目には青葉│01

 五月中旬のとある金曜日、櫻花は緊張の面持ちで出社していた。それというのも、前々から尚美と約束していた花見が明 日に迫り、諸々の準備や時間の関係で岡崎の自宅に初めて泊まることになっているからだ。
 定時の鐘と同時に会社を飛び出すと、普段は使わない私鉄の駅のロッカーに預けていた大きめの荷物を持って待ち合わせ場所へと向かった。幸いなことにその 様子を会社の人に目撃されることもなく、なんとか無事に岡崎と合流すると、そのまま手を引かれて歩いていく。
 スーツ姿の岡崎が片手にビジネスバッグと大きな女性用の荷物を持ち、もう片方の手で女性の手を引いて歩いている所を客観的に見てみると、いかにも会社帰 りのお泊まりデートといった風情で、その片方の当事者が自分だということになんともいえないこそばゆい気持ちになる。
 そうやって櫻花が手を引かれて連れて来られたのは、会社からほど近い、いかにも高級そうな低層マンションだった。敷地も広く、緑がふんだんに植わってい て、広々としたエントランスには応接用のソファーがあり、高級マンションには定番のコンシェルジュも常駐している。
 あまりに驚いて尻込みしている櫻花の手を引き、岡崎はずんずんと中へ入っていく。おかえりなさいませ、とコンシェルジュに頭を下げられるのも慣れていな い櫻花は、どう返したらよいか判らず「こんばんは」などと挨拶をしてみるが、今のは会話になっていなかったと一人頭を悩ませる。
 そんな櫻花をよそに、岡崎はそのコンシェルジュに「俺の彼女の篠塚櫻花。以後よろしく」とさらりと紹介し、紹介された方も「篠塚様、何かございましたら 何なりとお申し付け下さい」と笑顔で櫻花を迎えるため、ますます身の置き所が判らなくなる。
 真っ赤になって俯いている櫻花を見て上機嫌な岡崎は、コンシェルジュから荷物を受け取ると鼻歌なぞ歌いながらエレベーターへ乗り込んだ。鼻歌とはいえ岡 崎の歌を聴くのは、去年一緒にカラオケに行って以来のことで、櫻花はドキドキが止まらない。
 低層マンションなので、エレベーターを使って最上階まで行ってもあっという間に到着する。随分大きな建物のように見えたのだが、フロアには左右二つしか 扉がなく、岡崎はその片方、左側へ向かって歩を進めた。
 廊下には門扉があり、その向こうには扉までのポーチがある。そして扉を開けると広々とした玄関ホールと廊下があった。その廊下には手すりがついていて、 櫻花が珍しい物を見たといった顔をしていると、岡崎が「完全バリアフリーになってるから」と言う。
 とりあえず入って、と言われて玄関で靴を脱ぎ、岡崎の後ろをチョコチョコと歩きながらついて行く。
「はい、どーぞ」
 通されたのは、櫻花の部屋が丸ごと入っても余りあると思われるリビングで、大きな壁掛けテレビの前には座り心地の良さそうなソファーが鎮座している。隣 に二、三段ほど高くなっている和室があり、そちらには掘りごたつ式のテーブルが置いてあった。
 あまりの広さにどこに座ればよいか判らず、ソファーの端にちょこんと腰を掛けた。
「色々聞きたいけど聞けないって顔しちゃって。可愛いなあ」
 グラスに入ったお茶を持ってきた岡崎がくすくす笑う。櫻花は突然可愛いと言われ、グラスを受け取ろうとした姿勢のまま固まってしまう。
「顔真っ赤だけど」
「それは威夫さんが恥ずかしいことを言うからで……」
 櫻花は、もごもごと言い訳をして、受け取ったお茶をぐびりと飲んで赤い顔をなんとか誤魔化そうとした。岡崎にとってみればそれはまた可愛いを増幅させる だけなのだが、それをここで指摘すると話が長くなりそうなので心の中で叫ぶだけにとどめておいた。
 そして、櫻花が聞きたいであろうことを説明することにした。
「ここは元々母方の祖父母が住んでいた所で、俺が大学に入る頃に古い家を潰してマンションにしたんだよ。で、将来のことも考えてバリアフリーにしたんだけ ど、ほら、俺足ケガしたろ?おあつらえ向きってことで、その時からここに住んでるんだよ。その後、祖父さん祖母さんが二人とも亡くなって、でも子供はうち の母親しかいねえから、俺が色々引き継いだってわけ」
