春の日再び│07

 レースのカーテンしか引いていないため、外が明るくなれば自然に部屋の中も明るくなる。それが気になってううん、と 寝返りを打とうとして身動きが取れず、逆に身体が締め付けられてしまう。
 寝苦しくて目を開けると、そこは見慣れた自宅のベッドではなく、しかも身体に腕と足が絡みついていた。
「……!」
 そこでようやく昨夜の出来事を思い出し、恥ずかしさのあまり変な声が出そうになる。本当は顔を覆ってしまいたいのに、後ろから伸びてきた逞しい腕が胸の 辺りとお腹の辺りをがっちり固めているため、手首から先しか自由にならない。下半身は長い足に押さえつけられ、櫻花は自分が抱き枕になったような気分だっ た。
 すっかり目が覚めてしまったので、改めて昨夜の出来事を思い返してみる。
 春先とはいえ、一日仕事をして汗もかいているというのに、シャワーを浴びることすら許してもらえないまま美味しくいただかれてしまったこと。
 その後、風呂に入りたいと言ったら一緒に入ると言われ困惑したこと。
 花籠の薔薇を湯船に浮かべて薔薇風呂にしてくれたのはいいが、風呂場がガラス張りで部屋から丸見えだったこと。
 そして結局「どっちにしても見られるんだから」と言いくるめられ、一緒に入浴して色々遊ばれた挙げ句、風呂から出て再び美味しくいただかれてしまったこ と。
 高級シティーホテルなのに、どうしてベッドルームとバスルームを隔てる壁がガラス張りなのか甚だ理解に苦しむところだったが、海外のリゾートホテルでも そういう作りになっているのをテレビなどで見たことがあるから、自分のような一般庶民には解らないものなのだろう、と櫻花は無理矢理納得した。
 そして、岡崎から貰った薔薇が花束ではなく花籠だったことについて、曰く「明日も仕事なのに花束貰っても会社に持って行けねえし困るだろ?だから、薔薇 風呂にするために花籠にしてもらった。もちろんホテルには許可取ってあるぞ?」ということで、薔薇の香りに包まれた贅沢な一時を過ごさせてもらったのだ。 そこであれこれイタズラされたのはともかく、翌日のことまで考えてくれていたのが嬉しかった。
 櫻花が恥ずかしさに耐えながら幸せと重苦しさの両方を感じていると、頭の上から眠そうな声が聞こえてきた。
「今何時……」
「おはようございます。時間は、動けないから判りません」
「ん」
「ん、じゃなくて」
「んー」
「もう、なんて甘えん坊やなんですか……」
「ふふっ」
 櫻花の言いようがツボに入ったのか、岡崎が笑いを漏らす。その吐息が頭頂部をさわさわと撫でるため、櫻花はくすぐったくて首をすくめた。
「起きたくない」
「今日も仕事ですよ」
「ずっとこうしてたい」
「動けないから、私は困ります」
 そこでようやく手足での拘束が緩み、櫻花は寝返りを打って岡崎と向き合った。
「おはよ。機嫌直った?」
 寝起きのなんとも気の抜けた顔でそう問われ、抱き枕にされていたことかと思い「抱き枕はもう少し優しく取り扱って下さい」と言えば、これまた見当違いな 答えだったらしく盛大に笑われる。
「そうじゃなくて。ここ二、三日ご機嫌斜めだったろ?」
 顔にも態度にも出さないようにしていたはずなのに、何故バレてしまったのだろう。櫻花は岡崎の観察眼の鋭さに舌を巻く。
「だって、威夫さんが私にばっかり『気をつけろ』って言うくせに、自分だってモテてるから……」
「俺が?」
「ほら、無自覚。だいたい、あんなにいっぱいバレンタインのチョコ貰っておいて、モテてないって思ってる方が問題ですよ」
「そうか」
「……なんでそんな笑顔なんですか」
「だって妬いてくれてんだろ?嬉しいに決まってんじゃん」
