘ったるいわね」
トレイを手にした尚美が苦笑する。どうやら尚美の在籍する総務課でも何やら甘いやり取りがあったようだ。
「ま、私達もそれに便乗するんだけどね!」
空席を見つけてそこに座ると、早速紙袋を差し出した。以前約束していた友チョコの交換である。
「私、今までで一番悩んで買ったわ」
尚美が最近チョコレートを渡していた相手は彼女の夫なわけだが、そんな人に渡す物より悩んだと言われてしまい、櫻花は嬉しいやら困惑するやら。自分が選
んで買ってきた紙袋をそっと差し出すが、果たして友人が悩みに悩んだ末に選んでくれた物と釣り合うのだろうか、と急に心配になった。
価格を決めてやっていることなので、その点に関しては何の不安もなかった。櫻花が心配しているのは、センスの問題だ。普段から質の良い物に囲まれて生活
している友人と、ごく平凡な生活をしている自分とでは何か決定的な差が出るのではないだろうか、と考えてしまっているのだ。
尚美とて元々そういう暮らしをしていた訳ではなく、たまたま今の夫と結婚したからそういう生活になったというだけであり、そういったセンスが磨かれてい
くのはこれからの話だというのも、もちろん理解している。とはいえ、自分に縁の無い世界の住人に対する問答無用の畏怖というのはいかんともしがたいもの。
櫻花は、尚美がどんな反応をするか気が気ではなかったが、まず先に昼食を済ませてから開けようという話になり、ひとまずそのことは思案の外に置くことに
した。
今日の昼食は、櫻花はオムライスと小鉢を二つ、尚美はラーメンとこちらも小鉢を二つ。フォーワーズの社食で出されるラーメンは昔ながらの中華そばという
感じのもので、たまにどうしても食べたくなる中毒性のある懐かしい味をしている。“人が食べているのを見ると食べたくなるの法則”とでも言おうか、櫻花は
「明日はラーメンにしよう」と心の中で思いながら、自分のオムライスにスプーンを入れる。こちらはなぜか今風のとろふわタイプで、デミグラスソースまでか
かっているという代物だ。
そして話題は、それぞれどうやってこのチョコレートを選んだか、というもの。
「やっぱり、櫻花には桜が似合うと思うのよ。でもなかなかこれ!っていうものが無くてさー」
「そうなの?」
「うん。それでもまあ、なんとか頑張って探し出したよ!どんな感じかは、開けてからのお楽しみ」
「うん、ありがとう。私はね、尚ちゃんといえば薔薇かなって思って」
「ええー?私そんな?」
「そんなよ。なんていうかこう、華やかで、優雅で、でも繊細で」
「やだ!褒めても何も出ないわよ!?」
「だって、本当にそう思ってるんだもん。それでね、そんな尚ちゃんにぴったりな感じのを見つけたので、それを買ってみたの」
お互い似たような視点で友チョコを探していたことを知り、櫻花は心の奥が少しくすぐったくなるのを感じた。また来年もやりたいな、などと考えている自分
に気付き、更に気恥ずかしさが増す。
紅潮した頬を誤魔化すようにオムライスを口に運ぶと、とろりとした卵、昔ながらのチキンライス、少しビターなデミグラスソースが溶け合った絶妙なバラン
スに思わず唸り声をあげそうになる。
そこからは急いで食事を終わらせ、お楽しみのチョコレートの開封の儀に取りかかる。
綺麗にラッピングされたリボンと包装を慎重に剥がしていき、緊張しながら箱を開ける。
「うわあ!」
「綺麗……」
二人同時に声を上げる。
櫻花が貰ったのは、桜がプリントされたものや花びらをかたどったものなどが入っている可愛らしい物で、箱の色もピンク、リボンも凝った桜の切り絵が幾重
にも重ねられていて、紙袋も当然桜色。
ここまで桜づくしだとは思っておらず、櫻花はよくこんな物を探し出してくれた、という感謝の気持ちでいっぱいだった。
一方の尚美が貰ったのは、ピンクのチョコレートで作られた花びらを、一枚一枚重ねていって一輪の薔薇に仕上げているもの。こちらの箱はシンプルな丸形
で、蓋に赤いリボンが貼り付けてある。開けた瞬間ほのかにローズの香りが漂い、まるで本物の薔薇のように見える優雅さだ。
櫻花も尚美もしばらく声を出せずにいたが、今自分達がどこにいるのかを思い出したらしく、慌ててスマホを取り出しチョコレートを写真に納め、それぞれひ
とつだけ、食後のデザートとして口に放り込んだ。
甘く蕩けていくのを堪能しながら、残りは仕事の合間に食べようと蓋をする。
