目には青葉│02

 花見、というよりピクニックと言った方が良いだろうか。目的地である神代植物公園には、開園時間の午前九時半に集合 することになっていた。
 昨夜のうちに作っておいたお弁当や飲み物その他、準備万端整えて向かったのは地下駐車場。大きな荷物を持った岡崎に手を引かれ、到着したのスペースに停 まっていたのはよく知る黒い車ではなく、それより随分車高の高い白い車だった。
 よく見るとその車の隣には櫻花が何度か乗せてもらっている黒のGT―Rが停まっていて、それと同じように車体の下には赤いラインが入っている。ドアミ ラーの赤が印象的なその車は、ドアを開けてもらった瞬間新車の匂いが漂ってきた。
「あー、この車なー。こないだ伊豆行った帰りに買った」
 櫻花の疑問を感じたらしい岡崎が、後部座席に荷物を置きながらこともなげに言う。
「いやあ、あっちの車はこうやって荷物置けなかったろ?これまでは俺一人だったから不便なんて感じなかったけど、こりゃマズイと思ってさー。これからは櫻 花と出掛ける時はこっち乗ろうと思ってんだ」
 櫻花は、車というのはそんなに簡単にポンと買える物なのだろうか、と一瞬考えたものの、このマンションの話を思い出してすぐに打ち消した。考えるだけ無 駄であると悟ったのだ。
 出発前に忘れ物がないか二人して声出し確認をしていた時、誰か運転席側の窓をコンコンと叩く人がいた。岡崎はその顔を見てあからさまに無視しようとした が、今度はリズムをつけて窓を叩きだしたため、岡崎はチッと舌打ちをしてから嫌々窓を開けた。
「迷惑なんですけどー」
「よお、威夫。朝っぱらからお出かけか〜?」
「てかお前こそ今からかよ」
「今日デーなんだよ」
「ふーん」
「で?で?助手席の可愛こちゃんを……」
「紹介しねえ」
「は!?嘘だろお前、誰のお陰で……」
「あー!もう、解った!うるせえ!」
 どうやら岡崎と親しい仲にあるようで、半ば脅しながら櫻花を紹介しろと迫っている。それに折れたらしい岡崎が、本当に渋々といった感じで櫻花に声を掛け た。
「櫻花、こいつ、俺の高校の同級生」
「初めまして。篠塚櫻花と申します」
「で、徹、俺の彼女」
「どうも初めまして、松本徹でーす。こいつん家の隣に住んでまーす」
 どうやら最上階にもうひとつあったのは、この友人の部屋のようだ。少し屈んでひらひらと手を振る岡崎の友人は、岡崎よりは身長が低そうだが体格はガッチ リしていて、いかにもスポーツをやってそうな筋肉が付いている。というのも、着ているTシャツから覗く二の腕や、パツパツの胸板が尋常ではないのだ。
 櫻花が思わず「何かスポーツやってらっしゃるんですか?」と訊くと、松本と名乗った岡崎の友人は一瞬ぽかんとした顔をしたのち、満面の笑みで「内緒」と 答えた。
「いいからお前早く行けよ!」
「はいはい。櫻花ちゃん、今度ゆっくりお話しようね〜」
「はい、よろしくお願いします」
 松本が高級外車で駐車場から出て行くのを見送ると、岡崎がぐったりした顔でハンドルに突っ伏した。
「あー、ほんとあいつ……」
 大きな溜息を吐く。だがすぐに気を取り直したようで、友人の突撃などなかったかのように忘れ物チェックを済ませると、こちらも車を発進させ地下駐車場を 後にした。

 幸いなことに道路はそれほど混んでおらず、調布へ向けて車はスムーズに進んでいく。
 今の見頃は薔薇で、ひょっとしたらまだつつじも咲いているかも、などと話をしていたが、櫻花はふと疑問が浮かび黙り込む。
「んー?どしたー?」
 急に静かになった櫻花に岡崎が問いかける。
「いえ、あの、どうして今日の花見をオーケーしてくれたのかなあ、と思いまして……」
「そりゃー、できれば二人が良かったに決まってんじゃん。でもなあ、西本の旦那ならこれからも付き合い続くだろうし、それに、あいつを嫁にした男を見てみ てえ!って思って」
 にしし、とガキ大将のような顔で笑う。
 その笑顔を見て、尚美が今回の花見を企画した時の会話を思い出し、岡崎に申し訳なくなってきた。尚美の思い描いた通りに事が運んでいるのだ。
 尚美の計画に乗ってしまった櫻花は、今頃になって岡崎に対する罪悪感が湧いてきた。それでも花見は楽しみだし、複雑な心境のまま車は目的地に到着した。
 駐車場に車を停め、正面ゲートまでてくてくと歩いていく。開園時間ということもあり、正面ゲート前は家族連れやカップルなどで混雑していた。この中で尚 美夫婦を探すのはなかなかに大変そうで、電話をかけてみようと櫻花がバッグからスマホを取り出したその時、ブンブンと手を振って走ってくる女性がいた。尚 美だ。
「尚ちゃん!」