「ということは、このマンションの敷地と建物自体が威夫さんの物ってことですか?」
「そ。兄貴は実家継がなきゃだし、うちの両親ひとりっ子同士だから従兄弟もいねえし、俺が継ぐしかなかったんだよねぇ。不動産業営んでたから、他にもま あ、色々持ってるんだけど」
 そこで櫻花はようやく合点がいった。いくらフォーワーズの給料が良いといっても、課長職の給料ではとてもじゃないが手が出せないような物件に住んでいる 理由、そして、高級アクセサリーをポンと買える理由はそれだったのだ。
 その上、実家も何やら事業を営んでいるようで、もしかしたらとんでもない人を好きになってしまったのかと、櫻花は今更ながら気後れしてしまいそうにな る。
「今何考えてるか当ててやろっか?」
「え?」
「私なんかじゃ釣り合いが取れないわ、とかなんとか考えてんだろ?」
「なんで……」
「櫻花の考えそうなことだよなー。ずーっとお前のこと見てたんだから、それぐらい判っちゃうよー、俺」
 ずばり言い当てられた上に、なんだかとても恥ずかしいことを言われた気がして、櫻花は穴があったら入りたい気分になった。
「そんなことより、明日の弁当作るんじゃなかったっけ?ついでに晩飯も作ってくれるって言ってたじゃん。俺、朝からすげー楽しみにしてたんだけど」
「そうでした!」
 櫻花には、恥ずかしさに悶えて赤くなっている暇などなかった。明日の花見に持っていく弁当と今日の夕食を作るという、重大なミッションを抱えているの だ。
 材料は岡崎が事前に用意してくれるというので、それに甘えることにした。ついでにその材料で作れるものを夕食にするという、一石二鳥ぶりである。
 リビングからも見える対面式のキッチンに連れて行かれ、櫻花はまたしても驚いた。ビルトインコンロは三つ口で、流しはもちろんディスポーザー、食洗機付 き。そして何より、大の大人が五人同時にうろついていても平気であろう程の広さがあるのだ。そのくせ動線は最短距離が計算されていて、櫻花は家だろうが物 だろうが、デザインという物は本当に大事だと改めて学ばされた気がした。
 ひとしきり感動したところで、早速調理に取りかかる。メニューは唐揚げ、卵焼きといった定番のもので、明日の朝握るおにぎりの具の鮭も今のうちに焼いて ほぐしておく。
 岡崎にも手伝ってもらってさくさくと下準備を進め、調理をしながら晩ご飯のオムライスも作っていく。
 二人でキッチンに並んでご飯を作っているとまるで新婚夫婦のような錯覚に陥り、櫻花が一人で勝手に盛り上がっている所へ、岡崎がしみじみと「こういう の、いいな」と漏らす。プライベートでの軽い口調でもなく、かといって仕事場での硬い口調でもなく、つい心の声が漏れたといった感じで、それだけにその言 葉に重みを感じた。
 唐揚げも揚がり、その他のおかずも準備が出来て、それらの粗熱を取って冷やしている間に晩ご飯にする。もちろん多めに作った弁当のおかず達もテーブルの 上に並んでいる。
「はーるかちゃん」
 岡崎が猫なで声で呼びかけてくるので、一体何事かと櫻花がそちらを向くと、キラキラした目でケチャップとオムライスの皿を差し出してくる。
「あの……?」
「威夫さん大好きって書いて!ハート付きで!」
 あまりの勢いにケチャップとオムライスをつい受け取ってしまったのだが、そんな恥ずかしいことはこれまでの人生で一度たりともやったことがなく、躊躇っ ているうちにブボッとケチャップが飛び出してしまった。それを見た岡崎が雨に打たれた子犬のような顔をするので、それをなんとかハート型に修正し、拙い文 字で「タケオさん大好き」と書き足した。
「ど、どうぞ」
「ありがとう!じゃあ俺も」
 今度は岡崎が櫻花用のオムライスを引き寄せ「はるかLOVE」と書き始めた。それも、何やら呪文のようなものを唱えながら。
 そして文字を書き終えると、いそいそと二つの皿を並べスマホで写真を撮り始めた。
「せっかく櫻花に書いてもらった文字だから、食う前に記念に残しておかなきゃだろ?俺、これ待ち受けにしよっかなー」
「やめて下さい恥ずかしい!」
「あはははは!」
