春の日再び│03
三月最後の土日は、年度末最後の土日でもある。課長ともなればあれこれ忙しいのではないかと思われるのだが、櫻花は今日、岡崎と二人で早すぎる花見に出
掛けることになっていた。
どうせそんなに咲いていないだろうが、近場では職場の誰かにバッタリ出会わないとも限らないということで、車で少し遠出をすることにした。
櫻花はどこに行くのか場所を聞かされておらず、ロングドライブは平気か、車酔いはしやすい方か、グネグネした山道を走っても大丈夫か、ということだけを
聞かれ、どれも平気だと答えると「なるべく暖かい格好をして来いよ」と言われたのだった。
今、岡崎が運転する車は東名自動車道を西に向かってひた走っている。朝七時と少し早めの出発だったため、櫻花は助手席でうとうとしていた。最初こそ頑
張って起きていたのだが、岡崎に笑いながら「起こしてやるから、少し寝てな」と言われ、その言葉に甘えてしまっている。それでも完全に寝入っているわけで
はなく、睡魔と戦い連戦連敗を重ねてうとうとしてははっと気付いて起きる、を繰り返していた。
岡崎はその様子を横目で見ながら、この時間をもっと堪能したいと思っていた。隣で無防備な寝顔をさらされて、全く何も感じないかと言われれば嘘になる。
だがそれよりも、この可愛さを独占していることに満足していた。
隣に大事な人を乗せているため安全運転、と言っても早朝の高速道路はそれほど車の数も多くなく、そんなにスピードを出していないのにすいすいと進んでい
く。車が車なので、走行車線を走っているとこれ見よがしに追い抜かれることもあるのだが、岡崎の心は微動だにしない。
そうこうしているうちに車は海老名サービスエリアに到着した。ここで軽く食事を摂る予定で、岡崎は寝ている櫻花をどうやって起こそうか思案する。
普通に肩を揺すろうか、それとも頬をぺちぺちしようか、なんなら熱いキスでもしようか、などと散々考えた挙げ句、まずはその寝顔をスマホのカメラに納め
ることにした。
カシャリ、とシャッター音が車内に響く。その音で起きるかと思われたが、その気配はない。今度は身を乗り出してもう一枚、カシャリ。その次の瞬間、ぱち
りと目を開けた櫻花と目が合った。
「な!何してるんですか!?」
「ちょっと寝顔を」
「寝顔!?」
「待ち受け画面にしようと思って」
「やーっ!やめて下さい!」
「ええー、なんでだよ」
「そんなことしたらバレちゃいますし、第一恥ずかしいです!」
「そうかぁ?可愛い顔して寝てたぞ」
「い、いじめだ……」
「ははは、目が覚めたんならいいや。朝飯にするぞ」
岡崎はそう言って半ば覆い被さっていた身体をすっと引く。圧迫感から解放されてほっとした櫻花だったが、なぜか少し寂しさも感じていた。
慌てて車を降りると、当然のように手を繋がれて引き寄せられる。
「車多くて危ねぇから」
他の車から守るように手を引かれ、櫻花は嬉しいながらも「やっぱり手慣れている」と心中複雑だった。以前岡崎本人が語っていたことが本当なら、朝早くか
らこうやって出掛ける相手はいなかったのだろう。しかし、割り切った関係の女性に対してもこういう優しさを見せていたとしたら、もしかしたら本気になって
しまった女性もいたかもしれない。
今となっては知り得ないことだが、全く気にせずいられるほど大人でもない。櫻花が少しだけモヤモヤを引きずりながら歩いていると、その足取りが重かった
のだろう。岡崎が突然立ち止まり、心配そうな顔を向けた。
「具合でも悪いのか?」
「いえ、そんなことないですよ」
「じゃあ、乗り気がしていないとか」
「いえ、凄く楽しみであんまり眠れませんでした」
「ならなんでそんな辛そうな顔してんだよ」
「……ちょっとくだらないことを考えてしまいまして」
