春の日再び│04

 芦ノ湖と富士山を望むMAZDAスカイラウンジでトイレ休憩を済ませ、車は椿ライン、MAZDAターンパイク箱根を 経由し伊豆スカイラインへ入った。ここからはグネグネした山坂道の連続で、岡崎が事前にしつこく聞いてきたのはこれだったのかと、櫻花は納得した。
 一時間ほど走ったところで、伊豆高原駅に到着した。櫻花が「駅に来るなら電車でも良かったのでは?」と思ったのが顔に出ていたのか、岡崎が言う。
「下見って言ったろ?それに、車だと密室で二人きりになれる」
 あまりに真面目な顔をして言うので、櫻花もつい納得してしまいそうになったが、一拍置いて何を言われたかを理解し、顔を赤くする。
 下を向いてもじもじしている櫻花を横目で見て、内心「くそう、可愛いなあ!」などと思っていることはおくびにも出さず、岡崎は咲いていたら桜でトンネル が出来るという桜並木に向けて車を走らせる。
 開花宣言が出されたばかりということで、案の定まだ蕾が綻びかけただけの状態だ。従ってただの木が道の両端から枝を広げている下を走っているのだが、こ の並木道の桜が全て満開になったらどれほど壮観だろうと想像するだけで溜息が出そうになる。
「ここ、満開になったら渋滞しそうだな」
「そうですねえ」
「やっぱ電車の方がよさそうだなあ」
「そう思って電車で来る人も多そうですね。ということは歩行者が多くて運転しづらそうですよ」
「だよなあ。観光地の桜の名所なんてどこもそんな感じだろうし」
 櫻花は、岡崎が来年以降の下見だと言ったのが本気だと判り、言いしれぬ喜びにうち震えていた。この先もずっと一緒にいたいと思ってくれているように思え るからだ。
 付き合い始めたばかりではあるが、櫻花も世間では結婚適齢期と言われる年齢にあるし、岡崎などとうに所帯を持っていてもよい年齢である。ゴールの見えな い交際を続けていくには双方リスクが高いのだ。
 櫻花がほわんほわんとそんなことを考えているうちに、車は桜並木を抜け海沿いにある小さな店に到着した。
「ここは?」
「今から昼飯だ。食べられない魚はあるか?」
「いえ、特には」
「よし、なら入ろう」
 そこは古民家を改装した食事処で、近くの漁港で水揚げされた地元の魚を中心とした料理を出すのだという。またしても看板のない店に連れて来られた櫻花 は、岡崎がどうやってこういった店を知るのかが気になってしまった。
「せっかくだから、金目鯛でも食べるか?」
「お任せします」
 店員と談笑しながら料理と飲み物を注文している姿を見て、櫻花は考える。岡崎が持つ人脈というのは、大学関係だけでも相当なものがあるだろう。それに加 え、あの大きな実家関係やフォーワーズのものも含めたら、その中にはこういった店をよく知る人物がいても不思議ではないし、もしかしたら経営者と知り合い ということもあり得ない話ではない。
 自分のように狭い世界でしか生きてこなかった人間との違いをまざまざと見せつけられた気がして、これでは目指すにしても目標として高みに過ぎる。
「どうした?」
 櫻花が思わず、といった感じで零した溜息を岡崎が聞き逃すはずがなく、気遣わしげな顔で訊ねられてしまった。
「具合でも悪いのか?大丈夫か?」
「いえ、どこも悪くないです」
「気分が乗らないとか、つまらないとか、早く帰りたいとか、そういうことがあったら遠慮なく……」
「違うんです」
 ここに来る道すがら、何でもすぐに話そう、と決めたばかりなので、櫻花は溜息の理由を正直に白状した。すると岡崎は神妙な顔をして黙り込んでしまった。
「あの、私が勝手にヘコんでいるだけで、威夫さんは何も悪くないですよ?」
 そう櫻花が言っても、顎に手を当てて何事か考え込んでいるようで、時折なるほどな、などとブツブツ呟いている。
 しばらくそうしている間に納得のいく答えが出たのだろう。顎に当てていた手で頬杖をついて、にっこりと微笑みながらこう言った。
「俺は櫻花が羨ましい。昔野球やってた奴なんてそこらじゅうにゴロゴロしてるけど、実家が神社で神道系の大学行って権禰宜の資格持ってる会社員なんて、そ う多くはないと思う。そういう人はみんなそっちで仕事してるだろうし。そりゃあ確かに世界は狭いだろうけど、だからって悪いわけじゃない。少なくとも、う ちの課にはそういった人材は必要だぞ?」
 この人はいつだってこうして助けてくれるんだ――櫻花は心がすっと軽くなり、ますます岡崎に心惹かれていく。
「ありがとうございます。私、こういう所を直していきたいと思っているんですけど、なかなかうまくいかなくて……」
「こういった所?」
「ですから、すぐネガティブになったり、うじうじと考え込んだりする所です。もっと前向きになりたいんですけど、染みついた根性をたたき直すのは難しく て」
「無理に直そうとしなくてもいいと思うけどな。そういう所も今の櫻花を作り上げた要因だろ?なら今のままでいいと思うぞ、俺は。それよりほら、飯だ、飯」
