春の日再び│02
朝からしとしとと雨が降っていると、出勤したくなくなるのが人の常。そんな中、浮かれ気分で玄関を飛び出していく人物がいた。篠塚櫻花、二十七歳。我が
世の春を迎えたばかりでまだその実感が湧かないまま、まんじりともせず夜を過ごしたせいでハイになっているという面も否めないが、それでも、普段の彼女か
らしたらかなり足取りも軽く出勤していったのだった。
満員電車に揺られながら、その振動につい立ったままうとうとしているうちに、会社の最寄り駅に到着した。そこでようやく我に返ったのか、駅から会社まで
の道のりをこれ以上ないほど緊張しながら歩いていく。
フォーワーズに就職してもうすぐ六年目を迎えるが、色々なことに慣れていくにつれ、通勤というものも惰性で行うようになっていた。それが今朝は、入社初
日のように緊張している。
わずか一ヶ月弱の間だったが、無駄に遠回りをして時間を潰していたため、この時間に出社するのは久しぶりなのだ。
なんともいえない緊張感をたたえてフロアのドアを開けると、いつものように岡崎が一人で仕事に打ち込んでいた。こちらに気付いた様子もなく、ただひたす
らパソコンに向かっている。
櫻花は音を立てないように気をつけながら、給湯室へ向かう。昨日までは「人が来る前に」と慌ただしくしていたのだが、これからはまた余裕をもって準備が
できる。これは些細なことのようだが実は大切なことで、櫻花にとって朝一番の仕事である給湯室準備が慌ただしいと、その後一日ずっとその調子を引きずるこ
とになり、仕事の内容にも悪影響を及ぼすことになっていたのだ。たかがお茶の準備が、その日のリズムを作り出すことになっていたとは、櫻花自身も気付いて
いなかったことだ。
お湯を沸かしている間にコーヒーメーカーをセットして、お茶っ葉とマグカップの用意をする。自分のことは自分で、というのが基本ルールなので、こうして
二人分のお茶を淹れるのも久しぶりのこと。並んだマグカップを見て、頬が緩むのを我慢できない。
今は誰にも見られていないからいいが、始業後もこの調子だとさすがにまずいし仕事にも支障を来すことに気付いた櫻花は、にやけ顔を誤魔化すために苦虫を
噛みつぶした顔をする練習を始めた。
どれだけ馬鹿らしいことをしているかは自分が一番よく知っているので、これぐらいは許して下さい。などと、誰に請うているのか解らない文言まで頭の中を
駆け巡る。そこで実家の神社に祀られている神様に頼らないところが、櫻花らしいところである。
昨日までは、セットするだけして自席に逃げ帰っていたが、今日はまだ誰も出社してくるような時間ではない。やはりお茶というのは淹れるのもリラックスし
ていないとダメだな、とつくづく感じながら、抹茶入り玄米茶をマグカップに注いでいく。玄米の香ばしさと抹茶の苦み、それらをまとめる煎茶の甘さが三位一
体となっているのがよく判る。
櫻花が愛飲しているメーカーのお茶は、熱湯だろうがぬるま湯だろうが関係なく、また、時間が長くても短くてもきちんと抽出され、よほどのことをしない限
り失敗することのないすぐれものだ。
行きがけの駄賃に自分のお茶をデスクに置くと、そろりそろりと岡崎の席に近づいた。
「おはようございます、課長」
「ああ、おはよう、篠塚。毎朝悪いな」
いつも通りのやりとりがこんなにも特別なものだったと、今更ながら気付いた櫻花は、この機会を無駄にしてきた期間を悔やんでいた。
ずず、とお茶を一口啜った岡崎が、お盆を持った櫻花の左手に目を留めた。
「指輪、してきてくれたんだな」
「はい……」
「よしよし」
わざわざ席を立ってまで頭を撫でられ、櫻花は慌てて周囲を見回す。
「誰かに見られたらどうするんですか!」
「まだ誰も来てないから大丈夫だろ」
岡崎は涼しい顔をしている。このまま近くにいては危険だと察知した櫻花が踵を返そうとしたその時、ぐっと手首を握られ引っ張られた。立って頭を撫でてい
た岡崎が、櫻花の手を取って椅子に座ったのだ。その勢いで、櫻花は危うく岡崎の膝の上に軟着陸しそうになり、慌てて体勢を整える羽目になった。
「課長!」
「もうちょっとだけ」