すると岡崎は黙って再び歩き出し、店舗をいくつか回って目的の物を購入すると近くのベンチに腰を落ち着けた。目の前にはメロンパンとコーヒー、そしてえ
びえび焼きが鎮座している。
「まずは食おう。話はそれからだ」
「はい」
二種類のメロンパンを半分にして分け合い、甘い物を食べた口直しにえびえび焼きを頬張る。
「あ、これ、中身がえびなんですね」
「ここの名物なんだよ」
「へぇ〜」
軽い朝食、というよりおやつを食べ終わり、コーヒーで一息入れる。まだ朝早い時間だというのに人の数は多く、皆これからどこかに出掛けていく途中なのだ
ろう。そんな場所でこんな深刻な顔をしている自分が滑稽に思えてきて、櫻花は小さく笑いを零す。
「実は課長の過去に少し嫉妬してました」
「なんだそりゃ?」
「さっき車から守るように優しく手を引いてくれたのを見て『ああ、昔の大人の関係だった人にもこうやって優しくしてたんだろうな。それで本気で惚れられた
りしてたんだろうな』って思うと、なんだか悔しくて」
「ぶっははははは!」
最初は神妙な顔をして話を聞いていた岡崎だったが、そのうち堪えきれなくなったのか盛大に吹き出した。
笑い事ではない櫻花にしてみたら、なぜそんなに大笑いされるのか解らず、ただふてくされることしか出来ない。
「いや、悪ぃ悪ぃ。櫻花の言う“大人な関係”だった奴らには、そんな感情持たれたことねえんだよなー、これが」
「……そんなこと判らないじゃないですか」
「だっていつも俺があいつらから切られるんだもん」
「えっ?」
「全員、俺の身体目当てだったんだろうなあ。例えば……この話、聞きたいか?」
興味の出てきた櫻花は、頷いて話の続きを促した。
「名前とか顔とか、もう覚えてねえよ?だけどなぁ。ひでえんだもん。ある日、行きつけのバーで飲んでたんだ。そしたらなんかさめざめと泣いてる女がいて
さ、あまりにも哀しそうだからつい声掛けたんだよ。そしたら婚約者に捨てられた、とか言っててさ……。ああ、可哀想になあ、そりゃ酒飲んで忘れたくもなる
よなあ、って思って、あれこれ話聞きながら一緒に飲んでるうちにそういうことになっちゃって。で、大人な関係を続けながら半年だか一年だか経ったある日、
いつものようにバーに呼び出されて。そいつ何て言ったと思う?『私、今度結婚するの。だからあなたとはもうお終い』って。そんであっさり終了。他も似たよ
うなパターンばっかりで、惚れられてた気配なんて欠片もねえよ。だから心配すんな」
からからと笑う岡崎の顔は本当に気になどしていなさそうで、それが却って櫻花の胸を打つ。そういう生活をしていた理由や、その時の気持ちなど、つっこん
だ話を聞き出すほどお互いの信頼関係が築けていない。それに無理矢理聞き出すような話でもなし、そのうち向こうから話してくれるのを待つしかない。せめて
その時には全て受け止められるよう、心を強く大きく育てていこう。櫻花はそう強く誓った。
モヤモヤが晴れた後には、気まずさが残っていた。小さな嫉妬のせいで大事になってしまったこと、話したくないであろう過去を話させてしまったこと、理由
は色々あるが、一番は岡崎が何故かニコニコしていることだった。
「あの、さっきから急に機嫌が良くなったように思えるんですが……」
「そりゃー機嫌も良くなるだろうよ。だって俺のしょーもない過去にヤキモチ焼いてくれたんだぞ?」
「そういうもんですか?」
「そういうもんですよ。これからも、嫌だと思ったことだとか疑問を感じたことだとか、少しでも心にひっかかることがあったら言ってくれ?じゃないと俺みた
いな馬鹿は気付いてやれねえから」
「そうですね。話し合うことって大事ですもんね」
「そうそう。ということで、ひとつ俺からお願いが」
岡崎は笑顔から一転、キリリ、と顔を引き締めて真剣な面持ちになる。
「プライベートで課長って呼ぶのやめてくんねえか」
