春の日再び│01


 三月に入り気温が高くなるにつれ、春の訪れを間近に感じるようになってきた。
 先月のバレンタイン以降、岡崎にこれといった変化が見られなかったため、櫻花はやはりあれでは気付かれなかったか、と落胆する一方で少しほっとしてもい た。そして日が経つごとに、この話はもう終わったものとして心の整理を始めていた。
 そして迎えた三月十四日。
 朝から営業部の男性社員達に、安い義理チョコのお返しとして飴やらクッキーやらのお菓子を貰い、女性社員達はほくほく顔だ。中でも課長部長の四人からは 高品質なお返しを貰え、これなら来年もあげようかなどと冗談が飛び交っている。
 もちろん櫻花も岡崎からお返しを貰ったが、それは部の女性全員から、という前提で渡したものへのお返しだ。そのことに多少の寂しさを感じるものの、あれ から一ヶ月が経過して随分と気持ちも落ち着いてきていたので、それほど悲しいとは思わなかった。
 それに、自分にはこれがある――。
 お返しの入った紙袋を手にフロアを出て行く岡崎の後ろ姿を見ながら、そっと胸元に手をやる。実は、去年貰った指輪をチェーンに通し、ネックレスにして肌 身離さず着けているのだ。その時点で気持ちの整理も何もないのだが、櫻花としてはこの指輪があるというだけで満足してしまっているという節もあった。
 お返しのお菓子達に囲まれて幸せ気分で仕事をしていたが、三月半ばということは年度末も近いということ。締め切りの近いものから順に片付けているうちに 定時が訪れ、今日中に処理してしまいたい仕事を残業して終わらせることになった。
 さすがに時期が時期ということで定時後も残って仕事をしている人も多くいたが、次第にその数も一人減り二人減り、一段落して周囲を見回した時にはもう人 影は残っていなかった。
「思ったより時間がかかっちゃったな」
 うーん、と伸びをしながら誰もいないフロアで独り言を漏らしたその時、ドアが開いて岡崎がどこかから戻って来た。自分一人だと思って思い切り気を抜いて いた櫻花は、椅子から転げ落ちるのではないかと思うほど慌てふためき、なんとか取り繕おうとしたもののそれが失敗に終わったのを知る。岡崎に笑われたの だ。それも、盛大に。
「……そんなに笑わなくてもいいと思います」
「ああ、悪い。あまりに慌ててたから、つい。それで?仕事はもう終わったのか?」
 まだ若干肩を揺らしながらそう問われ、櫻花はやや憮然としてはい、と答えた。
 最初は「なにもそこまで笑わなくても」と唇を尖らせていたのだが、よく考えたらこんなに大笑いしている岡崎を見るのは初めてのことで、ある意味貴重な姿 を見ることができたのでそれでよしと思うことにした。
 気を取り直して帰り支度を始めた櫻花が、いざ帰ろうと鞄を手にした所で再び声を掛けられた。
「篠塚、この後用事は?」
「いえ、特にありませんが……」
「じゃあ飯でも食って帰ろう」
 食事に誘われ、櫻花は動揺を隠せないでいた。これには深い意味があるのか、それともただ単に同じタイミングで退勤する部下をねぎらうためなのか、その意 図が見えないのだ。
 これが何でもない日なら、迷わず後者だと思えただろう。だが今日はホワイトデーなのだ。いくらこの一ヶ月、何のリアクションもなかったからと言っても、 淡い期待を抱いてしまうのは仕方のないことだった。
 散々悩んだ末、櫻花はその誘いに乗ることにした。何か意味があってもなくても、気にしなければいいじゃないか、と開き直ったのだ。
 岡崎に連れられて到着した店は、昨年クリスマスの際に訪れた洋食店だった。今日は前回のように席は埋まっておらず、どこでも好きな所に座るよう告げられ た。
 一番奥のテーブル席に陣取ると、まずは食事を注文する。櫻花はポークチャップ定食を、岡崎は和風ハンバーグ定食を。それぞれ飲み物も頼み終わると、気ま ずい空気が漂い始める。なんと言っても、こうして二人で食事をするのは一月に岡崎の実家へ行った帰り以来なのだ。
 先にこの重い沈黙を破ったのは岡崎だった。
「これを」
 と言っておもむろに細長い箱をビジネスバッグから取り出し、櫻花の前へ差し出した。
「ええと……」
「受け取ってくれ」