普段見上げてばかりいる人物に上目遣いで訴えられると、つい許してしまいたくなる何かがあった。
「……少しだけですよ?」
「やった」
小躍りしそうな声で言われて嬉しくないはずもなく、櫻花はそれに大人しく従った。手首を掴んでいたはずの岡崎の手はするりと滑り落ち、いつの間にか指と
指が絡み合うように繋がれていた。
会社でこんな大胆なことをされるとは思ってもおらず、しかしがっちりと指が絡まっていて逃げ出せもせず、櫻花はひたすら顔を赤くしながら俯くことしかで
きない。
そうこうしているうちに、他の社員達が出社してくる時間がやってきた。もういつ誰がドアを開けて入ってきてもおかしくない状況である。と、その時。
「おはようございま〜す」
のんびりした声と共に原がフロアに入ってきた。そこでようやく手を放され、櫻花はバクバクとうるさい心臓と真っ赤な顔を隠すようにお盆をギュッと胸に抱
いて給湯室へ逃げ込んだ。
お盆を元あった位置に戻すが、まだ顔が赤い気がして給湯室から出ていけない。しかしここもいつ誰がやって来るか判らないため、早く平常心を取り戻さなけ
ればならない。そうやって焦れば焦るほど、昨夜からの出来事を思い出してしまう。
櫻花は、いかんいかん、と頬をペチペチ叩き気合いを入れ直す。原が出社してきたということは、他のメンバーも続々とやってくる。いつまでもここでこうし
ている訳にもいかないのだ。
動きが不自然にならないよう気をつけながら自席に戻り、すっかりぬるくなってしまったお茶を飲む。緊張からか相当喉が渇いていたようで、あっという間に
飲み干してしまった。おかわりを入れに席を立つ前に、今日のお昼を一緒に食べようというメールを尚美に送る。
続々と社員が出社してきて、給湯室も混雑している様子。もう少し時間を置いてからおかわりを入れにいくことにして、まずは今日の仕事の段取りを組み立て
始めた。
確か午後から会議があったな、とパソコンのスケジュール帳を開いて確認をしていると、挨拶をしながら後ろを通りかかった中畑がその足を止めた。しばらく
その場にとどまり、何度か目を瞬かせてはじっと何かを考えこんでいる。
櫻花が後ろに人の気配を感じて振り返ると、何やらキラキラした目でこちらを見ている中畑と目が合った。嫌な予感がしたが、無視をするわけにもいかない。
「おはよう。どうしたの、そんな所につっ立って」
「篠塚さん!」
自分で自分の声の大きさに驚いたのか、中畑がその場にしゃがみ込んでこそこそと話しかけてきた。
「その指輪!どうしたんですか!昨日まではそんなのしてませんでしたよね!?」
その行動が却って人目を引くのだが、中畑なりに気を遣って小声で訊いてきているので、櫻花も無下にはできず用意していた言葉で答えた。
「貰ったの」
「誰に?」
「彼氏に……」
「かっ……!そ、そんな話聞いてません!」
「ええと……まあ、言ってなかったから……」
中畑はこそこそ話をしているつもりだろうが、すぐ隣にいる鴻野には話が筒抜けだし、何より櫻花自身の指にはまった指輪が人目を引く。この件が広まるのも
時間の問題だと諦めるより他ないだろう。
朝からふわふわした気分だったのを一気に現実に引き戻され、なおかつこの先待ち受けているであろう厳しい尋問の数々を思うと頭が痛くなる。しかし時間は
待ってはくれない。始業を知らせるチャイムが鳴り、皆それぞれ仕事を始めるが、なんとも居心地の悪い空気がフロアに充満しているような気がしてならなかっ
た。
本日これでもう何度目になるのか、いかんいかんと自分に言い聞かせ、会議に入る前に終わらせてしまいたい案件に集中する。すると不思議なことに、これま
で少しひっかかっていたことや、アプローチを変えたいがどうしたら良いか考えあぐねていたことなどがすいすいと解決していく。
頭を悩ませていることがあると、どうしてもそこから離れられなくなってしまう。何度考え直しても、結局はそこへ戻ってしまうからだ。それを無理矢理にで
も全く違う方向へ意識を向けることで、いとも簡単に新たな着眼点を見つけることができる。それは捜し物をしているとにきは見つからず、全く別の機会に出て
くるのと同じかもしれない。
