春の日再び│05
まだまだ寒い日も多い中、四月になり櫻花は社会人生活六年目を迎えた。今年はこれといった異動もなく、昨年のような
サプライズもないまま穏やかに新年度初日の朝礼が終わり、何事もなく一日が始まった。
昼の社員食堂で、いかにもスーツに着られています、といった集団を発見する。
「はー、私も去年はああだったんですね……」
一緒にいた中畑が感慨深そうに呟いた。
「中畑さんはまだまだ初々しいよ」
「なんかあんまり褒められてる気がしないんですけど、まあいいです。私も独り立ちしましたし、後輩も入ってきますし、もっと頑張らないと!」
「頼りになるね」
「任せて下さい」
どん、と胸を叩いておどける中畑だったが、その後首をかしげて言った。
「不思議なんですけど、今年は誰も異動しなかったの人員補充ってされるものなんですか?」
中畑がチラチラと新入社員の集団に目をやりながら、トレーに乗っている唐揚げ定食をどんどん胃に収めていく。
「もしかしたら、他の課にやるのが惜しいくらいの逸材だったのかも」
「ということは、稀に見る変人……」
そこで二人はがっくりとうなだれる。他人に言われると癪だが、自分で認めると悲しくなってくる社内での通説――企画課には変人しかいない――は、午後か
らのやる気を奪うに十分な威力を発揮しているようだ。
二人揃って若干へこみながら午後の仕事に入って二時間ほど経った午後三時頃、櫻花は会議をしていた原に呼び出しを受けた。
呼ばれる心当たりもなく、不安になりながら会議室に顔を出すと、やけにニコニコした原に手招きをされる。その胡散臭いまでの笑顔に嫌な予感を抱くが、話
を聞く前に拒否をするわけにもいかない。
「まあまあ、そう警戒しないで座って」
上機嫌な原と不機嫌な岡崎を前に何かを訊ねるのすらはばかられて、櫻花はとにかく黙って話を切り出されるのを待つことにした。
「篠塚さん、去年一年新人を指導してみてどうだった?」
「……これは個人面談ですか?」
「いいや、違うよ。だから率直な感想を聞かせて?」
「最初は、自分にそんな大役無理だと思ってました。でも、中畑さんは飲み込みの早い子だし、教えた以上のことを身につけてくれて凄く楽しかったです」
「篠塚さん自身は何か変化あった?」
「そうですね、少し物の見方が変わった気がします。人に教えることで自分も学ぶ、っていうのはこういうことなんだな、って思いました」
「そうかあ、じゃあ篠塚さんにもプラスになったってことだね?」
「はい」
原と櫻花のやり取りを、苦々しげに聞いていた岡崎が重い口を開いた。
「篠塚、今年も新人教育を頼みたい」
「えっ!?」
「中畑への指導を見ていたが、去年一年間を通して特に問題も見られなかったし、篠塚自身のプラスになったのなら今年も頼む」
思わぬ話に驚き、また、昨年の中畑への指導をきちんと見られていたのだと、嬉しいが身の引き締まる思いでいた。
岡崎があまりいい顔をしていないのは気になるが、一度経験しているだけに今年は去年よりも良い指導ができるような気がして、少し悩みはしたもののすぐに
それを了承した。
「新入りが来るのは二週間後だ」
「はい。それまでに準備をしておきます」
櫻花は会議室を出ると、早速去年作ったマニュアルを見直す作業に取りかかった。適宜修正はしているものの、改めて見ると気になる点がいくつか出てきて、
ちまちまとそれを訂正していく。
「あら、そんな物引っ張り出してゴソゴソしてるってことは、今年の新人くんも篠塚さんが指導を任されたの?」
鴻野が面白そうに訊ねてきたので、櫻花は不思議に思いながらも「そうなんです。中畑さんのお陰で今年は少し自信を持って指導できそうです」と答えた。
マニュアルと言っても正解があって無いような仕事なので、チェック作業はあっという間に終わり、後は自分の作業ペースの組み直しをすることにした。