 そう言って本当に嬉しそうに頬を緩めるので、櫻花はそれ以上何も言えなくなってしまう。それでも、どうしてもこれだけはと、釘を刺すというより懇願す る。
「簑田さんには気をつけて下さいね?」
「簑田?なんで」
「だって、彼女、威夫さんのこと狙ってるんです」
「うーん、気をつけろと言われても眼中ねえし」
「本当に?」
「お前、俺の片想い歴ナメてんだろ」
 そう言われてみれば、好きだとは言われたが、それがいつからだったのかという話は聞いていないことを思い出した。余りに自信満々な岡崎の様子から察する に、言葉の続きを促すのは憚られるのだが、早く訊けという顔でこちらをじっと見つめられては、それを無視することもできない。
 櫻花にはその辺りのスルースキルが備わっていないのをよく解っていて、わざとそう仕向けている岡崎もかなり大人げないし、本人もそれを自覚しているのだ が、可愛い櫻花が悪い、と心の中で言い訳をしては櫻花をからかうのだった。
 岡崎に遊ばれていると薄々気付いている櫻花だったが、その期待に応えるべく質問をする。
「えっと、その……威夫さんの片想い歴というのはいかほど……?」
「そうだなあ。五年ぐらい?」
「五年!?」
 そんなに長い間想いを寄せていた相手がいるのに、どうして今自分とこうしているのだろう――最初に櫻花の頭に浮かんだのはそれだった。本当は長い片想い をしていたが、バレンタインにどさくさ紛れの告白を受けたから、仕方なく自分で手を打ったのではないだろうか。そして付き合っているうちに好きになってく れたということなのだろうか。
 訊かなければよかった、と落ち込んでいる櫻花をよそに岡崎の言葉は続く。
「可愛い子でなー。でもちょっと変った子で、入社早々の自己紹介で『クリスマスが嫌いです』とか言っちゃってんの。すっげーウケる」
「えっ」
「最初はその程度だったんだけど、なーんか気になって、守ってやりてえなーって思って、気付いた時には沼の底よ。セフレとか全部切って、でも告白もできね えで。だから毎朝その子がお茶淹れてくれんのが楽しみで、その為だけに会社行ってたって言っても過言でもないね、うん」
 意地悪な顔で見つめられた櫻花は、恥ずかしさのあまり顔を岡崎の胸に埋めてその視線から逃げることにした。まさか自分より先に好かれていたとは思いもし なかったし、なんという無駄な時間を過ごしてしまったんだという気もしたが、二人にとって今が一番良いタイミングだったのだと思うことにした。
 だからと言って恥ずかしさが消えてなくなるわけではないので、櫻花はしばらく顔を上げられそうになかった。
 優しく頭を撫でられ、それがとても気持ちよく、ついうとうとしてしまったその時、岡崎のスマホのアラームが鳴った。
「あー、時間切れ」
 岡崎はそう言うと一度ぎゅっと櫻花を抱きしめ、盛大な溜息を吐いてベッドから抜け出した。
 スーツを身につけている後ろ姿を、何かいけないもの見ている気分になりながらのぞき見している櫻花に後ろ髪を引かれるが、時間は待ってはくれない。
「ルームサービスでも頼んで、ゆっくりしてから会社来な?」
「威夫さん、もう行っちゃうんですか?」
「俺は一回家に帰ってから行くから」
「そんな……置いてかないで下さい」
「お揃いの薔薇の香りをプンプンさせて、会社の連中に即バレしてもいいならそうするけど」
「……わかりました。我慢します」
「チェックアウトはキー返すだけでいいから。金のことは気にすんなよ、櫻花の誕生日だったんだから。じゃ、先行くな?」
「はい。行ってらっしゃい」
 岡崎は、櫻花の「行ってらっしゃい」に腰砕けになりそうなのをぐっと堪え、おでこにひとつキスを落として部屋を出て行った。一度自宅に戻り、少しだけラ ンニングしてからシャワーを浴びて出勤する予定だ。
