梅雨雫│03

 展示会初日、櫻花は淡口と共に手伝いという名の雑用係に勤しんでいた。中畑は昨年も経験しているため、今回は会社に 残って通常業務に当たっている。ただし、何か緊急事態が起これば動くのは彼女なので、実は一番損な役回りといえなくもない。
 朝からバタバタと走り回っていたが、昼前になって少し人出も落ち着きが見えてきた。そこで櫻花は、淡口をしばらく会場内に解き放つことにした。同業他社 はもちろん、その他多くの企業が出展しているこの展示会に来ておいて、会場を見て回らないのは探究心の欠片もない証拠だ、という今朝の朝礼での岡崎の言葉 を受けてのことだった。
「本当に大丈夫なんですか?」
 少し不安そうな淡口に、櫻花はこれまた岡崎の受け売りである言葉を掛ける。
「大丈夫よ。別に産業スパイってわけでもないし、パクるわけでもないし、堂々と見学させてもらってくればいいの。現にうちのブースにだって他社さんが見に 来ているでしょう?」
「そう言われてみれば、確かに……」
 どうやら納得したらしい淡口は、櫻花の「何かあったら、私でも課長でも誰でもいいからすぐに電話してね。あと、こっちからもかける可能性があるから、そ のつもりで」という言葉に真剣な顔で頷き、持ち物をチェックすると意気揚々と出掛けていった。
 見回せば岡崎の姿も見えず、きっとどっかで何か重要な仕事でもしているのだろうと、今回の責任者である企画課の先輩に淡口と自分が抜けることを報告し た。
「なるべく早めに戻ってきます」
「わかった。何かあったら電話するから」
「はい。ではちょっと行ってきます」
 そうして櫻花が自社ブースを離れ展示会場の見学に出た頃、岡崎は実家が何かとお世話になっている会社のブースで挨拶をしていた。と、そこへ見慣れた優男 が現れるではないか。まるで何か惹かれるものがあってつい吸い寄せられてしまった、といった感じで、視線は展示物に行っておりこちらには気付いていない様 子だった。
 岡崎は気もそぞろになりながらなんとかきちんと挨拶を済ませ、その優男の視界からそっと外れて行動を注視していた。身長百八十六センチの大男がコソコソ と物陰に隠れている様子は異様で、その容姿が整っていることも相まって衆目を集めているのだが、本人はそれどころではないためそのことに気付いていない。 この岡崎らしからぬ鈍感さは、若い頃に人から注目をされる生活を送っていたため、それに慣れてしまったという理由もあるかもしれない。
 彼らの周囲を妙なざわつきが漂う中、しばらくの間その優男をこっそりつけ回していたが、これといって面白い行動も見られなかったため、岡崎は偶然を装っ て声を掛けることにした。
「淡口」
「あっ、課長、お疲れ様です」
「こんな所でフラフラしているということは、今ブースは暇なのか」
「はい。篠塚さんに見学してこいと言われまして」
「そうか。それで、何か感じる所はあったか?」
「それがなかなか難しくて。どういう目線で見ればいいか解らなくなっていた所なんです」
 そう言って眉尻を下げながら溜息を吐く部下を、岡崎は懐かしい思いで見つめていた。自分も昔、入社して間もない頃に同じような気持ちを抱えていて、あの 時は先輩や上司の助言で前に進んだものだった。
 もうここ何年もあの頃の先輩達の役割を担うようになっていて、時の流れの速さを感じずにはいられない。それと同時に、自分はあの先輩達のような良い先 輩・上司として受け止めてもらえているのだろうかという不安も募る。
 だがここでそんなことを顔や態度に出す岡崎ではない。そのことに、我ながら面の皮が一段と厚くなったものだ、などと心の中で苦笑しながらも部下へのアド バイスは忘れてはいなかった。
「何も難しく考えることはない。自分を客だと思って見ればいい」
