春の日再び│06

 ふわふわとした柔らかいソファーに身を任せてそっと目を閉じれば、クラシックのBGMとざわざわとした話し声が聞こ えてくる。とはいえ、場所が場所だけに大声で騒ぎ立てるような人はおらず、皆それぞれ静かに会話とお茶を楽しんでいる。
 定時に退社してから真っ直ぐここに向かい、ロビーラウンジに腰を落ち着けて約三十分が経っていた。注文したフルーツティーは最初の一杯を飲み終え、ポッ トに残っているのはあと一杯分。もうすっかり冷えてしまっているが、櫻花の心配は岡崎が来るまでにこの一杯分で粘れるだろうか、という点だった。
 この後の予定は聞かされてはいないが、この後どこかで泊まることは間違いなさそうだし、まずは腹ごしらえをするのも間違いないだろう。となると、追加で お茶を頼むと食事前にお腹がたぽたぽになってしまう。せっかくの誕生日に美味しいご飯を楽しめない事態に陥るわけにはいかず、櫻花としてはあと一杯飲む間 になんとか岡崎の仕事が終わるのを祈るしかなかった。
 このまま目を閉じていると眠ってしまいそうになり、慌てて目を開ける。すると隣に置いて小脇に抱えていたバッグの存在を思い出し、カッと頬が熱を持つ。 別に誰にも見られてはいないのだが、恥ずかしさを誤魔化すためにポットに残っていたフルーツティーをカップに注ぐと一気に飲み干してしまった。
「もう、やだ……」
「何がだ」
「ひゃあ!」
 ぼそりと呟いた直後に耳元で囁かれた櫻花は、文字通り飛び上がって驚いた。
「ほうほう、耳が弱いのか」
 静かに近寄って驚かせようとした岡崎は、いいことを知った、などと言いながら楽しそうに笑っている。
「とりあえず飯食おう。腹減ってもう死にそう」
 岡崎に手を引かれてソファーから立ち上がると、そのまま外に連れ出されそうになる。お茶の代金を支払っていないことに気付いて立ち止まろうとするが、い いから、と言われた。そしてぐい、と腰を抱かれたまま、目的の店までエスコートされてしまった。
 そこはもうすっかり櫻花も馴染みとなった例の洋食店で、これまたすっかり定位置となった店の一番奥のテーブルに通されて、二人はそこに腰を落ち着ける。
「何か食べられない物とか苦手な物はありますか?」
 店の主人にそう聞かれ、特にありませんと答えた櫻花は、ことりと首をかしげた。
「あの、今日はメニューは……」
「ない。コースを頼んである」
「コースなんてあるんですか!?」
「いいや?特別に頼んで作って貰うことになってる」
 確かにこれまで食べた料理は、どれも鄙びた洋食店のものとは思えない絶品ばかりだったし、店主はきっと名のある店で修行を積んできたのだろうと推察でき る。それでも、普段メニューには載っていない物を作ってくれと頼むのは勇気のいることだし、それを承ける店側も凄いと櫻花は思う。
 そしてやはり気になるのは、岡崎とこの店との関係性だ。
「そんなことして大丈夫なんですか?もしかしてお友達とか?」
「おう、よく判ったな。高校の同級生なんだよ」
「同じ野球部だったとかですか?」
「いんや、調理部」
 そんなことを話しているうちに、桜色をした食前酒が運ばれてきた。
「じゃあ、櫻花の誕生日に乾杯」
「乾杯」
 それから前菜〜メインが供され、最後に待っていたデザートは柑橘のジェラートだった。
 皮をむいた柑橘の実が添えられているそれは、グレープフルーツや八朔の実のような色をしていて、それなりの酸味を覚悟して口に含んだ瞬間、櫻花の目が点 になる。
「ええ、これ凄く甘い!」
 砂糖でも入れてあるのだろうと思い、添えてある実の方を食べてみるが、こちらも劣らずとても甘い。どう見ても皮をむいて種を除いただけの柑橘が、どうし てこんなに甘いのか。櫻花は首をひねりながら再びジェラートを口にする。
「やっぱり甘い……」
 これまで経験したことのない甘い柑橘に目を瞠る櫻花を、岡崎は嬉しそうに眺めていた。
「あの、威夫さん、お店の方を呼んでもらっていいですか?」
「いいけど、どうした?」
「ちょっと訊きたいことがありまして」
 と、そこへタイミング良く店主がやってきた。手にしたトレイにはジュースが載っていて、それを櫻花と岡崎の前へ置いてから恭しく礼をした。
「今日の料理はいかがでしたか?」
「どれも凄く美味しかったです。でも……」
「何か不都合でも?」
「このジェラートとフルーツ、どうしてこんなに甘いんですか?何の加工もしていなさそうなのに、砂糖漬けにされているぐらい甘いし……」
「ああ、それははるかです」
「は?」
「はるかという広島で作っている比較的新しい種類の柑橘で、はちみつのように甘い、という触れ込みで販売されているんです」
「はるか……」
「このジュースも、はるか100%のストレートジュースです。飲んでみて下さい」
 そう言われてグラスを手にすると、少しとろみのある液体がゆらりと揺れる。恐る恐る一口飲んでみると、それはやはりものすごく甘く、とても手を加えてい ないとは思えないほどである。
「甘い……」
「こいつのたっての希望でして、今日の料理には全てこのはるかが使われています」