 タイミング良く運ばれてきたのは、地元稲取で水揚げされた金目鯛づくしのお膳で、刺身、煮付け、しゃぶしゃぶなど定番の物からスモークした物を散らした サラダ、串焼き、せいろ蒸しといったものまであって、実にバラエティ豊かである。金目鯛といえば煮付けぐらいしか知らない櫻花には、どれも目を引く品ばか りである。
「デザートは別の所で食べるからな」
「はい。でもこれを全部食べたらお腹いっぱいになりそうです」
「その時は言えよ、俺が食ってやるから」
「はい」
 金目鯛料理を美味しくいただき、腹ごなしに、とシャボテン公園を散策する。今では冬の風物詩となっているカピバラの露天風呂入浴を見たり、動物とふれ あったり、名前の通り温室でサボテンを見たりなど園内を散策しているうちに、お腹も少し落ち着いてきた。
「どうする?デザートは入りそうか?ただ、帰りにまた山道グネグネした所を走るから、あんまり満腹だと酔うかもしんねえぞ」
「私、車酔いしたことないのでたぶん大丈夫です」
「そうか?まあ、酔い止め持ってきてるし、なんとかなるか」
「用意周到ですね」
「……だって、櫻花に何かあったら嫌じゃねえかよ」
 櫻花は、照れくさそうにそっぽを向く横顔を、くすぐったい想いで見上げる。この人について行けば大丈夫だ、という根拠のない自信がムクムクと頭をもたげ た。
 大人の包容力、と言えば聞こえがいいが、その本質はただの過保護である。ただ櫻花はそれに気付いていないし、岡崎もそうと気付かせないように巧妙に立ち 回っている。尚美にはその辺の本性を見抜かれているようだが、岡崎はあまり気にしていないようだ。
 一通り園内も見学し、いい時間になったということで岡崎が言っていた“デザート”を食べに向かった。着いたのは観光農園で、いちごの食べ放題をやってい る所だった。
 受け付けを済ませハウスに入ると、そこは一面のいちご畑。高い棚に栽培されているため、立ったまま収穫ができるという。
 櫻花は高ぶる気持ちを抑えられずにいた。いつも雑誌やテレビなどで見て一度行ってみたいと思っていたものの、これまで実現しなかったいちご狩りが現実の ものとなり、落ち着けというのが無理というもの。
 岡崎も、今日は一方的に連れ回している櫻花がここまで喜んでくれて、ほっと胸をなで下ろしていた。櫻花の意見も聞かずに行程を決めたので、本当は楽しん でいないのではないかと危惧していたのだ。
「制限時間内にどれだけ食べられるか競争ですよ」
 練乳の入ったケースを手にはにかむ櫻花につられ、岡崎も笑顔になる。たかがいちご、されどいちご。最初は意気込んでいても途中でお腹いっぱいになるのが 目に見えているが、そんな姿を想像するのすら楽しくて、岡崎は自分のやられっぷりを再認識させられた。
 甘〜い!と頬を緩めたり、うわっ、酸っぱい!と眉をハの字にしたり、普段職場では見ることのできない櫻花の感情豊かな表情を見ているだけで、岡崎は今日 ここに来て本当によかったと、心の底から思うのだった。
「課長!じゃない、威夫さん!いくつ食べました?」
「俺?三十個ぐらいかな」
「ええ、そんなに!?私なんて十五個目ぐらいから苦しくなって、最終的には二十個でギブアップでしたよ」
「そんなに大きくないから数は食えるけど、さすがに途中で飽きたな」
「次はもっとお腹に余裕がある時に来ましょうね!」
 自分と同じく、次を考えていてくれることに嬉しくなり、ついその場でぎゅっと抱きしめたくなるのをぐっと堪える。
「よし、じゃあ遅くならないうちに帰るぞ。土産は買わなくていいのか?」
「会社に買って帰ると色々面倒そうですし……友人に何か加工品を買って帰ります」
 櫻花は、この観光農園で手作りされているジャムとシロップ、そして自分用にいちご一箱を購入した。
「悪ぃな、俺の車こんなで」
 岡崎の車には後部座席がないため、瓶が割れないよう毛布で厳重に包み、グサグサと揺れないようにしてからいちごの箱とともにトランクへ仕舞う。
 何事にもそつが無い岡崎が少し落ち込んでいる姿に、櫻花はニヤニヤが抑えきれない。スポーツタイプの車で荷物を後部座席に置けないことなど大した問題で はないどころか、あまり身近ではない車に乗せてもらえて喜んでいるというのに、その車の持ち主が申し訳なさそうにハンドルを握っているのが可笑しくてたま らないのだ。
「なんだよー、何ニヤニヤしてんだよー」
 櫻花の不審な挙動に気付いたのか、岡崎が不満げに口を尖らせ訊いてきた。
「いえ、威夫さんが可愛いなって思っただけです」
「こんな三十半ばのオッサン捕まえて、可愛いってお前……」
「そんな一面を私だけが知ってるんですよね、えへへ」
「だーっ、もう勘弁してくれー!」
 ――可愛いのはお前だ馬鹿野郎、運転中に何てことを言ってくれるんだ!