「櫻花〜、お待たせ〜!」
 櫻花と尚美がきゃあきゃあと楽しそうに話しているのを見ていた岡崎が、ふと同じように二人を見つめている男性に目をやり、固まった。
「江川専務?」
「岡崎課長?」
 大の男二人が驚いて固まっているのを見て、尚美がケラケラと笑い出した。
「あー、やっぱり二人ともびっくりした!本当は結婚式まで黙ってようと思ってたけど、その前に江川の方で結婚発表するからバレちゃうと思ったんだよね。で も、いつも冷静な課長が驚いたら素の顔を見せてくれるんじゃないかなー、と思ってちょっとイタズラしちゃいました」
 どうやら尚美も夫に友人の恋人の正体を明かしていなかったようで、昨年十一月の展示会で顔を合わせた二人は、まさかここで会うとは思っておらず未だ頭の 中を整理できていないようである。
 とはいえ二人ともいつまでも呆然としているタイプではないため、お互い挨拶を始めた。
「フォーワーズの岡崎です。いつも私の恋人が奥様にお世話になっております」
「江川観光の江川です。こちらこそ、妻がいつもお世話になっております」
「……」
「……」
 そこで一旦会話が止まり、しばしの沈黙の後、今度は大笑いを始めた。いきなりのことに心配する櫻花と尚美をよそに、二人は涙を流しながら笑っている。周 囲の人達の視線も気にせず思う存分笑った後は、はあはあと肩で息をしながら呼吸を整える。
「ちょっと庸一朗さん、どうしたのよ」
 いきなり大笑いしだした夫に何事かと声をかける尚美と、あまり友好的ではないと思われていた相手と一緒になって大笑いしている恋人を見て声も出ない櫻花 は、一体どうしたらよいか解らず二人の口から説明がなされるのを待つ他なかった。
 岡崎が目に涙を浮かべながら「悪ぃ悪ぃ」と謝るが、その声がまだ震えていて笑いを堪えているのがありありとしていて、櫻花は困惑し、尚美は憮然としてい た。
「いやあ、なんつーか、目と目で通じ合うっつー奴?俺の馬鹿みてぇな嫉妬とか全部バレた上でどうでもよくなって、こりゃもう笑うしかねえなっていう」
「波長が合う人というのは、それほど時間を共にしなくてもお互いわかり合えるものなんだよ。尚美と篠塚さんもそうでしょ?」
「まあ、それにしたって俺達わかり合えるの早すぎだけどなー」
「これからもよろしくお願いしますね、岡崎さん」
「いやいやこちらこそよろしく頼むよ、江川くん」
 挨拶をして目を合わせて笑っただけで、どうしてここまで打ち解けられるのか。櫻花は二人が自分と全く違う世界の住人のように思えてならなかった。だがそ れは尚美も同じだったようで、すっかり仲良くなった二人を見て「なんなのこのコミュ力おばけ達は……」と脱力している。
 全員すっかり忘れてしまっているがここは植物園の正面ゲート前で、周囲はこれから入場する人でごった返しており、わあわあと大騒ぎをしているため少なか らず注目を集めている。ようやくそれを思い出し、そそくさとその場を後にした。
 入場券を購入すると言って仲良くチケット売り場へ向かう男性陣の背中を見て、女性陣はひそひそと言葉を交わす。
「ねえ、課長に庸一朗さんのこと何か話した?」
「年齢ぐらいしか言っていないけど……尚ちゃんは?」
「私もよ。あとは櫻花が長年片想いしてたってことぐらい」
「……なんであんなに打ち解けてるのかしら」
「似たタイプだとは思ってたけど、まさかこんなに簡単に仲良くなるなんて思ってもみなかったわよ。あの二人が組むと厄介なことになりそうね」
 そこへチケットを買い終えた二人が戻ってきて、それぞれ片手に荷物、片手に愛する人の手を取って、ずんずんとゲートへ向かって歩いていく。
「タケさん、どこから見ます?」
「そうだなあ、つつじがまだ残ってるかもしんねえし、そっちからいくか」
「そうですね」
 チケットを買いに行っている間に何があったのかと、櫻花と尚美が顔を見合わせる。親密になるスピードにも驚くが、お互い素の自分を晒すのが苦手なタイプ だと思われるのに、容易にそれをやってのけているのにも驚かされる。
 相通じる何かがあったのだろう。元々友人同士だったのは女性陣だったのに、今では男性陣が元々の友人同士だったのではないかと思えるぐらいの親密さだ。 櫻花と尚美は、いずれこうなる運命だったのだと、もはや諦めの境地である。とはいえ、自分のパートナーが友人のパートナーと仲が良いのは悪いことではない し、これからも友人関係を続けていくにあたり、色々と物事が円滑に進みそうなので好きなようにさせるのが得策だろう。