どんな重大なお願いをされるのかと身構えていた櫻花は拍子抜けだ。だが岡崎は眉間に皺を寄せ、職場でもあまり見ないような渋面を作っている。
「ほら、一月にうちの実家行った時にさ、呼んでくれたじゃん?ああいう風に呼んで欲しいなーって思ってんだけど……ダメか?」
渋面のまま上目遣いされると、まるで悪いことをした犬を叱っている気分になってしまう。そしてその顔に弱いというのをつい最近知って、ホイホイ言うこと
を聞かないようにしなければ、と自分に言い聞かせてはいるものの、そう簡単にはいかないのが現状だ。
「わかりました」
「やった!」
プライベートになるとガラリと人が変わる岡崎は、今もまるで子供のように喜んでいて、先ほどまで浮かべていた苦い表情などなかったかのように、今は満面
の笑みを浮かべている。
ちょっと試しに呼んでみて、などとねだる姿はとても三十五歳には見えないし、社内では切れ者で通っているイケメン課長と同一人物とは思えない。
と、つらつら考えている間も、期待を込めた瞳を向けられる。櫻花はそれに耐えきれず、折れることにした。
「た、威夫さん……」
途端に破顔し、嬉しそうに手を握ってくる。そこまで喜ばれるなら名前で呼ぶのもやぶさかではないが、そうなると今度はオンとオフの切り替えをきちんとし
なければ、という問題がついて回る。とかく社内恋愛が大変だと言われるのは、こういう理由もあるのだろう。
岡崎がなかなか手を放そうとしてくれないので、今度は櫻花が質問をする。
「そろそろどこに行くのか教えてもらってもいいですか?」
「んー、本当はその敬語もやめて欲しいんだけど、まあ、それは追々だな。で、行き先だけど」
「はい」
「伊豆高原」
「……どうしてまた?」
「今日は一応花見ってことになってるだろ?今はまだ咲いてもいないだろうけど、来年以降の下見兼ドライブデートってことで」
今日のこの遠出は、元は櫻花が尚美に花見に誘われたことがきっかけだった。尚美の夫が珍しく週末に休みが取れそうなので花見に行くので、櫻花と、ついで
に岡崎も一緒に行かないかと声を掛けられたのだ。
櫻花がその件を岡崎に聞いてみたところ、どうせ花見に行くならダブルデートではなく二人きりで行きたい、一緒に行ってもいいけどその前に二人で行きた
い、そもそも付き合い始めたばかりでデートもしていないからどこか行こう、と言われて今に至るというわけだ。
「どうする?嫌なら帰るけど」
「いえ、行きます」
「そっか、じゃあそろそろ出発するか」
ゴミを捨て、トイレを済ませると再び車中の人となる。
今度はうたた寝もせず話し相手になっていたが、岡崎の「どうせまだ時間かかるんだから、今のうちに聞きたいことあったら聞いてくれ」という言葉に、これ
まで気になっていたことをあれこれ聞いてしまうことにした。
「いっぱい聞きたいことあるんですけど、いいんですか?」
「いいよ。俺も聞くし」
「ええと、じゃあ、まず、ずっと気になっていたんですけど、昔何かスポーツやってたんですか?」
「なんで」
「さっき課ちょ……威夫さんが『身体目当てにされた』って言ってましたけど、その気持ちが解らなくもないと言いますか……」
「櫻花も俺の身体目当てなのかよ!?」
「違います!違いますけど、厚みもあるし、腕とか筋肉ついてるし、脱いだら凄いんだろうなって思いまして」
「……櫻花のすけべ」
「だからそういう意味では!」
「解ってるって。昔なー、野球やってたんだよ。そん時についた筋肉落とさないように、トレーニングしてっから」
「やっぱりそうだったんですね」
「何が?」
「去年原主任と中畑さんと私と課……威夫さんで野球観戦に行ったじゃないですか。凄く詳しいからそうなんじゃないかって」
「あー、あれか……」
「あの時のあの青いチームの人、昔のチームメイト、とか?」
「内緒で頼むな。あれ、大学の後輩」