そんなこんなで新年度一日目も無事に終わり、帰宅後の就寝前にほっと一息ついていた頃、櫻花のスマホが着信を知らせた。
「もしもし」
『今大丈夫か?』
「お風呂も済ませて後は寝るだけです。どうしたんですか?」
『どうしたってお前……寝る前に彼女に電話しちゃいけないのかよ』
「いや、そんな、そういう意味じゃなくてですね……」
少しすねたような声がして、櫻花は慌てて取り繕う。
櫻花は実は岡崎との電話がどちらかというと苦手で、それはもちろん嫌だという意味ではなく、耳元で艶のある低音を否応なしに聞かされ続けると胸の奥がゾ
ワゾワするので辛いのだ。
それを岡崎もよく解っていて、時折こうしてすねてみたり、また囁いてみたりと櫻花を翻弄してその反応を楽しんでいる。
『まあそれは置いておいて。また今年も新人の指導を頼むことになっただろ』
「はい」
『あれなー、俺本当は反対なんだよー』
昼間、会議室で告げられたこととは正反対なことを言われて混乱する櫻花をよそに、岡崎はその理由を滔々と話して聞かせた。
『今年うちに来る新人は男なんだよ。なんで男の指導を櫻花にさせなきゃなんねぇんだって思うんだけど、原も鴻野もお前を推すし、仕事には私情を挟めねえか
らな。それでも今日、最後の抵抗をしようと思ったんだけど、櫻花がやる気になってっからそれを理由に反対もできねえし……って、俺の話ちゃんと聞いてる
かぁ?』
「聞いてます、聞いてます」
それであの時不機嫌そうな顔をしていたのか、と櫻花は思い出し笑いをしてしまう。
『笑い事じゃねえんだけど』
今日の会議には鴻野は参加していなかったのにその名前が出てくるということは、前々からこの件に関する話し合いが持たれていたと容易に想像がつく。それ
が一体いつからだったのかも気になるが、それより鴻野のあの顔がもっと気になる所だ。なにせ櫻花は岡崎とのことは尚美にしか話していないのだから。それな
のにあの面白そうな顔は、二人の関係を見透かされているとしか思えなかった。
「威夫さん、それより大事なことが」
『なんだよ。これ以上大事なことなんてねえだろ』
「鴻野さん、私と威夫さんのこと知っているんじゃないですか?」
『うーん、確かにあいつは勘が鋭いけど、知らないはずだぞ』
「そうですかね」
『俺も櫻花も、会社ではこれまで通りの態度を崩してねえし、バレようがないだろ』
「そうですよねえ。尚美も『あんた達、擬態が上手いわね』って言ってましたし」
『だろ?西本がそう言うならあんまし気にすんな。それより俺は今度来る新入りが櫻花に惚れないか、そっちの方が心配だよ』
櫻花はとうとう声を出して笑い始めた。心配性にも程があるし、新人くんにも選ぶ権利というものがあるのを忘れている、と。
そこまで好きでいてくれるのは非常に嬉しいが、過大評価されているのではないかと思うのだ。
「私がそんなにモテるわけないじゃないですか」
『いーや、お前は解ってない。うちの課や隣の課にだって虎視眈々と狙ってる奴いるんだぞ?』
「まさかぁ」
『まさかぁ、じゃない!』
岡崎が言う事柄は櫻花には心当たりがないのだが、ここでそれを否定しても意味のないことなので黙って受け入れることにした。
「解りました。新人くんに気を取られないように気をつけます」
『当たり前だろぉ!?お前、俺を捨てて若い男に走る気だったのか!?』
「もう、言葉のあやに決まってるじゃないですか……威夫さんがそんなに私のことを想ってくれるのは嬉しいですけど、向こうにだって選ぶ権利はあるんです
よ?」
つい思っていたことを口に出したが、岡崎はその言葉に納得していない様子で、まだブチブチと文句を言っている。
それでも一通り警告を発して落ち着いたのか、話は明後日の櫻花の誕生日のことに移った。
『俺は少し遅くなると思うから、先に行って待ってて欲しい』