 そうは言いつつ、櫻花も記念に残しておくべくスマホを取り出しカメラに納めた。そうしてようやく、夕食の時間と相成った。
 明日のお弁当のおかずの残り物、という割にはなかなかに豪華な食卓で、二人とも食べ終わる頃には満腹になっていた。
 食後にダラダラしたくなる自分を一喝し、櫻花は粗熱の取れたおかずを弁当箱に詰めていく。そして冷蔵庫に仕舞うと、明日の朝炊きあがるように炊飯器のタ イマーをセットする。
「保冷剤ってどんぐらい凍らせとけばいいもんなの?」
「はい、十分すぎるぐらいです。ありがとうございます」
「そか」
 下準備を全て済ませると、明日は朝が早いからということで、早々に入浴することにした。さんざん揉めた挙げ句、今夜は別々に風呂に入ることになった。櫻 花は“今夜は”という所にひっかかりを覚えたが、恋人の家へ初めて泊まるのにいきなり一緒に入浴というのはあまりにレベルが高すぎて、なんとしても回避し たかったのだ。
 ほっと一安心してお風呂に入り、その広さや多機能に驚きながらも堪能し、風呂上がりに脱衣所で肌を整えている時、ふと目の前に置いてあるシャネルのボト ルに気がついた。
 いけないと思いつつそれを手に取って見ると、アフターシェーブローションとボディーローションだった。試しに片方のキャップを外して匂いをかいでみる と、いつも岡崎からほのかに香るムスクの香りだった。
 思い切り私生活に入り込んでいるのも忘れ、岡崎の私生活を垣間見てテンションが上がる。だがいつまでもそうしている訳にもいかず、急いで歯磨きをする。 髪を乾かしたいがドライヤーが見当たらず、仕方なく頭にバスタオルを巻いてリビングへ戻ると、櫻花のその姿を見た岡崎の動きが止まった。
「あの、威夫さん、ドライヤーを貸して欲しいんですが」
「……あ、ああ、ドライヤーね。あるよー、あるある、ドライヤー」
 慌てたように寝室に行き、持って来たドライヤーを手渡すとそそくさと風呂に行ってしまった。
 一人リビングに残された櫻花は、岡崎の挙動不審さには気付かず、髪に椿オイルを塗り込めてからドライヤーで乾かしていく。腰まで届く長髪をゆるゆると乾 かすのには時間がかかり、他人の家で同じペースを保つと迷惑をかけてしまう恐れがあるため、普段は使わない強風を使ってみた。
 確かに早く乾くが音は凄いし熱も凄いので、やはりお出かけした時にしか使えないなあ、などと考えながら、なるべく髪にダメージを与えないよう気をつけな がら乾かしていく。一通り乾いた後、再び椿オイルでコーティングし、髪の手入れが完了した。
 顔や身体には適度なケアしかしないのだが、櫻花が唯一自慢に思っているのがこの長髪で、艶のある黒髪を保つためには努力を惜しまない。
「はー、そのサラサラヘアーはそうやって出来上がってんだな」
 一仕事終えて気を抜いていた所にいきなり声を掛けられ、びくぅ、と飛び上がって驚いた。余りの驚きように岡崎が慌てて駆け寄るが、櫻花は驚いた自分が数 センチ浮いたんじゃないかと思い笑いが止まらない。
 ごめんなー、と言いながら岡崎にぎゅっと抱きしめられ、乾いたばかりの髪を撫でられると、とても心地よくてうっとりと目を閉じる。岡崎の厚い胸板に当て た耳から、とくとくという心臓の鼓動が聞こえてきて、それを聞いているうちにだんだんと意識が遠のいていく。
 そのまま眠ってしまった櫻花は岡崎に寝室まで運ばれたのだが、ベッドに寝かされてしばらくするとはっと目が覚めた。
「あれ、私……寝てました?」
「そりゃーもうぐっすりと」
「あっ、私自分で歩いてないですよね!?」
「運ばせていただきましたよ〜?お姫様抱っこで」
「ごめんなさいっ!ああ、なんて勿体ない……」
「勿体ないって、何が?」
「せっかくのお姫様抱っこなのに寝てただなんて……」
「ぶはっ!」
 岡崎はひとしきり笑った後、これからいくらでもしてやるよ、と耳元で囁いた。その声に弱い櫻花はピクンと身体を揺らし、頬を染めた。



 その後、二回戦目に突入するか否かをジャンケンで決めるなどといったムードの欠片もないやり取りもあったりしたものの、日付が変わる頃には二人ともぐっ すり夢の中にいた。
 明日は朝から晴れ予報、絶好の行楽日和になりそうである。