梅雨雫│01
「はーい、じゃあこれから六月の月例会議を始めます」
六月の第二水曜日、いくつかある大会議室の一つで、企画課の月例会議こと何でも会議が始まった。
櫻花は、淡口と中畑に挟まれて出入り口付近に座っているのだが、部屋の奥から浴びせられる視線が痛い。もちろんその主は岡崎で、本人は自重しているつも
りなのだが、隠しきれない嫉妬が漏れ出ているのだ。
穏やかではいられない櫻花の内心など知らない淡口は、緊張で顔が強張っている。というのも、五月の会議には同席していたものの、見学ということで何の意
見も求められずにいたため、今回が初めての本格的な会議参加となるのだ。
櫻花に言われた通り、自分なりに考えたネタも用意してはいるのだが、それをどのタイミングで提示すればいいのか判らないし、そのことばかりに気を取られ
ていては、今度は他の人の案に対して意見を求められた時、きちんと答えられない可能性もでてくる。
淡口にとっては一瞬たりとも気の抜けない、しかし他の課員にとってはお喋りの延長のような会議が始まった。
「じゃあ、今回初参加の淡口くんの話から聞こうか」
「はい!?」
「ほらほら、篠塚さんに言われて何か考えてきてんでしょ?」
「はい、それはまあ、そうなんですけど……」
原にいきなり指名されてしどろもどろになる淡口を、櫻花がそっと励ました。
「大丈夫、何を言ってもいい会議なんだから。せっかく考えてきたものを発表しないのは勿体ないよ?」
そう言われて覚悟を決めた淡口は、緊張の面持ちでガタン、と椅子の音を立てて立ち上がり、朗々とプレゼンを始めようと口を開く。だがそこで岡崎からス
トップがかかり、淡口は更に顔を強張らせた。
「淡口、そんな大仰にしなくていい。とりあえず座って」
「はい」
「配属されて二ヶ月ぐらい経つけど、どうだ?」
「ええと……」
「周りは気にしなくていい。仕事にはもう慣れたか?」
「多少は慣れましたけど、何が判っていないかが判らない状態です」
「そうか。でもそんな淡口の目から見て、何か気付いたこととかあるだろう?」
「気付いたこと、ですか。そうですね、皆さん和気藹々としてて、本当に仕事をしているのか疑問に思うこともあるんですけど、それでも、前回の会議を見学し
ていて、あれだけポンポン話が出てくるのは凄いなって思いました。だから、もうちょっと視野を広げようとあちこち出歩くようになりました。その辺、皆さん
はどうなんだろうって気になってます」
突然始まった面接のような会話に、他の課員達は興味津々だ。
「それはいい心がけだな。俺もつい最近、自分の視野の狭さを痛感したばっかりだからな。で、そこから何かいいアイデアは浮かんだか?」
「それがなかなか難しくて。なんとかない知恵を絞って考えてはみたんですが」
「それ言ってみろ」
「はい。今の季節に外を出歩くとどうしても目につくのが傘なんですが、傘ってもう何世紀も同じ形なんですよね」
岡崎の面接風の会話からネタ出しへのスムーズな誘導にまんまと乗せられ、淡口はメモも見ないまま話を始めた。
「傘ってやっぱり、使うのが楽しい方が雨の日の憂鬱が減少するんじゃないかと思うんです。外側の柄がいくら綺麗でも、差してる時にはそれは見えないじゃな
いですか。だから、内側に何か綺麗な絵を入れたらどうかな、と。最近いろんな会社が傘に創意工夫をしていて、その中でも見かけたことはあるんですが、他社
が出している星空柄とは名ばかりの白い点がパラパラと点在しているようなのではなくて、星空なら星空で、例えば夏の夜空そのものをプリントしたような柄に
したり、せめて傘の中では晴れていて欲しいから青空に積乱雲があったりとか、そういうのがあってもいいんじゃないかな、と思うんです」