「まさかこんな素敵なチョコを貰えるとは思ってなかったよ。尚ちゃん、ありがとう」
「こちらこそ。探せばあるもんなんだな、って自分でもびっくりしたわよ」
「私もよ。千円プラスマイナス百円の範囲内で、と決めていたから見つかるかどうか不安だったのよね」
「その割にはゴージャスな薔薇チョコよねぇ、これ。千円って言っても馬鹿にできないわね」
ひとしきりささやかな贅沢――自分では買えないが貰うと嬉しい物――を満喫すると、次に気になるのは件の手作りチョコの行方である。
櫻花は、尚美に「もう渡したのか」と小声で訊かれ、黙って首を横に振る。とてもそんな雰囲気ではなかったのだ。フロア全体が朝から浮き足立っている上に
人の動きに敏感といった感じで、特に女性社員が動くと見えないはずの視線が集中するのが見えるような有様だった。
だからと言って仕事がおろそかになっている訳ではなく、隣の営業課のデスクは始業から一時間もすれば半数以上が空になっていた。外回りのついでに得意先
にチョコを配るとかで資料等の他にも大きな紙袋を持っていて、いつも以上に張り切っているメンバーも多かった。
そんな彼らも出がけに「義理でもいいからチョコが欲しい」とおねだりして行くのを忘れず、営業部の女性陣は営業課・企画課合同で午後から作戦会議を開く
ことになっている。
こんな仕事でもないことに注力しては怒られそうなものなのだが、藤田部長直々に「モチベーションが上がるみたいなんで、なんとかしてやって」と言われて
しまったので逃げようがないのだ。当然ながら来月にお返しをさせることを約束しているあたり、女性はしたたかである。
そんな事情もあって渡すに渡せていないのだ、と尚美に説明すると、営業部の緩い空気を羨ましがられてしまった。そしてこの状況を逆手に取るように言われ
る。
「でもそれってチャンスじゃない」
「そう?」
「皆から、って渡すついでにこっそり自分のも紛れ込ませるのよ」
「……尚ちゃん天才ね!」
まるで子供の悪巧みのような提案にすっかり魅せられ、作戦会議の時にはあれこれ理由をつけて立候補しようと目論んでいる所へ、もうお馴染みになってし
まった声が聞こえてきた。
櫻花は、そちらを見ないようにしながら耳だけを傾ける。すると今日はいつものように自信に満ちた物言いではなく、どこか不安げでボソボソと声量も小さ
い。そんな小声がどうして聞こえるのか、とつい辺りを見回すと、櫻花の斜め後ろのテーブルに岡崎が座っていて、簑田京子はその横に立っていたのだ。
「岡崎課長、これ、受け取って下さい」
「ありがとう。だが簑田の気持ちには答えてやれないぞ?」
「……っ、どうしてですか」
「それはこんな所で言うことじゃない」
「じゃあ、どんな所ならきちんと理由を説明してくれるんですか」
「そうだな……じゃあ終業後、ここで」
「なら今言って下さい」
「こんな公衆の面前で言ってもいいのか?」
「……わかりました。でもこれは受け取って下さい」
「ああ。有り難く頂戴する」
そんな会話を全て耳にしてしまった櫻花は、心中穏やかではなかった。それはライバルが先んじてチョコレートを渡したからというわけではない。二人の会話
が丸聞こえだったからだ。
二人は普通の音量で話していたにも関わらず、その内容は全てこちらに聞こえてきてしまっていたのだ。ということは、先ほど尚美と「こっそり自分のを紛れ
こませる」などと話していたのも向こうに聞こえていた可能性があるのだ。
櫻花の背中に冷たい汗が流れる。みるみる青ざめていく顔に気付いた尚美がどうしたのか訊ねようと口を開きかけたその時、横を通り過ぎようとした原に声を
掛けられた。
「あっ、篠塚さん、そのチョコどうしたの?」
そう言いながら持っているトレイには、空の食器と明らかに高級そうなラッピングの小箱がうず高く積まれている。どうやら原はちゃらんぽらんに見えるのに
結構モテるようだ。
「いやあ、毎年家族が楽しみにしてるから、断れないんだよねー」
などと、贈り主が聞いたら怒りそうなことを平気で口にする。
「あ、ちゃんと家族の腹に入ると断り入れてるからね?西本さん、顔が怖い」
「それならいいんですけど。櫻花と私のは、友チョコです。この子がバレンタインに参加してみたい、なんて可愛いこと言うもんだから、予算を決めて交換した
んです」
「へぇ、じゃああの時俺と中畑さんが激論してたのに触発されたのかな?」
「そう……ですね。はい、そうです」