「でも、それで本当に勉強になるんですか?」
「じゃあ訊くが、例えばそのスーツを買う時に何を考えて購入を決めた?」
「ええと、会社で着るのに適しているかどうか、自分に似合うかどうか、自分の好みかどうか、生地や縫製がいいかどうか、最終的にはそれらを総合して自分に 支払える金額かどうか、ということですね」
「そこにメーカーとしての考えは入っているか?スーツ一着作るのに必要なコスト、余剰在庫を作らないための生産量、販売現場から上がってくる顧客の生の 声……そんなの気にしないだろう?考えるとすれば『この生地、この縫製でこの値段は高いと感じるか否か』ぐらいのものだろう」
「それはまあ、そうですね」
「うちの商品にしても、例えば篠塚の傘立てだって、お客さんは『家の玄関にこんなゴージャスな傘立てがあるといいな』『見た目に反して使いやすいな』『で もちょっと高いかな』ということを考えて購入を決める。だいたい、うちの課が出した企画書がそのまま商品になることなんてあり得ないんだから、他社さんの 商品を見る時も『これいいな、欲しいな』ぐらいの緩い見方でいいんだよ。ああ、そう考えたらお客さんの方がシビアな目で見ているかもしれないな。だから、 他社さんのブースを見て回る時に必要なのは、広い視野を持つことぐらいかな。あまり意気込まない方がいいぞ」
 解ったような解らないようなといった感じで難しい顔をしている淡口に、岡崎は「だからそう難しく考えるな」と肩を叩いて言う。
 未だ混乱の中にいる淡口を前に、岡崎は本当に訊きたかったことをどう切り出すか迷っていた。ストレートに訊いて二人の関係に言及されて櫻花に迷惑をかけ てもいけないし、だからといって回りくどい訊き方は苦手だ。
 悶々としている岡崎と、混乱している淡口。美丈夫と優男が二人揃ってうんうん唸っていれば嫌でも注目を集める。他社のブースの邪魔にならないよう端の方 にいたにも関わらず、何事かと周囲がざわつき始めた。
 それに気付いた岡崎が、淡口の腕を掴んで慌ててその場から去っていく。後方で黄色い声が上がるのを不思議に思いながら、とりあえずホールを出て人の少な い所へ避難する。
「はぁ……うかうか考え事もできないとはな」
「後ろでなんだかキャーキャー言ってましたけど、何かあったんですかね?」
「さあな。有名人でもいたんだろ。それより」
 岡崎はそこで言葉を切り、腕時計をちらりと見やって続ける。
「もう昼だが、休憩は取ったか?」
「いえ、まだです」
「よし、じゃあ今から飯にするぞ」
 言うが早いかどこかに電話をし、これから二人で休憩に入る旨を伝えた。それから今度はメールを送り、何事もなかったかのようにスマホを仕舞うと「いく ぞ」と一声かけてスタスタと歩き出した。
 淡口はあっという間の出来事にぽかんとしていたが、はっと我に返って慌てて岡崎の後を追って行く。
 昼時ということもあって展示場内のレストランはどこも混んでいるが、客席数が多いためあまり待ち時間のないまま席へと案内された。
「二日連続で上司と昼飯なんて嫌だろうが、まあ我慢してくれ」
「いえ、そんなことないです!課長の素晴らしさは日々篠塚さんから伺っています!」
 岡崎はさぞ鬱陶しがられていることだろうと思い訊いてみたのだが、なぜか思っていたのと正反対な反応が返ってきてしまった。普段一体どんな話をしている のか、その辺も聞き出さなければならないだろうな、と昼食時のミッションに付け加える。
 注文からほどなくして料理が運ばれてきて、あまりゆっくりもしていられないこともあり、食べながら話をすることにした。
「ちょっと確認しておきたいんだが、普段篠塚から何を聞かされているんだ」