あれほど緊張していた淡口が、立て板に水、とばかりにペラペラと喋っている所を見た他の課員達は、その内容よりもまず岡崎の口の巧さに感心していた。普
段あまり喋らず、寡黙なイメージがある課長が、新人を口車に乗せている。それは課員達にかなりの衝撃を与えるものだったようだ。
「傘の裏側に絵か。でもそれだけだと他社の追随にしかならないぞ」
「そうなんですよね……」
淡口自身もその点には気付いているようで、ここから先どうやって良い物にしていくべきなのかが判らないのだと言う。
「それを話し合うのがこの会議だからねぇ。いいんだよ、それで」
原のフォローに皆が頷き、そこからあれやこれやと意見が出始めて、その話題はあっという間に発言者の手から離れてしまった。
驚いて目を丸くしている淡口をよそに、先輩達は思いついたことを次々と口にしては、それが面白いか面白くないかの判断を下していく。
「初めてにしてはなかなかいいネタを出してくれた淡口君には、これを正式な企画書にする権利をあげよう」
原がニヤリと笑ってそう告げる。
「はい、頑張ります!」
新入社員にとってはとても大きな仕事を任された、と張り切る淡口は、原の悪巧みに気づけるはずもなかった。横でそれを見ていた櫻花は、目を輝かせている
淡口に厳しい現実を突きつけるのを心苦しく思っていた。それでも、言わなければならないことには変わりはないし、いつまでもグズグズしていれば状況は悪化
の一途をたどるばかりだ。
櫻花は、意を決して横に座っている淡口の肘をチョンチョンとつついて話しかける。
「ねえ淡口くん。今この場で上がった提案、全部覚えてる?」
「えっ?」
「雑談に見えるけど、これ、一応会議だから。淡口くんの案に対する他の人の意見のうち、みんなが異様に盛り上がったものがいくつかあるでしょ?それは採
用って意味だから」
「なんですかその初見殺しの無理ゲーは……」
がっくりと肩を落とした淡口が放った一言は、これまでの真面目一辺倒なイメージとはかけ離れていて、櫻花は少し驚くと同時にそれを発揮しないのは勿体な
いと思うのだった。
だがそれより今は、目の前で繰り広げられている雑談のような会議で出てくる話を漏らさずチェックすることだ。だからと言ってメモを取ってばかりいると、
すぐに意見を求める声が飛んでくる。会話に参加しつつ内容をメモするのはなかなか難しいことで、櫻花も慣れるまでは苦労をしたものだ。
淡口にいきなりそれをやれと言っても無理な話で、櫻花はメモは後で見せるから今はとにかく話に参加しなさい、と言って積極的に話に入っていくよう促し
た。
その間にも、話題はどんどん変わっていっており、淡口は会話に参加するどころかついていくだけで精一杯の様子。
そんな新人をからかって遊んでいるのか、それともいっちょ揉んでやろうとでも思われたのか、皆が必ず淡口に意見を求めてくる。淡口もその都度、答えよう
とするのだが、何かいいことを言わなければと思っているうちに、結局は別の人が話を引き継いでしまう。それの繰り返しで、会議が終わる頃には精神的にも肉
体的にもノックアウト寸前になっていた。
ぐったりとテーブルに突っ伏してなかなか動けない淡口を、櫻花と中畑で元気づけてなんとか立ち直らせる。
「淡口くん、最初はみんなそうだから」
「そうそう。私なんて一年経ってもまだ話の展開の速さについていけないことあるもん」
「とりあえず後片付けして会議室閉めよう?この後ここ使うかもしれないし」
「……そうですね。自分のことしか考えてませんでした」
むくりと起き上がった淡口の顔はやつれていて、よほど精神的に堪えたのだなと推察できる。
それでも気力を振り絞って立ち上がった淡口は、櫻花や中畑と一緒に会議室の後片付けをして、今度は連れ立って総務課へ向かった。
「会議室は総務課が管理してるから、予約する時は総務に連絡すること。それから、会議室には鍵がかかっているから、使う前には必ず鍵を借りに行くこと。も