「でも、貰う理由がありませんよ」
「それ、大事にしてくれているだろ」
 なかなか受け取ろうとしない櫻花に、岡崎はちょいちょい、と自分の胸元を指さしながらそう言った。
 その言葉に櫻花は驚き、つい自分の胸元を両手で隠してしまった。
「ご存知だったんですか!?」
「まあ、なんとなく、な。どうせならこれに通しておいて欲しい」
「……そういうことでしたら、有り難く頂戴いたします」
 櫻花は、未練がましい所業を知られてしまい、恥ずかしさで顔どころか首まで真っ赤に染めながら、これ以上は断ることも出来ないと思い受け取ることにし た。
 開けてみればそれは指輪と同じくカルティエの、ホワイトゴールドのチェーンネックレスだった。今自分が着けている物と比べると確実にゼロがひとつ多いで あろう代物に、つい先ほど受け取ると決めた気持ちが揺らいだ。
「こんな高そうなもの頂けません!」
「さっき『有り難く頂戴いたします』って言ったのは嘘だったのか」
「それは……」
 岡崎にとんだ揚げ足を取られて二の句が継げないままでいる所へ、いかにも美味しそうな匂いを漂わせて料理が運ばれてきた。
 貰え貰えないの押し問答はひとまず棚上げにして、料理が冷める前に食べることにした。
 櫻花が頼んだポークチャップは、食べやすいようあらかじめ切り分けられており、なるほどこれは箸で食べられる定食だ、と納得した。
 昔懐かしい味を存分に味わったら、今度こそこのネックレスについてきちんと話し合う時間だ。食後のコーヒーが運ばれてきて、櫻花は砂糖とミルクをたっぷ りと入れる。
「で、これは受け取ってくれるんだろう?」
 ブラックのままコーヒーに口をつけた岡崎が、弱り切った顔をして箱を差し出した。もうこれで何度目か、またしても上司が普段見せない顔を見てしまった櫻 花は、これ以上頑なに断ることも出来ずとうとう受け取ってしまった。
 それを見てあからさまにほっとした表情をする岡崎に、というより、目の前のネックレスを含めたこの状況に、櫻花はあらぬ期待を抱いてしまいそうになり、 食事の誘いを受ける時に「気にしない」と開き直ったではないか、と慌ててその考えを振り払う。
 一方岡崎はと言うと、櫻花がネックレスを受け取ったことで気が緩んだのか、同時に口も緩んだようでついポロリと一言漏らしてしまい、それが事態を急転さ せることになった。
「できれば指輪はずっと指にはめておいて欲しいけど、無理強いできねぇしな……」
「えっ!?それってどういう……」
「あっ、いや、悪い。その、……声に出てた、か?」
「はい」
「あー……、その、なんだ」
 一体どういう意味なのだろうといった顔の櫻花にじっと見つめられ、岡崎は目を瞑りふぅ、と一息吐くと櫻花の目を真っすぐ見つめ返して言った。
「今度は彼女のフリじゃなくて、本物の彼女になって欲しい」
 確かに淡い期待を抱いてしまったとはいえ、すぐさまそれを振り払ったばかりだというのに、今聞こえたのは幻聴かなにかだろうか。それとも自分に都合の良 い妄想か、幻想か、白昼夢かと現実逃避をしてみたものの、相変わらず目の前には岡崎が座ってこちらを見ているし、目を逸らして下を見れば自分で砂糖とミル クをたっぷり入れたコーヒーがほぼ手つかずで残されている。
 櫻花は気持ちを落ち着かせるようにコーヒーを一口飲むと、喉から声を絞り出した。
「でも私」
「このチョコレート、篠塚がくれたんだろう?」
 岡崎は否定はさせないと言わんばかりに言葉尻に重ねると、スマホを差し出し写真を見せた。そこに写っていたのは、見間違えるはずもない、櫻花が手作りし たチョコレートだった。
「なんで判ったんですか?」
 恐る恐る櫻花が問うと、岡崎は笑いながらそれに答えた。
「メッセージカード」
「え?」
「文字を見れば判るに決まってるだろう。俺を誰だと思っている?」
「ああ……!」
 櫻花は顔から火が出るのではないかと思うぐらい恥ずかしくてたまらなかった。ペーパーレス化が進んでいても全ての紙がなくなったわけではないのと同じ で、パソコンで作った物が主体になっているとはいえ手書きの書類を提出することもあるのだ。