「えっ!?」
「砂糖の代わりに使ったり、肉を柔らかくするのに使ったり、色々と」
「へぇ〜」
 こんな品種の柑橘があることも知らなければ、それをコース料理に使うという発想もない櫻花は感心しきりで、改めてジェラートを食べてはう〜ん、と唸る。
「はるかづくしだ」
 岡崎が得意満面でそう言うが、オーナーシェフには異論があるようだ。
「何でお前が偉そうにしてるんだよ」
「だって思いついたの俺じゃん」
「メニュー考えたのは俺だろ」
「だってお前料理人じゃねえかよ」
 仲良く言い争う姿を見て、櫻花はぷっと吹き出した。
「ほらみろ、笑われたじゃねぇか」
「俺のせいかよ!」
「本当にお二人、仲が良いんですね。今日は美味しいお料理をありがとうございました」
「いいえ、どういたしまして。また来て下さいね」
「はい、もちろん」
 先刻ホテルのロビーラウンジで飲んだお茶代すら払わせてもらえないので判る通り、今日は一切の支払いをさせてもらえないだろう。だから今度来る時は、き ちんと自分のお金で支払いをしたい、それには尚美を連れて来ればいい。櫻花はそう思ったが口には出さないでいた。
 濃厚な広島産はるか100%ジュースを飲み終えると、店を出て夜道を散歩する。五分咲きになった桜の下ではサラリーマン達が宴会を開いていて、その楽し げな姿を横目にライトアップされた夜桜を眺めながら通り過ぎていく。
 夜風はまだ冷たく、身体が冷える前にホテルへ戻った二人は、レセプションを通らずそのままエレベーターで上層階へ向かった。
「あの……」
「チェックインならもう済ませてある」
 繋がれた手にぐっと力を入れられ、櫻花も色々と覚悟を決めた。
 そこから二人の間に妙な緊張感が高まり、どちらからともなく押し黙る。バクバクと高鳴る心臓、張り詰めていく空気。エレベーターの駆動音は静かなもの で、それが余計に世界と隔絶された感を演出している。
 エレベーターがよく響く音と音声で目的階に到着したことを知らせ、スッと扉が開く。一歩エレベーターホールに踏み出すと、そこはふわふわとした長い毛足 の絨毯が敷き詰められており、それだけでいかにも高級そうで気後れしてしまう。
 岡崎に手を引かれて部屋に入ると、ベッドの上に大きな薔薇の花籠が置かれていた。
「わあ、凄い!」
 と、櫻花が花籠に夢中になっている隙を見て、岡崎がフロントへ電話をする。すると、数分も経たないうちにドアチャイムが鳴らされ、ホテルスタッフがハッ ピーバースデーを歌いながら、ワゴンでシャンパンとケーキを運んできた。ケーキにはバチバチと火花を散らしている花火が刺さっていて、櫻花のテンションは 嫌が応にも高くなる。
 「お誕生日おめでとうございます。どうぞごゆっくりお過ごしください。今日が良き想い出となりますよう、精一杯お手伝いさせていただきます」
「ありがとうございます!」
 スタッフがケーキやシャンパンをセッティングして退室していき、部屋には岡崎と櫻花の二人きり。
「俺さ、これやりたかったんだよ」
 岡崎は、シャンパングラスにシャンパンを注ぐと、そこにいちごを投入する。
「誕生日おめでとう」
「ありがとうございます」
 シャンパンは確かに美味しいが、そこにどうしていちごを入れるのかが判らない櫻花の反応が余り良くないため、岡崎は恐る恐る訊ねてみる。
「プリティ・ウーマンって知ってるか?」
「ええと……映画でしたっけ?」
「そう。リチャード・ギアとジュリア・ロバーツの」
「名前は聞いたことありますけど、内容まではちょっと……」
「そ、そうか……知らねえか……」
 思わぬ所で年齢の差が浮き彫りになり、岡崎はがっくりと肩を落とす。だが、すぐに気を取り直し、上着の内ポケットから小さな箱を取り出して櫻花に手渡し た。
「誕生日プレゼント、貰ってくれ」
「ありがとうございます!開けてもいいですか?」
「気に入ってくれるといいんだけど」
 箱の中身は、淡い色合いのピンクサファイアの花びらが五枚に中心部はルビーという、桜の花をかたどったペンダントトップだった。
「クリスマスにネックレスあげたけど、結局用がなくなっちゃっただろ?せっかくだから使ってほしくてさ」
「ありがとうございます。でもまたこんな高そうな物を……」
「いいんだって。金は使ってナンボだろ」
 なんとも太っ腹な発言に、櫻花は返す言葉もないまま有り難くそのプレゼントを受け取った。値段を想像すると恐ろしいが、早速明日から使おう。そう思った 次の瞬間、今夜はこのままここに泊まることを思い出し、カーッと頬が赤くなる。
 頬の赤みを誤魔化すために、グラスに残っていたシャンパンを一気に呷り、いちごをもぐもぐと咀嚼する。
 ついでにケーキにも手を伸ばし、濃厚なのに甘さ控えめの生クリームの虜になり、先ほどまでの恥ずかしさなど綺麗さっぱり忘れてしまう。
 だから櫻花は完全に油断していた。岡崎に座っていたソファーの後ろからぐいと抱きしめられ、耳元で囁かれる。
「櫻花、ここからは大人の時間だ」
 少し掠れたバリトン、熱い吐息。櫻花は一瞬息を止め、フォークを置いた。