ちろん返却も忘れずに。これから毎月、この会議のための予約と鍵の受け渡しは淡口くんにお願いするからね」
「はい」
たかが会議室の予約、されど会議室の予約。大事な仕事を任されることになり、淡口の気持ちは少し上向いた。入社してまだ二ヶ月弱、やれることなどほとん
どないと思っていたが、今日の会議では出したネタを面白いと言ってもらい、更に企画書にまで格上げしてみろとも言われた。そして会議室の予約の一任。少し
ずつではあるが、自分も会社の役に立てているのだという実感が湧いてきて、つい先ほどまであんなに参っていたのが嘘のように元気を取り戻していた。
若干足取りが軽くなった淡口を連れた櫻花達が総務課に到着すると、案の定尚美が待ち構えていた。
「鍵を返却する時は、総務の人が出してくれたカードリーダーに社員証をタッチすれば完了だからね」
「はい」
「ということで、鍵の返却をお願いします」
「はいはい」
櫻花が後輩を指導している姿を初めて目にした尚美は、なんともこそばゆい気持ちでいっぱいになっていた。
そんな気持ちを押しやって、事務的に鍵を受け取り、差し出したカードリーダーに社員証をタッチしてもらうと、そこに出てきたのは女性の名前だった。だが
写真と本人の顔は同じだし、これはもしやシステム異常なのではないかと尚美が焦っていると、当の本人が慣れた口調で真相を告げた。
「ああ、綾って書いてりょうって読むんです。すみません、紛らわしくて」
「はー、そうなの!?いい名前だけど、でも……色々大変なんじゃない?」
「そうなんですけど、ええと……」
「西本尚美よ」
「西本さんがいい名前だと仰ってくれたように、自分でもいい名前だと思っているんです。だからあんまり大変だとは感じてなくて」
「やだ、なんていい子なの!ねえ、櫻花今の聞いた!?」
「うん。淡口くんって、話せば話すほど第一印象から変わって見えるよね」
「あー、それ解ります!ていうかあれでしょ、淡口くん、なかなか他人に心を開かないタイプでしょ。で、慣れたら全開にしちゃう系」
最初は女性三人の勢いに飲まれ気味の淡口だったが、それでもなんとか気を取り直して、尚美にあれこれと質問をするまでに回復している。
「あの、西本さんと篠塚さんは同期なんですか?」
「そうよー。あ、ちなみに私既婚者だから」
「いえ、別に狙ってないです」
「そこは嘘でも『残念です』って言わないと!」
そういう所も淡口の長所なのかな、などと櫻花が思っている間にも二人の会話はどんどんと続いていく。
「西本さんて、見た目凄くゴージャスですけど、中身ちょっとオッサン入ってません?」
「なんで判るのよ、あなたエスパー?」
「いえ、うちの姉が同じタイプなので」
「へえ」
「でもそれは、繊細さを隠すためのオッサン化なんですよね」
「……この子やだ!なんなのもう!」
あまり人に知られたくなかった事実をズバリ言い当てられた尚美は、苦虫を噛みつぶしたかのような顔をしている。櫻花は尚美のそんな顔を見られるなんて珍
しい、と思いながら、また一方で淡口の観察眼の鋭さに舌を巻いていた。
これだけの眼があるなら、今後きっといい仕事をしてくれるようになるだろうと、今はまだ希望でしかないがそんな未来が目に見えるようだった。
終業の鐘が鳴った所で雑談は終了となり、櫻花達は企画課へ戻って行く。廊下を歩きながら楽しそうに話をしている中畑と淡口の背中を、櫻花は身の引き締ま
る思いで見つめていた。彼らを伸ばすも殺すも自分次第、という教育担当の重責を今更ながらに実感したのだ。
とりあえずは明日からの展示会の手伝いで、淡口がどれだけのものを吸収するかを楽しみにすることにして、今後の方針は課長である岡崎にも相談した方が良
いと思う櫻花だった。