 櫻花は自分で自分を疑い始めた。どうしてそんな簡単なことに頭が回らなかったのかも判らないし、本当に気付かれないと思っていたのかすら怪しく思えてき たのだ。それでなければ何のリアクションもないことに対して落胆するはずもないのだから。
 そんな自分勝手な思いに落ち込んでいる櫻花に、岡崎が面白そうに言う。
「簡潔だが熱烈なラブレターを貰ったのに、返事をしないわけにはいかないだろう」
 バチン、とウィンクをされ、こんなことをごく自然にやってしまう人を見るのも初めてだし、この話を受けるとして、こんな人を相手にして果たしてやって行 けるのかと心配になってくる。終いには、先程あれだけ狼狽えていたのはこちらを油断させるための演技だったのではないか、とまで思えてくる始末。
 それでも櫻花には、この与えられた最大のチャンスを逃すという道は選択できなかった。
「私でいいんですか?」
「篠塚こそ俺でいいのか?家での姿を見ただろう?」
「どんな課長も好きです」
「……そうか」
 勢いに任せて恥ずかしい告白をしている自覚はあったが、もうこの際だからと思っていることをぶちまけてしまうことにした。
「私にもああいう話し方をしてくれますか?」
 口調が違うことなど些細なことだが、親しい仲でこその姿だと思った櫻花にとって、それはとても重大なことだった。
「篠塚が望むならば。その前に……」
「はい?」
「その首にぶら下げている物をこっちへ」
 櫻花は言われるがままにネックレスを外して岡崎に渡した。新しい物に付け替えるのかと思いきや、左手を出せという言葉にその行動の意味を理解した。
 恥ずかしさと嬉しさに震えながらおずおずと左手を差し出すと、岡崎はネックレスから外した指輪を櫻花の薬指にはめ、満面の笑みを浮かべた。
「やっぱりよく似合う」
「ありがとうございます」
 まるで結婚式のようだと、一人心の中で悶絶している櫻花に、岡崎が追い討ちをかけるように言い放つ。
「明日からは会社にもつけてくるように」
 岡崎の両手に取られて未だ自由にならない左手を見て、段々大それたことをしているのではないかという気になってきた。何と言っても相手は社内でも人気の 高い岡崎である。そのことは先月、嫌というほど目にしたというのに、嬉しさのあまりすっかり忘れてしまっていたのだ。
 営業部女性一同からの物及び自分のチョコレートを置いた後、終業時間までの間に一体何人の女性社員達が岡崎のデスクを訪れたことだろう。会議で離席して いるのを判っているのにわざわざ訪ねてくるということは、全員が本命チョコを置いていったということに他ならない。
 特に、終業直後にわらわらと集まった彼女達の、同じ目的の他の女性社員と鉢合わせをした時の険悪な空気は筆舌に尽くし難いものがあった。あれが我が身に 降り掛かるのはとても困るし、何より簑田京子という強烈な人物に敵視されることになるのは回避したい。
 なかなかうん、と言わない櫻花に、岡崎がひとつ提案をした。
「俺に貰ったと言わなきゃ大丈夫だろ」
「でも絶対誰に貰ったんだってつっこまれますよ?」
「そこは彼氏に貰ったって言ってくれよ」
「彼氏、ですか……」
「なんだ、不服か?」
「……ちょっと恥ずかしいだけです」
 本当はちょっとどころではなく恥ずかしいが、同時に嬉しさも沸き上ってなんだか心の奥がこそばゆい。
「まあ、いずれ時期が来たら明かせばいいけど、今は黙っておく方が得策だろうなあ。面倒な奴らがちらほらいるし」
「はい。私もそうしてもらえると有難いです」
 岡崎が言うところの面倒な奴らというのが誰のことなのかは判らないが、明日からの方針も一致して櫻花はほっと胸を撫で下ろす。
「じゃあ、とりあえずこれ飲んじまおう」
「そうですね」
 放置しすぎてとうに冷めてしまったコーヒーを一気に流し込み、櫻花は化粧直しのために席を立った。前回のこともあり「私もお金払いますからね」と念を押 して行ったが、岡崎にはそんなものを聞いてやる義理もない。さっさと会計を済ませると、何事もなかったかのような顔をして櫻花が戻ってくるのを待ってい た。
「あっ、また!私も払うって言いましたよね!?」