櫻花もこれまで幾度となく頭の切り替えをしてきたが、ここまであからさまに結果が出たのは初めてのことで、怪我の功名とはこういうことかと妙に感心して
しまった。そして、自分でもここまで切り替えが出来るようになれればもっと仕事が捗るのだろうな、と課のデスクを一望できる場所に座っている上司をちらり
と盗み見る。
今回の件のもう一人の当事者でもあるはずの岡崎は、我関せずといった顔をしていて、当たり前だが仕事中なので昨夜や今朝見せた甘さの欠片も見えてこな
い。その姿が憎らしいやら格好いいやらでギリギリしながら、再び目の前の仕事に集中していく。
昼を告げるチャイムで我に返った櫻花は、データのバックアップを取って保存してからポーチとスマホを掴むと社員食堂へ急ぐ。
広い食堂の隅っこの、日当たりも悪く見通しも良くない、一見すると普通なら誰も座りたがらない席に陣取ると、スマホを取り出して尚美に場所を知らせる。
どん底まで落ち込みたい時や余り他人に聞かれたくない話をするのに最適ということで、実はここは見た目に反して結構人気のある席なのだ。
ほどなくして尚美もやってきて、二人揃って食事を始める。世間話だけで何も聞かれないことにそら恐ろしさを感じつつ、櫻花は食事を摂りながら徐々に覚悟
を決めていった。
「で?」
箸を置くと同時に一言そう言われ、櫻花は簡潔に答えることにした。ただし、小声で。いくら密談に向く席とはいえ、周囲に人がいない訳ではない。そこは細
心の注意を払わなければならないだろう。
「彼氏ができました」
「ほう」
「この指輪は前に貰っていた物です」
「ほほう」
「以上です」
「いやあ、まさか岡崎課長がホワイトデーのお返しに何もなしとは思わなかったわー。しかも恋人同士になったというのに、何もなしとはねぇ」
「……普段指輪をネックレスに通していたのがバレていて、どうせなら自分が贈った物を使ってほしいと言われて、お返しにはネックレスを貰いました」
「ははーん、そうやってネックレスは貰ったものの結局指輪をつけて欲しいって言われて、ネックレスはただのネックレスとして使ってる、というわけね」
尚美に全てを見透かされていて、櫻花は言葉をなくす。どこかで見ていたか、誰かから報告でも受けたのではないかと思えるほどだ。しかしそんなはずもな
く、それだけ二人の行動がお見通しだということなのだろう。
これまで感情を表に出すことのほとんどなかったことを自覚している櫻花だけに、ここまで他人に判りやすいのかと逆に感動すら覚えるほどだ。
外は相変わらず雨が降り続いていて、これが止んだら更に暖かくなり春は近くなる。それでも雨というのはうっとうしいもので、尚美は目の前の友人が頬を赤
らめながらもじもじしているのを見て、もう少しだけからかってうさを晴らしてやろうか、などと意地悪なことを考える。
それでも、長い片想いを経てようやく春が訪れた友人には幸せになって欲しいし、これまで色々と相談をしたり迷惑をかけた分、今度は自分が彼女の役に立つ
番だとも思っていた。
「で、どんなのを貰ったの?」
「これなんだけど……」
くい、と広げた襟元からちらりと覗くのは上品なホワイトゴールドのチェーンネックレス。
「私が前に着けてたやつより確実にゼロが一つ多いと思うのよね」
申し訳なさそうに零す櫻花に、尚美は以前の自分を見た気がした。財力のある男性と交際すると、何気なく贈られる物が何気ない値段ではないのだ。櫻花の話
によると指輪もネックレスもカルティエだということだ。この会社の課長職の給与ではそんな物をポンポンと買えるとは思えない。実家は田園調布にある豪邸
だったというし、どうやらあの課長も夫と同じ部類の人間だと推測される。
これからの友人の様々な苦労が簡単に想像できて、尚美は目頭が熱くなる。何も聞いていないが、きっと独占欲も強いだろう。二人きりの時にはどろどろに甘
やかすのだろう。そして会社では冷酷なまでに他人行儀なのだろう。
「まあ、頑張れ」
ポンポンと櫻花の肩を叩くと、不思議そうな顔をされてしまった。櫻花がこの言葉の意味を本当に理解する日が来るのは、いつになるのだろうか。それは尚美
にも解らない。