本当は他に動機があるなんて言えるはずもない櫻花は、なんとかその場を誤魔化そうと原の言葉に乗っかることにした。
ふうん、と返事をした原の目は何か言いたげだったが、一転、きらりと輝かせ何かを思いついたといった顔をして櫻花の隣の席に腰を下ろしてしまう。
突然のことに驚く二人だったが、相手は先輩でもあり上役でもあるため無下にもできない。時間が許す限りは彼の話に付き合うしかなさそうだった。
「俺も毎年家族に渡してるんだけどさ、さすがにそろそろネタ切れになっちゃってね。今年はなんとか無い知恵絞って考えたんだけど、来年以降の参考に二人が
交換したチョコを見せてもらってもいいかな?」
それを聞いた櫻花と尚美は、何を言われるかと身構えていたのが馬鹿らしくなってしまった。まさか男性である原が毎年家族にチョコレートを渡しているとは
思いもせず、その参考にされるのなら喜んで、とばかりに先ほど閉じた蓋を開いて見せる。
二人とも自分の選択に自信を持っていて、また、貰った物を自慢したい気持ちも少なからずあったため、それぞれ手にしたチョコの素晴らしさについて熱弁を
振るう。
「君たち、本当面白いねぇ。でもそうか、相手が欲しがりそうな物じゃなく、相手を象徴するような物、かぁ。勉強になったよ」
原は心底感心したように何度も頷いている。そして満足したのか、席を立ってひらりと手を振り食器返却口へと歩いて行った。あの大量の小箱達をどうやって
持って帰るのだろうと気になった二人が見ていると、上着のポケットから折りたたみのエコバッグを取り出してそこにポイポイと放り込んでいく。
自分では食べないと丁寧に断りを入れ品物の扱いは雑、というのが原らしくて櫻花と尚美は顔を見合わせて吹き出した。
「なんか原主任らしいっていうかなんていうか」
「でも、あそこまではっきりされたら恨めないよね」
「そうよね。でもまさか、ご家族にチョコを買って渡していたなんて」
「あの人まだ独身よね?ってことは、渡す相手はお母さん?ちょっとマザコンぽいわね」
「ああ、それならたぶん違うわよ」
「そうなの?」
「うん。尚ちゃんの前でこういう話をしたってことは言ってもいいってことだから言うんだけど、実は原主任って……」
櫻花が話を続けようとしたその時、昼休憩終了十分前の合図が流れた。のんびりお喋りをしている間にかなり時間が過ぎていたようだ。二人は急いで席を立
ち、食器返却口へ向かう。その際櫻花がチラリと視線を巡らせると、岡崎の姿はもうなかった。
先ほどの話を聞かれてしまったのではないかという不安が再び押し寄せてきて、いっそこのまま帰ってしまいたくなる。もちろんそんなことできるはずもな
く、尚美と別れると重い足を引きずって企画課のフロアへと戻れば、女性社員達が手ぐすね引いて待っていた。
会議室で作戦会議という名のチョコレート談義に花を咲かせた結果、やはり櫻花が買い出しと配布を担うことになった。
課長、部長には少し――と言ってもほんの気持ち程度だが――値の張るものにして、後の社員には皆同じ物を用意することになった。銘柄も商品も全て指定さ
れているので、櫻花の仕事は数を間違えないように買ってくるだけだ。
小さくて軽い物でも数が多ければそれなりにかさばるし重さも出てくる。日頃の運動不足のせいか、駅前にあるデパートまでの往復がやけに辛かった。
櫻花がそんな思いをしてフロアに戻ると、エサを待つひな鳥が如く男性社員達が群がった。
「待ってたよ、篠塚さん!」
「俺にもお慈悲を!」
「ああ、これで友達に馬鹿にされずに済む!」
「いや、それはどうなんだ?って俺もだけどな」
皆口々にそう言いながら、渡される義理チョコを有り難げに受け取っては戻って行く。その様がまるで餌付けをしているようで、櫻花は少し楽しくなってき
た。
外回りでいない社員のデスクにも配っていき、残るは部長課長の四人分だけだ。全員会議で出払っているため、ひとまず席に戻って一息つく。さすがにその四
人の分は黙って置いておくわけにもいかず、「営業部女性社員一同より」と書いた付箋を箱に貼り付けていく。そして再び紙袋に仕舞うと、一緒に自分で持って
きた箱も忍ばせる。
まずは岡崎のデスクに向かう。自分の課の上司から配ることに不信感を持たれることはないだろう、という考えからだが、櫻花の心臓は尋常ではない速さで鼓
動を刻んでいた。
付箋をはりつけた箱をデスクに置くと、足下の紙袋に自分が用意したチョコレートをそっと紛れ込ませる。そこには簑田京子やその他女性社員達から貰ったで
