梅雨雫│02
翌日、櫻花、中畑、淡口の三名は営業課の若手メンバーらと共に、社用車で有明に向かっていた。金曜日から開催される
展示会の準備にかり出されたのだ。
今回は純粋に手伝いだけなので、櫻花としては心が軽い。その分たくさん働こうとは思っているのだが、右も左も判らない新人を連れているので、そうそう自
由に動けるわけでもなかった。
「中畑さんは、もう一人でも大丈夫よね?」
「はい!」
「じゃあ、今日は一人でよろしくね?私は淡口くんと一緒にいるから、何かあったら声かけてね」
「はーい」
会場に到着すると、先発隊は既に準備に取りかかっていた。櫻花達は社用車に積んできた荷物をどこへ置くか、どう配置するか等の指示を受けて、間違いのな
いよう気をつけながらせっせと身体を動かした。
今回のコンセプトは「お姫様の暮らし」ということらしく、展示品に選ばれたのはフォーワーズの中でも高価格帯のものが多い。万が一にも壊してしまった
ら、と思うと、荷物を運ぶ手にも力が入るというもの。
ブースの設営作業は順調に進んでおり、段々お姫様の暮らしが形作られていく。普段はなかなか目にすることができない舞台裏を見るのが楽しみで、櫻花は毎
回率先して手伝いを買って出ていた。それは勉強になるから、という面もあって、設営しているとコンセプト案を出した人の頭の中を覗いているような気になる
のだ。
作業がきりのよい所まで進んだこともあり、休憩を取ることになった。全員が一度に抜けるわけにはいかないので交代で昼食を摂ることになり、人数の多い櫻
花達企画課メンバーはメインとサブの二手に別れることにして、まずはメインの数名が現場を離れていった。
その間、櫻花は若手二人を連れて設営途中のブースを端から端までじっくりと見て回る。
「淡口くん、今日運んだ商品の名前って全部覚えてた?」
「それがまだ全部は覚えてなくて……商品名を覚えるコツってあるんですか?」
「うーん、コツというのは特にないかな」
「ですよねぇ」
「じゃあさ、淡口くん、今から品名当てクイズしようよ!もし全問正解なら先輩であるこの私がお昼奢ってあげる!」
「ええ!?今、俺、全部は覚えてないって言いましたよね!?」
「だからじゃーん。何かエサでもあれば思い出すかもしれないし」
中畑の提案により、急遽商品名当てクイズが開催されることとなった。現在セッティングが終わっているのは六割程度、その全商品名を当てれば中畑が淡口に
昼食を奢るということになる。
どう考えても分が悪いのは淡口で、中畑はそれを見越してクイズを持ちかけたと思われる。だが淡口もおめおめと負けるわけにはいかない。二人の間に見えな
い火花が散り、バトルが開始された。
中畑に「篠塚さん、公正なジャッジをお願いします」と言われ、櫻花も二人の後をついて歩く。
中畑と淡口が「これは?」「それは○○」などと言い合いながら展示スペースをくまなく歩いていく。櫻花はその後ろで淡口が間違えたかどうかをチェックし
ていたのだが、その様子を見た営業課のメンバーがそろりと寄ってきて、あの二人は一体何をやっているのかと訊ねてきた。
櫻花が事情を説明すると、その営業課員は「よし、うちもそれやろう」と張り切って去っていった。おそらく同じことをするのだろう。櫻花は営業課の新人に
申し訳ないと思いながらも、こういう遊びを通して自社商品への知識を深めていくやり方はありだな、としっかり心の中にメモを残した。
その間にも二人はクイズを続けていて、そろそろ終盤戦にさしかかったところだ。残りの品数も少なく、淡口はあともうひと頑張りすれば無事お昼を奢っても
らえるというその時、櫻花は突然耳元で囁かれた。
「はーるかちゃん」
今ではすっかり聞き慣れた甘さをたっぷり含んだバリトンに、一瞬今自分がどこにいるのかを忘れそうになるが、なんとか堪えて犯人を睨み付けた。
「あいつらは一体何をやっているんだ」
櫻花の睨みなどものともしない岡崎は、若手二人の問答を不思議そうな顔をして見ている。渾身の睨みをあっさり流された櫻花は内心悔しい思いをしながら
も、もうすっかり上司の顔に切り替えてしまった岡崎に、これまでの経緯を説明した。
すると岡崎も櫻花と同じように思ったのか、これは来年以降の新人教育に使えるかもしれないな、と呟いている。それを聞いて、櫻花は心がほんわりと温かく