薄々感づいてはいたが、本当にそうだったとは思わず、櫻花はその答えに驚きを隠せない。プロに入るほどの人の先輩で、あの場所で挨拶をされる程の仲、し
かも本人曰く野球をやっていた、となると大学野球でバリバリやっていたということではないだろうか。
それを問うとあっさり是と返される。しかも、プロからドラフト指名されるレベルだった、というから驚きだ。そこで再び疑問が生じる。そこまでのレベル
だった人が、なぜ今こうして普通の会社勤めをしているのだろうか。
何でも聞いていいと言われたとはいえ、さすがにそこまで突っ込んだ話をしてもいいかどうか判断に迷っている櫻花に、岡崎がさらりとその理由を語る。
「実は四年生の春期リーグで、試合中大けがしてなー。手術と長期のリハビリが必要な奴を指名する球団なんかあるわけねえし、松葉杖つきながら就職活動だ
よ。で、物好きなうちの会社が拾ってくれたってわけ」
「そんな大けがだったんですか?」
「前十字靱帯断裂、って言っても解んねえよな。膝の靱帯がばちんと切れて、別の所の筋切って持ってきて再建する、っていう結構大がかりな手術したんだよ。
一応、復帰も視野に入れてたからなんだけど、どこかで無理だって諦めてたから就職活動してたわけで。おかげで櫻花に出会えたから逆にラッキーだったけど
な」
聞いただけでどれだけ大変な大けがだったか判るというのに、あっけらかんとしている姿になぜか胸がいっぱいになってしまう。プロに行けなかったことが悔
しくないはずがないのに、自分に出会えて逆にラッキーだった、などと言えるその度量に櫻花は密かに惚れ直していた。
何と声を掛ければよいか判らず黙りこくってしまった櫻花を気遣うように、岡崎が話を続ける。
「だからまあ、そっち方面に知り合いっつーか友達っつーか先輩後輩っつーか、そういうのいっぱいいるわけ。で、あの日のあいつもそのうちの一人。あいつ
ら、もうそろそろ人生の岐路に立つわけだよ。こっから先が大変だぞー、これまで野球しかしてこなかった奴らの大半が世間にぽーんと放り出されんだもん。
俺、就職してて良かったわぁ。この年齢で役職ついてるし、もし知り合いが再就職してきたらこき使ってやるんだ」
にしし、といたずらっ子のように笑う岡崎を見て、またしてもきゅんと胸が疼く。これでもう何度目かなど、途中で数えるのをやめてしまったぐらい、できた
ばかりの恋人の言動にときめいている。櫻花はそんな自分が可笑しくなったのと、岡崎の言いようが可愛かったのとで、ついプッと吹き出してしまった。
「やっと笑った」
「え?」
「だって、俺の過去の話聞いて沈んだ顔してたじゃん。もう十年以上昔の話だし、野球は今でもたまにやってるし、櫻花が気にすることじゃねえよ。それにな、
オッサンばっかりの草野球に入ってやると無双できるはチヤホヤされるはで、それはそれで悪くねえんだよ?な?だから櫻花がそんな傷ついた顔しなくていいん
だ。それより、他に聞きたいことねえの?」
却って気遣わせてしまったことに申し訳なさを感じるが、それがまた岡崎に気を遣わせることになるだろう。このままでは延々とループを続けそうになるの
で、櫻花は言われた通り別の質問をすることにした。
「ええと、じゃあ、ご趣味は……」
「見合いかよ!って、そうだよなー、俺、母ちゃんが見合い持ってきそうになって、それ断るために恋人のフリしてくれとか言ったんだよなー。馬鹿だったよな
あ」
「ああ、そういえば、なんで私だったんですか?他にも適任者はいたと思うんですけど」
「えっ……それ言わせるの」
「だって何でも聞いていいって」
「こんなプライベートなこと、他の誰にも頼みたくなかったから……じゃ納得してくれねぇよな?」
「今日のところはそれで許してあげます」
「うわー、なんだよそれ、こええなー!」
そんな話をしているうちに、あっという間に芦ノ湖を見下ろすMAZDAスカイラウンジに到着した。