あろう色とりどりの箱が仕舞われており、ひとつぐらい箱が増えたところでそう簡単には気付かれそうになかった。
ただ一言「好きです」と万感の想いを込めて綴った小さなメッセージカードも入れてあるが、敢えて名前は書いていない。先月あんなことがあった後で、どの
面を下げて告白などできようか、と最後に怖じ気づいてしまったのだ。
いつまでもここでぐずぐずしていると怪しい動きがバレてしまう。櫻花は何食わぬ顔をして営業課のスペースへ向かい、営業一課の王課長、二課の牧野課長、
部長の藤田のデスクにもそれぞれチョコを配っていく。
大仕事を終えてどっと疲れが襲ってくるが、終業時間までまだ二時間ほど残されている。
櫻花はここぞとばかりに何も考えなくて済む資料整理に精を出し、定時と同時に退社した。
岡崎は定時になっても戻って来ず、簑田と約束していた終業後の話し合いもどうなったか判らないままだ。だが、櫻花はそれでいいと思った。あの時岡崎は
「簑田の気持ちには答えられない」とはっきり断っていたのを聞いたし、その理由を知ったところで自分には何の利もないのだ、と結論づけたのだ。
きちんと正面からぶつかって断られた簑田に比べたら、こっそり他のチョコに紛れるよう置いてきた自分が情けなくて、彼女へ抱いていた様々な負の感情が
すっかり消えてなくなってしまっていた。きっと彼女はそれだけの努力をして、その裏付けがあったからこそのあの自信だったのだ、と今にして思うのだ。
櫻花は、それでも一応目的は果たせたし、何より今回のこの件は自己満足のためのものだから認識してもらわなくてもいいし、それに他の女性社員もデスクに
置いて行っていたし……などと無理矢理頭を切り替えることにした。
家に帰れば渡したチョコの残りが冷蔵庫に鎮座しているが、今はそのことは考えないようにして、甘ったるい雰囲気漂う街を足早に駅へ向かった。
会議が長引き、その上社員食堂で簑田にその気持ちに答えられない理由を説明していたため定時をとうに過ぎてから自分のデスクに戻った岡崎は、チョコレー
トの箱で築かれた小山に少しうんざりとした目を向けた。甘い物が得意なわけでもないのに、この量を消費するのはかなり骨が折れそうだ。
少しぐらい嫌味を言われるのを覚悟して母親に押し付けてしまおう、と軽く溜め息を零しながら足元に隠しておいた紙袋にその小山を仕舞おうとした時、ふと
した違和感を覚えた。この紙袋には直接受け取った物を入れておいたのだが、見覚えのない箱が入っていたのだ。
得体の知れない物だと困ると思い、とりあえずそれを取り出し横に置いておく。そしてデスクで山をなしている箱全てに差出人の名前が書かれた付箋が貼って
あるのを不思議に思いながらも、ひとつひとつ確認しながら紙袋に仕舞っていく。すると一番下に「営業部女性社員一同より」という付箋の貼ってある箱が出て
きた。
その見慣れた文字が書かれた付箋がこの現象の原因だと気付き、岡崎は思わず笑みを零した。そして横に置いておいた見知らぬ箱を改めようと手に取ると、小
さなメッセージカードが添えてあることに気付いた。
恐らく差出人の名前が記されているのだろう、と何気なくそれを開き、今度は息を呑んだ。
綺麗な群青色のインクで書かれた文字は万年筆で書かれたもののようで、所々で色の濃淡が出ていてとても美しい。そして、そこに書かれているたった四文字
が、岡崎の心を鷲掴みにして揺さぶってくる。
しばし呆然とした後はっと我に返り、メッセージカードを元に戻すとその箱は紙袋ではなく通勤用の鞄にそっと仕舞い込む。
深く大きな溜め息を吐くと、一連の不審な動きを見咎められていないかと顔を上げるが、幸いなことに部下達は皆退勤しており、先程まで会議で一緒だった上
司と営業課の課長二人もそれぞれ帰宅の準備をしていて、こちらを気にしている様子はない。
これ以上ここにいてはボロを出すと考え、岡崎は急いでデスクを片付けコートを引っ掛けると「お先に失礼します」と一言残してフロアを後にした。
紙袋とビジネスバッグを重ね持つ手に、知らず知らず力が入る。いつもはそう遠くない自宅までの道のりが、今日はやけに遠く感じるのは鞄に入った小箱のせ
いだろう。
一時緩んだ寒さがぶり返していて、刺すような冷たい風が顔を撫でていく。だが岡崎はそんなことにも気付かないまま、前方に見えてきた自宅の庭の木々に逸
る気持ちを抑えられずにいた。