春の日再び│08

 四月に入って二週間が経ち、企画課に新入社員がやってきた。
「今日からお世話になる淡口綾です。綾取りの綾と書いてりょうと読みます。これから一生懸命頑張ります。よろしくお願いします!」
 朝礼で張り切って挨拶をしている青年は、笑顔が眩しい二枚目だった。これから約一年間、若さ溢れるイケメンを指導していくのかと思うと、櫻花は色んな意 味でプレッシャーを感じて思わず溜息を漏らしてしまう。
 そうやって少し気を抜いていると、岡崎が怖い顔をしてチョイチョイと手招きをするので、櫻花は慌てて駆け寄った。
「淡口、今日からお前の教育係を担当する篠塚だ。解らないことがあったらすぐにこいつに質問するように」
「はい」
「篠塚です。よろしくお願いします」
「淡口です。こちらこそよろしくお願いします」
「篠塚、頼んだぞ」
「はい。じゃあ淡口くん、まずは社内を案内するからついて来て」
「はい」
 昨年の中畑同様、まずはオリエンテーションから始めることにした。給湯室の場所や使い方を教えた後、小さい会議室に籠もって業務の流れや一年の大まかな スケジュール等を説明する。
「仕事の内容もだけど、まずは人の名前を覚えることから始めて下さい」
 営業部全体の座席表を渡して言う。先日中畑に「去年の指導の良かった点・悪かった点」といったアンケートをしたところ、意外にもこの座席表を渡されたの がとても良かったと評価されたのだ。
 最初は回答を渋っていた中畑だったが、後輩のため、ひいてはそれを指導する私のためだと思って正直に回答してくれ、と櫻花が説得した結果、なかなかに読 み応えのある文書を作成して手渡してくれたのだった。
「気になることがあったら、何でも訊いてね」
「はい。じゃあ、えっと……この『何でも会議』って何ですか?」
 淡口が不思議そうな顔をして訊ねたのは、年間スケジュールに毎月記載してある会議のことで、名前を見ただけでは一体何が行われるのかさっぱり判らないだ ろうと思われるものである。
 やっぱり気になるよね、といった苦笑いをして、櫻花はその会議についての説明を始めた。
「特に議題が決まっていない会議なんだけど、毎月必ず開催されるの。課内全員参加が義務づけられていて、仕事の進め方もそれに合わせないといけないから気 をつけて」
「なんか無駄っぽくないですか?」
「そう思うよね。でも、それがそうでもないのよ。この何でも会議は毎月第二水曜日に開催されるんだけど、議題が決まっていないからだいたいはネタ出しの場 と化すの」
「ネタ出し?」
「そう。そこで話し合われた物の中から、これは、と思われる物を本格的な企画として立ち上げて、時期によっては社内コンペに出したりするの」
「企画会議とは違うんですか?」
「ネタ出しだからそんなに堅苦しい物ではないんだけど、毎月のように何かしらネタを出すっていうのも大変なのよ?企画になる前段階のものを見繕っておかな いといけないんだから。実際そこから商品化された物も多いし、淡口くんも今から何か考えておいてね」
「わかりました。よくある会議のための会議っていうわけじゃないんですね……」
 名前も緩いし特に議題もない、というからどれだけぬるい会議なのだろう、正に時間の無駄だなあ、などと考えていた淡口は、いきなり社会の洗礼を受けたよ うな気分だった。
 それなりに名前が通った会社にしては自由な社風で、企業説明会などで在職者の話を聞くと皆のびのびと仕事をしているようだったので、ノルマ的なものも少 ないのだろうと考えていたのだが、どうやらそれは間違っていたようだ。認識を改めた淡口は、さっそくその会議に臨むにあたっての心構えやネタの出し方など を質問する。
 だが、櫻花の答えは「自然体が一番だよ」という、雲を掴むようなものだった。
「おー、やってるやってる」
 淡口が頭を抱えた所へ、原がノックもなしに会議室に顔を出した。
「原主任、どうしたんですか?」
「どうしたって、もうすぐお昼だからご飯のお誘いに来たんだよ」
 そう言われて時計を見れば、時刻は十二時まであと五分といったところだった。
「じゃあ、少し早いけどお昼にしましょう」
 櫻花と淡口が原の後について行くと、エレベーターホールで岡崎が待ち受けていた。そうして四人が連れ立って入った店は、去年と同じ「ごはんや」だった。
 あれからもう一年が経ったのかと、メニューを手に感慨にふける櫻花を見て、岡崎と原がくすりと笑う。
 一方、配属初日の昼休み早々に上司達に囲まれた淡口は、緊張しきりでメニューを持つ手も固まりがちである。