 部屋に一人残された櫻花は、言われた通りルームサービスの朝食を摂り、いつもよりゆったりとした気持ちで出勤の準備をする。それでもやはり時間は余り、 することもないのでそのまま会社へ向かうことにした。
 いつもの出社時間より三十分以上早く到着してしまい、どうしたものかと頭を悩ませる。とはいえ、いつまでもこうして突っ立っているわけにもいかない。意 を決して企画課のドアを開けると、そこにはいつもと変わらない風景があった。
 先ほどまで駄々をこねていた人物とは思えない顔をした岡崎は、当然ながら昨日とは違うスーツ、違うネクタイ姿で仕事をしている。櫻花は邪魔をしないよう にそっとオフィスに入ると、しばらく手持ちの仕事を片付け、頃合いを見計らって給湯室へ向かう。
 いつものようにお湯を沸かし、コーヒーメーカーをセットする。最初は自分のお茶を淹れるついでだったこのお茶タイムが、毎朝の楽しみになっていたのはい つ頃だったのかと思いを巡らせる。それはきっと岡崎に恋心を抱きはじめた頃だろうが、まさか向こうも同じことを思っていたとは考えてもおらず、それが発覚 したばかりの今朝は、一体どんな顔をしてお茶を持って行けばよいか思案に暮れる。
 結局妙案など浮かばず、無心、という言葉を胸にさり気なく岡崎のデスクに近づいた。
「おはようございます、課長」
「ああ、おはよう、篠塚。毎朝悪いな」
 いつものやり取りをしながら、少しばかりこそばゆい気持ちになった。ここ最近は、お茶を出した後に手を握られて引き留められしばらく雑談をする、という 工程も加わっている。
「それ、昨日と同じワンピースだな」
「はい。でもインナーを変えているから見とがめられないんじゃないかな、と……」
「えー?俺は別にバレてもいいって思ってんだけど」
「ダメですよ!それでなくてもこの指輪つけはじめてから色々からかわれるのに」
「いいんだよ、牽制牽制」
「牽制って、誰に対してですか」
「誰っていうか、全男性社員に対して」
「またまた、そんな大げさな」
「特に原とか」
「ふふっ」
 岡崎の言葉を聞いて、櫻花はつい吹き出してしまった。
「原さん、彼女いますよ?」
「は!?」
「付き合って結構長くて同棲もしてて、今年度中には結婚したい、とか言ってました」
「俺、あいつの上司なのにそんなの一言も聞いてねえけど!?」
「擬態が上手いって自慢してました」
「……てかなんでそんな話してんの」
「なんだかよく解らないですけど、去年『篠塚さんにだけ教えてあげる』って……あっ、これ言っちゃダメだったんじゃ!?」
「くっそ、あいつ!」
 岡崎はようやく、ここ数年に渡って原に遊ばれていたことを悟りギリギリと歯ぎしりをする。原の櫻花に対するちょっかいや意味深な視線、言動は全て自分を からかう為のものだったのだ。
 自分の櫻花に対する気持ちが知られていたことにも腹が立つが、それを面白がってあれこれやられていたのかと思うと、悔しいやら情けないやら。
 岡崎はその日一日、櫻花が「昨日と同じワンピースだ」と指摘されてあたふたしているのを見ても頬が緩むことはなく、苦虫を噛みつぶしたような顔をしてい た。当然その様子は原に気付かれ、含み笑いを向けられて睨み返すが、睨まれた方はどこ吹く風といった感じで一向に堪える様子が見られない。それがまた岡崎 の怒りを買うのだが、表だって叱責するわけにもいかず、かといって呼び出して問い詰めるほど暇でもなく、また昼食時にも原と二人きりになることがなく―― おそらく原が上手く立ち回った結果だろう――、とにかく苛立ちが募るばかりの一日を過ごしたのだった。