 櫻花には岡崎の心の叫びなど聞こえるはずもなく、今日の感想をあれこれ並び立てては嬉しそうに笑っている。やがて言葉が不明瞭になり、静かな寝息を立て て眠ってしまった。
 車内には、音量を絞ったFMから流れてくる音楽と走行音だけが聞こえてくる。岡崎は助手席で眠る恋人を気にかけながら、そういえばここも桜のトンネルに なるんだよな、今度は芦ノ湖をゴール地点にしてもう一度来ようか、でも彼女の友人夫婦との花見もあるから日程が合うだろうか、などと考える。
 今日の初デートで自分でも滑稽なぐらい櫻花の言動に参っているのは自覚しているが、こればかりは自分でコントロールできないのだから仕方がないと開き直 る。今はまだ理性を保っていられているが、こいつが焼き切れるのはそう遠くないだろうというのも解っていた。なにせこれまでも散々そういう想像をする、し ないで葛藤してきたのだ。恋人という立場を手に入れた今、いつ爆発してもおかしくはないだろう。
「はー、逆に辛ぇ……」
 早く深い仲になりたいが焦って嫌われては元も子もない。岡崎の忍耐力が今、試されている。



 朝と同様、海老名サービスエリアで休憩を入れる。岡崎はひとしきり櫻花の寝顔を堪能し、耳元で「起きろ」と囁いた。
 驚いたのは櫻花だ。気持ちよく眠っていたらいきなり艶のある低音で囁かれたのだ。慌てて飛び起きて耳を押さえ、バクバクと煩い心臓を落ち着けるために深 呼吸をする。
「おはよう」
「お、おはようございます……すみません、私、すっかり寝てしまって」
「いや?朝も言ったけど、可愛い寝顔をたっぷり拝めたから逆に有難いっつーか?」
「……!」
 岡崎は恥ずかしさのあまり両手で顔を覆う櫻花をなだめ、車を降りてイートインスペースに腰を落ち着けた。そして、コーヒーを飲みながら今夜の予定につい て話し合う。
「どうする?どっかで飯食って帰るか?」
「そうですね。もうちょっと一緒にいたいですし、そうします」
「……あんまそういうこと言うのやめてくんねぇか」
「え?そういうことって?」
「いい。なんでもねえよ。で、何食いたい?」
「私は何でもいいですよ。っていうか、今日の高速代とかガソリン代とかご飯代とか、私一切出してないんですけど。ご飯行ったらまた威夫さんが出すつもりで すね?ちゃんと払わせてください」
「駄目」
「なんでですか」
「初デートの日ぐらい全部俺に持たせてくれよ」
「でも」
「でもじゃねえ。俺にも格好つけさせてくれっつってんの」
「そんなことしなくても格好いいです」
「……っ、だからお前は!」
 岡崎がテーブルに突っ伏したのを見て、櫻花は何が何やら解らないでいた。
 しばらく頭を抱えていた岡崎がギロリと櫻花を睨み「お前、来週の誕生日は覚えてろよ」と低く唸る。
 櫻花は、岡崎が自分の誕生日を知ってくれていた喜びと、何か怒らせるようなことをしただろうかという不安がない交ぜになり、神妙な顔をして頷くことしか できなかった。
 その後都内に戻ってから夕食を済ませ、櫻花の自宅アパート前で今日のデートは終了となった。
「せっかくなのでお茶でも飲んで行って下さい」
「いや、いい。今日はもう帰る。それより、お前の誕生日の日はお泊まりだからな」
「でも次の日も仕事ですよ」
「着替えを持ってくればいいだろう」
「そんな大荷物持って出勤するのはちょっと……」
「じゃあ今持ってこい。俺が責任持って預かっといてやる」
「ええ!?それもちょっと」
「じゃあ着替えを持って出勤だ」
「……解りました」
「よし、いい子だ」
 岡崎は櫻花の頭を一撫ですると、ちゅ、と唇に軽いキスを落とす。
「じゃあな、おやすみ」
「……おやすみなさい」
 真っ赤になった櫻花を残し、岡崎の車は逃げるように走り去っていった。彼の理性が保つのはどうやらあと一週間ほどのようである。