「淡口くーん、もっとリラックスして?課長はこんな怖い顔してるけど、ほらほら、よく見てごらん?イケメンでしょー?」
「そ、そうですね……」
「課長みたいなガタイのいいイケメンが眉間に皺寄せてたら、そりゃ迫力あるよねぇ。でも大丈夫、淡口くんはまだ何もしてないんだから、怒られる道理もない でしょ?」
「確かに、そうですね」
「だいたいね、この課長、怖い顔してるけど凄く優しい人だから」
「おい!お前いい加減にしろよ!?」
「きゃー、こわーい」
 原のおふざけで少し肩の力が抜けたらしく、淡口は隣に座っている櫻花に何がこの店のオススメかを訊ねている。
 そんな櫻花と淡口のやり取りを、岡崎が向かいの席でメニューを見ながら目の端で捉え、こめかみ辺りに青筋を立てていた。あからさまに不機嫌な態度も取れ ず、かといって気分が良いものではなく、無表情を貫こうとしたものの完全には成功しなかった、といったところだろう。
 もちろんそれは原にも見破られていて、メニューに視線を落としたまま口元が笑いを堪えて歪んでいることからもうかがい知れる。それがまた岡崎のこめかみ の青筋が増える原因なのだが、会社の昼休憩というのは時間が限られており、そのようなことに構っている暇などないと気持ちを切り替え、注文するものを決め てメニューを閉じる。
「お前達、注文は決めたのか?」
「はーい。俺は唐揚げ定食で」
「篠塚は」
「私は豆腐御膳にします」
「淡口は」
「ええと、俺は……本日の定食というやつにします」
「そうか」
 岡崎が四人分の料理を注文し、それらが来るのを待つ間に淡口に質問をする。
「どうだ?やっていけそうか?」
「午前中、篠塚さんのお話を聞いた限りでの感想ですが、なんだか色々大変そうです。ただ、楽しそうだな、とは思いました」
「そっかー、淡口くんは前向きだねぇ」
「楽しそうだな、と思えたなら十分だ。うちの仕事はその気持ちがなくなったら終わりだぞ」
「はい、肝に銘じます」
 神妙な顔をして頷く淡口を見て、櫻花は今後の方針を変えることにした。中畑はどこまでも明るく前向きで、悪い言葉で例えるならどこか「脳天気」なところ があった。だが淡口は、同じ前向きではあるものの「生真面目」で、色々考え込むタイプのように思えたのだ。
 その人に合わせた指導の仕方をするのは当然だし、それには教育担当者の技能も必要になってくる。櫻花は改めて自分も育てられている最中なのだと実感し、 歩む道のりの遠さに心がくじけそうになるが、向かいに座っている人の顔を盗み見て己を奮い立たせた。
 その後は和気藹々と昼食を食べ、午後からは資料室に籠もって資料整理という名の自由時間を過ごす。
「整理する資料なんてあんまりないから、ここにある物好きなだけ読んでいいよ」
「ええと、それはどういう……?」
「自社製品をよく知っておくことも重要なことよ?」
「ああ、なるほど、解りました」
「といっても、製品の情報自体は全部データベース化されていて、ここにあるのはそこに至るまでの苦労の結晶なんだけど」
 そう言われた淡口が、手近にある資料に手を伸ばす。パラパラと捲ると、そこには企画書から始まり、商品化に至るまでに開催された会議の議事録、経過報告 書等全ての書類がまとめられていた。
 午前中に話題に上った何でも会議で出されたネタが採用され、正式な企画書として提出された後、何度も何度も商品開発課と会議を重ねている様子がありあり と浮かんできた。それと同時に、ひとつ疑問も湧いてくる。
「あの、篠塚さん」
「なあに?」
「この議事録、うちと商品開発課での会議の数が半端ないんですけど、その、内容が……」
「ああ」
 言いにくそうにしている淡口に、櫻花は苦笑いを浮かべた。
「険悪だったんでしょ?」
「はい。なぜですか?」
 櫻花は、この会社の方針とそれによって生まれた軋轢を話して聞かせた。
 コストや実現の可否など考慮しなくともよい、ただし良い物を提案すること、という企画課に科せられた使命と、採算性も考えながら商品化にこぎ着けようと 頑張る商品開発課の間には、お互いに譲れない一線が引かれており、そこをどう折り合いを付けていくかで毎度のように火花を散らしていることや、それが長じ て両者の間には深い溝があるということ。さらには社内では企画課は変人の集まりだという認識をされており、一方の商品開発課はエリート集団だと目されてい ること。社内ヒエラルキーで上位の商品開発課からは見下されているが、それをバネに日々よい提案を出し続けていること等、配属初日に教えるのは少々憚られ ることを、どうせいつか判るのだからと包み隠さず打ち明けた。