 四人で園内に入ると、まずはつつじ園へ向かう。満開のピークからは少し外れているため枯れ始めた花もあるが、それでも一面つつじが咲き誇っている様子は 圧巻だった。身長百六十五センチの櫻花の胸あたりの高さに揃えられたつつじは、色も形も様々で、これまで櫻花がよく見知っているつつじとは違うものばか り。感心しながらじっくり見ていると、岡崎が懐かしげに言い放った一言に残りの三人が固まった。
「え?なんで?子供の頃やんなかった?」
「男子と一緒にしないで下さい、課長。女子はそんなことやりませんよ」
「そもそも、何でそんなことをやろうと思ったんですか?」
「もしかして、お兄さんも同じことを?」
「ええー!?つつじが咲いたら蜜をチュウチュウするのは子供の頃の恒例行事だろー!?なんだよー、俺だけかよー。俺と兄ちゃん、二人で実家の庭のつつじ吸 い尽くして母ちゃんにえれー怒られたことあるぐらいだぞ!?」
「あの上品そうなお兄さんがそんなことを……」
「ていうか、課長のご実家にはそんなお庭があるんですか?」
「……タケさん、ちょっとその辺のお話を詳しく聞かせてもらっていいですか?」
 岡崎の「昔はつつじなんてチュウチュウ蜜吸うおやつみたいなもんだったのに、こうやって鑑賞するなんて俺も大人になったなあ」という言葉から、彼の実家 へと話が飛んだ。
「ええ?その辺て、兄ちゃんのこと?ええと、今年三十八歳のオッサンで、嫁一人子二人の実家住まい。名前は佳太、職業は実家の食品専門商社の跡継ぎ で……」
「もしかして、プロモントリーヒルの副社長の岡崎佳太さんですか?」
「あれー、よく知ってんね。なになに、もしかして庸ちゃん、うちの実家と取り引きあったりすんの?」
「はい。実は先日、商談の後今日の話をしたら岡崎副社長が同じようなことを仰っていて」
 江川の話では、その岡崎副社長が「子供の頃弟と一緒に庭のつつじの花を吸い尽くして、弟と二人、母親にこっぴどく怒られた上にボコボコにされたなあ。あ れ、母親が丹精込めて育ててた変わった品種のつつじだったんだよね」と言っていて、あまりに話が似通っているためにもしや、と思ったのだという。
 思わぬ所で岡崎の実家と江川の実家が繋がっていることが判明し、これで益々二人の仲が堅牢なものになりそうである。
 それよりも櫻花が気になるのは、つつじの蜜をチュウチュウという謎の行為である。岡崎の話から想像するとつつじの蜜を吸うことらしいが、詳しいことが何 一つ判らない。そこで、素直に訊いてみることにした。
「威夫さん、あの、蜜チュウチュウとは一体どういうことですか?」
「ああ、つつじの花を毟って、そのケツをチュウチュウ吸うと蜜の味がすんだよ。甘いのと甘くないのがあんだけど、たぶん甘くない奴は蜂が蜜を集めてった後 の奴なんだろうなぁ。で、俺と兄ちゃんは庭のつつじを全部毟ってチュウチュウしたから、母ちゃんにボコボコ殴られて怒られたってわけ。本当にやったことね えの?」
「ないです。うちも庭につつじの木はありましたが、お社の敷地にある物だったのでそういう発想はありませんでした」
「うわぁ、俺、育ち悪ぃの解ってたけど、周りみんなそんな感じだったから、こうやって改めて現実突きつけられると辛ぇなあ」
 眉尻を下げてしょんぼりする岡崎は、その大きな身体が一回り萎んだように見えて、会社での姿しか見たことがない尚美には新鮮でたまらなかった。
 この話をきっかけに、それぞれ自分達が子供の頃どんな遊びをしていたか、どんな子供だったかの話で盛り上がる。
 そこでもやはり、岡崎とその他三人の間に見えざる壁があるのが確認された。いわゆるジェネレーションギャップというやつである。岡崎は今年三十六歳、一 方の櫻花と尚美は今年二十八歳。その差八歳というのは、櫻花達が小学校に入学した年に岡崎は中学三年生になるのだ。
「同時期に小学校に通えなかったって言われると、なんか犯罪くせぇなあ、俺」
「課長、そこは気にしちゃ駄目ですよ。お互いもういい大人なんですから」
「威夫さん、私は気にしてませんからね!?」
「タケさんが俺の歳に、篠塚さんは入社一年目だったのか……そう考えるとうまいことやったなって感じがしますね」
「ちょっと庸一朗さん!?それどういう意味よ!?」
「いや、俺は尚美しか見てないよ!」
「知ってるけど!」
 夫婦喧嘩は犬も食わないとはよく言ったもので、言い合いを始めたのに何時の間にやらなんだかいい雰囲気になっている。
「はー、馬鹿らし。櫻花、俺達だけで先行こうぜ」
「でも……」
「大丈夫。今は携帯だってあるんだし、昼になったらどこかで落ち合えばいいよ」
「それもそうですね」
 岡崎と櫻花は、江川夫妻をその場に残して隣にあるしゃくなげ園へと足を向けるのだった。