なるのを感じていた。同じようなことを考えていること自体も嬉しいし、自分が思った方向性が間違っていないと判ったことも嬉しい。
「それで、淡口の成績はどうなんだ?」
「今のところ全問正解です」
「そうか」
現在の状況を聞いた岡崎は、ツカツカと二人に歩み寄って語りかける。
「よし、じゃあ最終問題は俺から出そう。今展示されている商品の中で、篠塚が企画した物はどれだ?当てたら俺が昼飯を奢ってやる」
「ええ!?」
驚いたのは櫻花だ。確かに今回の展示には櫻花が企画して商品化されたものも含まれているのだが、なぜそれをこの二人に当てさせようなどとしたのか。岡崎
の考えた物もあるというのに、どうしてそちらにしないのか。そもそも二人は商品名当てクイズをやっていたのに、その企画者を当てることに何か意味があるの
だろうか。
恥ずかしさで悶絶しそうになっている櫻花をよそに、中畑と淡口はどれが櫻花の企画から作られた物かを考えている。こんなことなら書類をよく見ておけばよ
かったー、などと呟きながら、商品から櫻花らしさをくみ取ろうと必死になっている。
とはいえ、企画書が通った後は商品開発課との抗争の後に商品化されるので、どこまで“らしさ”が残っているのか疑問である。
櫻花が妙な緊張を抱きながら待つこと一分。制限時間を迎えて二人が岡崎の元へ戻ってきた。それぞれ「これだ」と思うものをピックアップしていて、その顔
には自分の選んだ物こそ正解だという自信が浮かんでいる。
「じゃあまず中畑から」
「私はこれです」
中畑が選んだのは、淡いピンク地の布に豪奢な牡丹の刺繍が入ったランチョンマットだった。確かにこの淡いピンクというのが、名前に桜の文字が入っている
櫻花らしいと言えるかもしれない。
「では次、淡口」
「俺が選んだのはこの鏡です」
淡口が選んだのは、スワロフスキーがびっしりと埋め込まれたスタンド型の鏡だった。日々のメイクやスキンケアの時、こういうキラキラした鏡に向かえばさ
ぞ楽しかろうという物だが、果たしてこれは櫻花の企画したものなのだろうか。
櫻花はなるべく表情を消して答えを悟られまいとしているが、それは岡崎の口からあっさりと明かされた。
「せっかく俺が昼飯奢ってやるって言っているのに、残念だな」
「そんなぁ!」
「自信あったのに……」
二人はあからさまにがっくりと肩を落とし、手にしていた商品を元の場所にきちんと戻しに行った。その後ろ姿を見送りながら、櫻花は岡崎にこそりと耳打ち
をする。
「ちょっと可哀想じゃないですか?」
「どうしてだ」
「だって……二人とも絶対判らなさそうじゃないですか」
「だろうなあ」
岡崎は、会社ではあまり見せない悪い笑顔を見せている。恐らく二人は正解できないと判っていて、この最終問題を出したのだろう。
「まあ昼飯はちゃんと奢ってやるから心配するな」
くくくっ、と楽しそうに笑う岡崎を見て、もっとこういう所を会社でも出していけばいいのに、と櫻花は思う。だが仮にも課長職にある人間が“あの”素の姿
を出す訳にはいかないのもよく解っている。この上司は非常に難しいバランスを巧く取りながら日々を過ごしているのだ。
そこへしょんぼりとした二人が戻ってきた。
「そういえば、この時間に課長がいらっしゃるということは、何か問題でも発生したんですか?」
本来夕方から顔を出すはずだった岡崎がこの時間にいることの理由が解らず、中畑が首を傾げる。確かに言われてみればその通りで、櫻花は思わぬ所で会えて
嬉しい気持ちが優先してしまい、そこまで考えが及ばなかった自分が情けなくなる。
それでも、もしトラブルがあったのなら微力ながらも手を貸そうと思い、恥じ入りながらもなんとか言葉を絞り出す。
「何か私達に手伝えることはありますか?」
「いや、別に何かあったわけじゃないから気にするな。ただちょっと早く来ただけだ」
緊張の面持ちで佇む三人に対して岡崎が返した答えは、なんとも拍子抜けするようなものだった。特にトラブルがあったわけでもなければ、忘れ物を持ってく
るよう頼まれたわけでもなく、ただ単に予定を繰り上げてきただけだと言うのだ。