 櫻花の話を瞬きをしたり眉を寄せたりと、表情をコロコロ変えながら聞いていた淡口だったが、最後には何やら決意を込めたような目をしていた。
「篠塚さん、俺、頑張りますよ!」
 今の話のどこにやる気を出すポイントがあったのか不思議に思いながらも、新人くんが仕事に前向きになってくれたのならよし、と櫻花は胸をなで下ろす。
「ところで、篠塚さんが考えた物も商品化されているんですよね?その資料はどこにあるんですか?」
「それはまあ気にしないで」
「気になります」
「ダメ」
 過去の資料を引っ張り出されて読まれるなど、そんな恥ずかしいことはとても耐えられないと思った櫻花だが、これまでそういうことに思いも至らなかっただ けに、右も左も判らない新入社員に新たな視点を教わり認識を改める。
「それじゃあ、まず、商品カタログを見て、その中で気になった物について調べてみて。そうしたら、きっと発想の仕方とか企画書の書き方とか、参考になるも のがあると思うよ」
「わかりました」
 淡口はあっさり引き下がり、櫻花の言いつけ通り最新の商品カタログを熟読し始めた。それを横目で見ながら、櫻花はこの会社を知るきっかけになった商品に ついての資料を探し始めた。それは昨年の展示会にも持って行ったペーパーウェイト星雲シリーズで、たまたま街の雑貨屋で見かけた時に一目惚れをしたのだ。 すぐに一つ買い求め、なんという会社が製造しているのかを調べ、就職活動の際に第一希望として入社試験を受けたのだった。
 あれは確か十年以上前に発売されたものだから……と、古い棚を探し始めた時、終業を知らせるチャイムが鳴った。
「もうそんな時間なの!?ごめんね、淡口くん。もうお仕事終わる時間だから、急いで片付けましょう」
「はい」
 二人が広げていた資料を片付け、フロアに戻ると課内のメンバーはほとんど姿を消していた。
「初日からやる気満々でいいねぇ〜。でもうちの会社、定時ダッシュで帰るよう上がうるさいから、その辺の配分も考えながら仕事していくようにね?」
「すみません。私が時間の確認を忘れていました。明日からは気をつけます」
 櫻花は自分の時間管理の甘さを謝罪し、頭を下げる。
 そんなに畏まらなくても、と笑って去って行く原の背中を見ながら、櫻花と淡口は二人ほっと息を吐く。
「研修で聞いてはいましたが、皆さん本当に定時で帰るんですね」
 帰宅の準備をしながら、淡口が驚いたような口ぶりで言う。聞くと見るとでは大違いといったところなのだろう。それとも、話には聞いていたが信じていな かったということかもしれない。
「その代わり、就業中の時間配分はシビアになるのよね。淡口くんの仕事は、最初は私がペース配分するから気にしなくても大丈夫だからね」
「はい。よろしくお願いします」
「じゃ、今日はもう帰っていいよ」
「はい。ではお先に失礼します」
「お疲れさまー」
 律儀に岡崎の所へ挨拶に行ってから帰宅していく淡口を微笑ましく思いながら、櫻花は今日の業務日誌を書いていく。終業時間後ということもあり、キーボー ドを叩く指のスピードも自然と速くなる。
 データを保存して周りを見渡すと、企画課に残っているのは岡崎だけだった。
「終わったみたいだな」
 半笑いで声を掛けられ、うーん、と伸びをしていたところをバッチリ目撃されてしまったことを知る。恥ずかしさに耐えながらそそくさと帰る準備をし、バッ グを掴んで帰ろうとしたその時、岡崎に「篠塚、ちょっと」と言われてしまう。
 上司に呼ばれては無視をするわけにもいかず、櫻花は恐る恐る岡崎のデスクに近寄って行った。
「初日を終えてみてどうだった?」
「そうですね。淡口くんは真面目なタイプだと思うので、精神的に追い詰められないように気を配らないといけないと思いました」
 何を言われるのかと思えば仕事の話で拍子抜けしたものの、今日一日を終えてみて感じたことを素直に報告した。
 それを聞いた岡崎は何やら考えていたが、一言「解った」と答えて櫻花には早く帰るよう促した。その際、小声で「寄り道しないで真っ直ぐ帰れよ。あと、家 に着いたらメールを寄越すんだぞ?」と伝えるのも忘れてはいなかった。
 つい数秒前まで真面目に仕事の話をしていたのに、いきなり甘い言葉を掛けられた櫻花は、しどろもどろになりながらも退勤の挨拶をして逃げるようにフロア を後にした。
 こうして、櫻花の新人指導係二年目の初日は波乱なく幕を閉じたのだった。