 櫻花が自分を上司として評価してくれているのは知っているが、それをどう他人に話しているのか、岡崎はどうしても知りたかったようで、まずはそちらから ノルマをこなしていくことにした。
 そもそも、恋人が自分の仕事ぶりを他人に語る機会など社内恋愛でしかありえないし、それを語られた本人からその内容を聞き出すというのは非常に稀なこと だろう。その滅多にないチャンスをしっかりと生かして、今後の参考にしようと思っているらしい。
「そうですね……毎朝一番に出勤してきてるのに遅くまで残っているけど、私達の倍以上の量の仕事をこなしてるんだよ、とか、進捗状況はサーバーに上げてる けど、それ以上に詳しく作業内容を知られててたまにエスパーかと思うことがある、とか」
「エスパー……」
「そうやって眉間に皺が寄っている時も、怒っているとは限らないと聞きました」
「……っ!」
 新入社員に何を吹き込んでいるのかと思えば、仕事ぶりだけではなく余計な情報まで付け加えているではないか。このままでは課長としての威厳が、などと 思っている時、淡口から更なる爆弾が投下された。
「これ、本当は内緒にしておいてと言われたんですが、相手がご本人ならいいですよね。いつだったか、篠塚さんがついうっかり口を滑らせたといった感じで教 えてくれたんですけど、課長、実は歌が上手なんだそうですね。ああ、もちろん他の人には言っていませんが、その時の篠塚さんの慌てぶりといったら。先輩に 対してこう言うのは良くないのは解っているんですが、なんか凄く可愛いなって……」
 その言葉を聞いた岡崎は、どう切り出すか決めかねていた質問を、この流れに乗じて投げかけてしまおうと考えた。
「お前もしかして篠塚のことを?」
「ああ、いや、なんというか、高そうな指輪をしているので、彼氏がいるんだろうなーとは思っているんですけど……って、え?」
 淡口はその時ようやく、岡崎の様子がおかしいことに気がついた。口元は笑みをたたえているのに、目が一切笑っていないのだ。そして全身から醸し出される 威圧感に、ひぅ、と息を呑む。
「どうした、早く食ってしまえ」
 その言葉にも棘があるように感じてしまい、そこでようやくその原因に思い至った。
「あの、課長、もしかして篠塚さんと……」
 恐る恐るといった淡口のその言葉に心から笑った岡崎の笑顔は、櫻花が日頃「会社でも見せればいいのに」と思っている、素の笑顔だった。
「誰にも言うなよ?」
「はっ、はい!」
「それと、これは俺から個人的な依頼なんだが」
「なんでしょうか」
「俺はあいつにばかり目をかけてやるわけにはいかない。左手薬指の指輪という虫よけがあるとはいえ、いつ何時悪い虫が寄ってこないとも限らない。だから、 常に一番近くにいるお前に監視をして欲しいんだ」
「それは責任重大ですね」
「そうだ。できるか?」
「解りました。頑張ります」
「頼んだぞ」
 こうして岡崎は、淡口の中で芽生える前の恋心を握り潰しただけに留まらず、櫻花の一番近くに番犬を置くことにも成功したのだ。
 そこからは普通に仕事の話をして昼食を終え、自社のブースに戻る頃にはいつもの課長の顔に戻っていた。
 そんな岡崎を見た淡口は、その切り替えの早さと徹底した他人行儀ぶりに舌を巻き、これでは判るはずもないなと納得をした。淡い憧れを抱いていた先輩に近 づく男がいないかどうか監視するという任務は非常に荷が重いが、ほんの二ヶ月ほどしか一緒に働いていない間に自分の目で見て、そして櫻花に聞いてその仕事 ぶりを尊敬の眼差しで見ていた上司に頼まれたのなら是非もない。
 櫻花にはバレないようにミッションをこなしていくためにはどうすればいいか、それを考えるのもまた楽しそうだと、淡口は昨日からずっと頭を悩ませていた 企画書のことなどすっかり忘れてしまっていた。