 ぷりぷりと怒っている櫻花の背中を押して店を出ると、岡崎はその右手を取って歩き始めた。突然のことで驚き声も出せないでいる櫻花を横目で見てくすりと 笑う。笑われた方の櫻花はと言うと、恥ずかしさに耳まで真っ赤にして俯いてしまった。
 ずっと裏道を歩いているせいか人通りはほとんどなく、二人の足音がやけに大きく聞こえる。そこへぽつりぽつりと交わされる会話が重なり、正に二人だけの 世界に浸っていた。
 ところが、煌々と明るい駅が近づくにつれ、その雰囲気は徐々に薄れてきてしまう。そんな時、岡崎がはたと足を止めた。手を繋いでいる櫻花もそれに倣う と、一体何事かと右隣にいる美丈夫を見上げた。
 次の瞬間、街灯の明かりが翳ったと思ったら唇に柔らかいものが触れた。それはほんの一瞬の出来事だったが、ほんのり漂うムスクの残り香が夢ではないと告 げていた。
 櫻花の心臓は破けんばかりに鼓動していたが、決してそれを嫌だとは思わなかった。
「悪い。可愛くて、つい」
 悪びれもせずそう言った岡崎は、繋いでいた手を放すと櫻花の艶やかな髪を撫でては目を細めてうっとりとしている。
「名残惜しいけど、ここまでな。こっから先は誰が見てるか判んねえし。ちゃんと駅に着くかここで見てっから、お前はもう行け。振り返ったり手ぇ振ったりし なくていいからな?」
 名残惜しいのは櫻花も同じだが、いつまでもここでこうしているわけにもいかない。髪を撫でてくれる大きな手の温もりが離れてしまうのは寂しいが、早く帰 らなければ明日の仕事にも影響しかねない。
「家に着いたらメールしろよ?」
「はい」
「何かあったらすぐ電話しろ」
「はい」
「じゃあ、また明日な」
「はい。また明日」
「ほら、もう行け」
「はい」
 櫻花は文字通り後ろ髪を引かれながら、駅に向かって歩きだす。早足で歩いてゆき駅まで到着したところで、振り向いてぺこりと頭を下げた。暗い裏路地のど こに岡崎が立っているのかは見えなかったが、きっと向こうからは見えていることだろう。そう信じてのことだった。
 家に帰り着くまで、時折左手に視線をやってはにやにやと頬を緩ませる。傍から見たら完全に変な人だろうという自覚はあるが、今日ぐらいは許して欲しいと 思うのだ。
 無事家に到着し、手洗いとうがいだけしてスマホを前に正座をする。早くメールを送らなければと思うのだが、一体どんな文面にすれば良いか解らず、ああで もないこうでもないと悩んでいるうちに足が痺れてきてしまった。
 あまり遅くなっても心配をかけてしまうし、とりあえず業務連絡をする気持ちで、と自分に言い聞かせてぽつぽつと文章を入力していく。
『さきほど家に着きました。今日は本当にありがとうございました。まだ色々と信じられない気持ちでいっぱいです。明日の朝になったら全部夢だった、なんて ことがないよう祈りながら寝ようと思います。おやすみなさい』
 色気も何もないが、これが今の櫻花に書けるる精一杯の内容だった。
 恋人への初メールという大仕事を終えてぐったりするが、もういい時間である。まだ着替えも終えていないし、さっさと風呂に入って寝なければならない。
 バタバタと急いで入浴を済ませ、寝間着に着替えると髪の手入れをする。その時になってようやくスマホがチカチカと光っていることに気がついた。
 ドキドキしながら開くと、やはりそれは岡崎からの返信だった。
『無事に着いたみたいで良かった。俺の方こそ夢じゃないかって、あれから何度もほっぺたつねっていい加減真っ赤になってる。だから、これが夢じゃないって 証明するために、また明日から櫻花が淹れるお茶が飲みたい。もちろん、無理にとは言わないけど。じゃあ、早く寝るんだぞ。おやすみ』
 何度も何度もそれを読み返し、布団に潜り込んでからも一向に眠くなる気配を感じない。目を瞑れば別れ際のキスを思い出し、目を開ければ何気なく名前を呼 ばれたメールの文面が浮かんでくる。それに、自分に対して若干砕けた口調で接してくれるのも“特別”な気がして、やることなすこと全てが心をぐっと鷲掴み にしてくるのだ。
「もう、ほんと、色々ずるいよぉ……」
 恥ずかしさのあまり赤面しながら、ほう、と溜め息を吐いたりゴロゴロ転がったりと忙しい。
 こうして、全く静かになりそうもない櫻花の眠れぬ夜は更けていった。