「解りました。どこに行けばいいですか?」
岡崎から告げられたのは、櫻花のこれまでの人生には縁のなかった高級シティーホテルの名前だった。そこのロビーでお茶でも飲んで待っていてくれと言わ
れ、色々なことが頭の中を駆け巡り、その後どういう会話をしていつ電話を切ったのかもあやふやになっていた。
あんな高級ホテルに、いかにも仕事帰りです、といった格好で行っても良いものだろうか。そして何より、最終的にはそういうコトになるのだろうという点
が、櫻花の心をかき乱す。
それこそフォーワーズに入社して以来、そういう男女の色事からは遠ざかっているため、のんべんだらりとした生活に投じられた一石の影響は甚大だ。とにか
く勝負下着だけでも何とかしなければ、と就寝前のダラダラタイムが一気に緊張感を増す事態に陥っている。
チェストをひっくり返したりネットの通販サイトを覗いたりしていて、結局良く眠れないまま朝を迎えた。会社の帰りに何セットか買って帰ることにして、終
業後までドキドキしながら過ごそう、と考えていた矢先のこと。社員食堂で岡崎に纏わり付く簑田京子を目撃してしまった。
昨夜あれだけ心配だのなんだの言っておいて、早速自分がモテているではないか。そう考えると、高揚していた気持ちが途端に萎えていく。
岡崎の眉間に刻まれている皺がより一層深くなっていたので心配はしていないが、恋人が粉かけられているのを見て心穏やかでいられるはずもない。
仕事帰りにデパートに寄り、勝負下着を新調する際も心ここにあらずといった感じで、店員に薦められるがままに数点購入し、帰宅してから戦利品を広げて顔
を赤くすることになった。
そう安い物でもないし、貧乏性なので箪笥の肥やしにするという選択肢はないが、さてどうしたものかと腕を組んで考える。
その際チラチラと昼間目撃した場面が脳裏をかすめるが、気にしたら負けだと自分に言い聞かせて、上に着る服とのバランスなども考えて二セットを選び出
す。
明日着て行く服を用意し、言われた通り着替えも準備して、布団に潜り込む。昨夜はあまり良く眠れなかったにも関わらず、目を瞑ってもすぐには寝付けず、
明日一体何があるのだろうかと、そればかり考えてしまう。それに加えて、この年齢で誕生日を喜ぶのもどうかという気持ちと、恋人に祝われる嬉しさとで、櫻
花の心中は複雑である。
そしてようやく眠気に襲われうとうとし始めた時、スマホが着信音を鳴り響かせた。驚きのあまり身体がびくりと跳ね、せっかくの眠気も吹っ飛び一気に目が
覚める。
「も、もしもし……」
設定してある曲名で誰からの電話かは判っていたが、いつもならもう少し早い時間にかけてくるだけに、少し不審に思ったのが声に出ていたのだろう。開口一
番に謝られてしまった。
『悪ぃな、こんな時間に。もしかしてもう寝てたか?』
「ちょっとうとうとしていただけなので大丈夫ですよ。それより何かあったんですか?」
『ああ、うん。あの、櫻花、お誕生日おめでとう』
「え?」
『日付が変わって一番に言いたくてさ……』
もにょもにょと恥ずかしそうな声が聞こえてきて、嬉しくなった櫻花はついくすりと笑い声を漏らした。
『なんで笑ってんだよ』
岡崎の不満げな言い方がツボに入り、櫻花は笑うのを止められなくなる。
『おいってば、聞いてんのか?』
「聞いてます、聞いてます。なんか幸せだなーって思って」
『そ、そうか……』
素直に感想を述べてみればテレテレと照れられ、年上の男性に対して可愛いというのは申し訳ないと思いつつ、今すぐ岡崎を抱きしめたい衝動に駆られる。
「威夫さんのお誕生日の時には、私も一番に電話でお祝いしますね?」
『ああ。楽しみにしてる。じゃあ、また明日な。俺が行くまでいい子で待ってんだぞ?』
「はい。おやすみなさい」
『おやすみ』
電話を切ると、幸せな気分に包まれながら、今度こそ深い眠りにつくのだった。