だがトラブルがないのはよいことだと、すぐに気持ちを切り替えた。この後もまだ準備は残っているのだし、ここで気を抜いてはいけないが、あまりピリピリ
しすぎるというのも却ってよくない結果を生むことになるからだ。
そんなやり取りをしている間に、先に休憩に入っていたメンバーが戻ってきた。
「あ、課長、お疲れ様です。何か問題でもありましたか?」
やっぱりそこに一番に気づくよね、と思いながら再び気持ちが沈んだ櫻花はそのやり取りを見守っている。
「いや、特に問題はない。手が空いたから早く来ただけだ。夕方には原も来るから、何か足りない物とかあるなら早めに連絡しておけよ」
「はい」
「じゃあこれからこいつら連れて昼飯行ってくるからな」
「はい、行ってらっしゃい」
ゆっくりしてきていいよ〜、と送り出され、四人は会場近くのレストランへと向かった。その道すがら、中畑と淡口が岡崎にまとわりついて先ほどのクイズの
答えを聞き出そうとしている。
「課長、私が選んだランチョンマットは誰の企画だったんですか?」
「俺もあれは篠塚さんぽいなって思ったんですけど、違うんですよね?」
「お前達二人が選んだやつは、両方とも原の企画だ」
「ええーっ!?」
「原主任、あんな乙女っぽいものを!?」
二人の中の原のイメージとはかけ離れていたのだろう。そこそこ付き合いが長くなってきた櫻花にしてみれば不思議でもなんでもないのだが、まだ数ヶ月から
一年ほどしか接していない二人には、原の一見チャランポランな所が、彼から考え出された商品と結びつかないのかもしれない。
三人のすぐ後ろを歩きながら、この様子だと正解を聞いたらさぞ驚くのだろうな、などと櫻花が考えているとは思いもしない中畑と淡口の二人は、一連の質問
の核心に触れた。
「で、結局篠塚さんのってどれだったんですか?」
「そうですよ。答えを聞かないと俺達も納得いきません」
「傘立てだ」
「え?」
「傘立て?」
「ゴシック調のゴツいのあっただろ?あれだ」
「えええーっ!?それ本当ですか!?」
「ふんわりした感じの篠塚さんが、あんなゴツいのを!?」
「ははは……」
予想以上に驚かれ、櫻花は苦笑いするしかなかった。自分ではふんわりしているつもりなどないのだが、だからといってビシッとしているわけでもないから、
そう言われても仕方のないことだと思っている。それに、普段の言動からそういったものが好きだなどとは匂わせたことなどなかったのだから、驚くのも無理は
ないだろう。
実際櫻花はゴシック調のものが好きだということはないし、第一、趣味嗜好にばかりこだわっていてはよい企画書など作れない。その辺りのことが、まだ経験
の浅い中畑や淡口には実感できていないのかもしれない。
「はー、やっぱりこの仕事は奥が深いですね。私も淡口くんもノーマークでしたもん」
「本当ですよね。なんか凄く面白いなって思いました。昨日、きちんとした形で考えろって言われた傘、頑張って採用してもらえるようないい企画書にしたいで
す。それで、いつか篠塚さんの傘立てに俺の傘を立てて展示してもらうのを目標にします」
淡口がキラキラした目で語る意気込みを、岡崎は能面のような顔をしながら聞いていた。内心は大嵐が吹き荒れているのだが、それを辛うじて押さえ込んでい
るためだ。
岡崎には、淡口の言葉が純粋な憧れからきているものなのか、それとも比喩を含んでいるものなのか区別がつかないでいる。前者だとしたらいいが、もし後者
だとしたらこいつは危険極まりない存在だ、と脳内に警報が鳴り響く。言うに事欠いて「篠塚さんの傘立てに俺の傘を立てて」だなどと、もし比喩だとしたらと
うてい許せるものではない。
ドロドロとどす黒いマグマが腹の中に渦巻くが、今はまだ仕事中。なんとか気持ちを切り替えて、部下三人に昼食を奢る岡崎だったが、午後はいつも以上に口
数が減り、眉間の皺は深く刻まれる。
夕方になってやって来た原が、その様子を見てくすりと笑う。だが岡崎はそれにすら気がつかず、随分と心に余裕がないのだな、と原はある種の危機感すら覚
えた。
「これは後で篠塚さんに事情を聞いておかないとなぁ」
面倒な上司を持つと部下は大変だなあ、でも面白いからいいけどね。という原の小さな呟きは、会場の設営が佳境を迎え喧騒が増した会場に溶けてゆき、誰の
耳にも届くことはなかった。