梅雨雫│04

「今年も納涼会と称した野球観戦するんですかね?」
 展示会も無事終わり、企画課内からうすぼんやりした空気が一掃された七月のある日、このところ淡口につきっきりだった櫻花と久しぶりに昼食を共にしてい る中畑が、何気なく発した言葉に反応を示したのはその淡口だった。
 作っていた企画書がなんとか提出できるレベルに達したということで、今日からはお昼も好きにしていいよ、と言われた――昨日までは昼休憩中もあれこれ質 疑応答していた――のだが、なんだかんだと理由をつけて今日も一緒に食堂へ来ているのだった。
 せっかく女子同士の積もる話でも、と思っていた中畑は一瞬嫌そうな顔をしたのだが、そこは先輩の懐深い所を見せたいという気持ちが勝って、最終的には三 人で昼食を摂ることになったのだ。
 そんなわけで中畑のふとした疑問に淡口が食いついたのだが、櫻花としてはあまりその話題に触れてほしくはなかった。あれは元々原がチケットを用意し、何 らかの意図を持って四人で野球観戦に行ったのだと今なら解るからだ。あの時には何もなかったが、あれでより岡崎のことを意識することになったのは間違いな かった。
 櫻花がそんなことを考えているとは知らない中畑は、去年の野球場で見た花火が想像以上に良かったとか、外で飲むビールは美味しいとか、野球がさっぱり解 らなかったけど原主任に教えてもらったから楽しく過ごせた等々、いかに楽しかったかを淡口に語って聞かせている。
「でも今からそんないい席のチケットが取れるものなんですか?」
「原主任がチケットを用意してくれたから、私もよく解らないんだよね」
「でもいいなあ、ナイター見ながらビール飲んで花火見物かぁ」
「楽しかったよぉ」
「今年もあるかどうか原主任に聞いてみた方がいいんじゃないですか?」
「そうかも!もし行けそうなら淡口くんも行くよね?」
「はい、ぜひ!」
「これ以上人数増えると原主任も大変だろうから、他の人にはナイショね?」
「わかりました」
 二人は今年も行く前提で盛り上がっているが、本当に行けるかどうかも判らないのにぬか喜びにならなければいいが、と櫻花は難しい顔で黙々と食事を続けて いる。と、そこへまるでタイミングを計ったかのように原が足取りも軽くこちらへやって来た。
「楽しそうだね、何の話してるの?」
「あ、原主任、いい所へ!」
 中畑と淡口は原を下にも置かぬ勢いで迎え、さすがの原も少々面食らった様子。それでもすぐにいつもと変わらぬ笑顔を浮かべ、一体何がどうしてこんな扱い を受けているのかを聞きだそうとした。
「どうやら俺が話題の主だったみたいだね。何?悪い話じゃないといいんだけど」
 と言いながらも、箸を休めようとはしないのはさすがだ。昼休みは短いのだ、時間は有効に使わなければならない。
「さっき中畑さんに聞いたんですけど、去年課長と主任と篠塚さんと中畑さんの四人でナイターを観に行ったそうですね」
「ああ、行ったねー。夏は花火を上げるから、半分はそれ目当てだったんだよ。でもそれがどうしたの?」
「凄く楽しかったから今年もやらないのかなー、と思ったんですけど、あのチケットって主任が用意してくれたものだから、今年も頼めるのかなあとか、そうい うことなんですけど」
 中畑がチラリと櫻花に視線を寄越す。櫻花はその意味ありげな視線に戸惑うが、ここは話に乗っておいた方がよかろうと考えた。
「あれって本当は主任が元々四枚しかチケットを取らなかったんですよね?」
「あらら、バレてたか」
「だって、あんないい席を言っただけ取れるはずないですもん。いくら野球に疎くてもそれぐらい察しがつきます。だから、今年も、となると主任が大変なん じゃないかと思うんですが……」
 櫻花は暗に「無理をしなくていいんですよ?」という意味を込めたのだが、即座に事態を把握した原はそんな手に乗ることはなかった。
「たぶん大丈夫だと思うよ」
 その言葉に若手二人は大喜びで、櫻花はガックリと項垂れる。
 そういえば去年の野球観戦の日以来、どうも中畑に自分と櫻花の仲を疑われていたよな、ということを思い出した原は、こちらが手を貸すまでもなく二人の仲 が収まるところに収まっていることだし、そろそろ種明かしをしておこうと考えた。
「だけど、今年はたぶん俺は行けないけど、それでもいいかな?」
「チケット取ってくれる主任が行けないのに、私達だけで楽しめないですよ」
「中畑さんは嬉しいこと言ってくれるよね〜。でも、今年は無理かなぁ。最近彼女の具合が悪くてね……仕事以外では早く帰ってあげたいんだよ」
 今、彼は何と言った?原の爆弾発言に中畑と淡口の箸が止まった。聞き間違いでなければ、彼女の具合が悪いのでなるべく早く帰りたい、というようなこと だった。つまりは帰宅した先には一緒に住んでいる彼女がいるということだ。
 衝撃のあまり鈍る頭でなんとか正解までたどり着くと、今度はその事実に驚きの声を上げそうになる。社員食堂でそんなことをやらかすほど周りが見えなく なった訳ではなかったのは幸いで、それでも二人とも頑張って口を引き結んで僅かでも声を漏らさないよう頑張っている。
 櫻花は以前、原から直接その話を聞かされていたので、今更そのことで驚きはしなかったが、原の話にひっかかる所がなかった訳ではない。
 それぞれ頭を悩ませている三人を尻目に、余裕の表情どころか楽しそうに昼食を食べ進めていた原だが、三方から寄せられるねっとりとした視線に根負けした のか、とうとう箸を置いてホールドアップした。
「判った判った。仕方ないなあ、質問は一人一つだよ。どうぞ」
「はい!」
「じゃあ中畑さん、どうぞ」
「えっと、彼女さんとは同棲して長いんですか?」
「知りたいことを全部確認できる上に新たな情報を入手できるいい質問だね。就職と同時に一緒に暮らし始めたから、もう八年目?うわー、こうやって口に出し てみると長いねぇ」
 原はそう言うと一人感慨に耽っている。櫻花も確かにそれは長いと思ったが、岡崎への片想いが長かった自分にはどうこう言えないな、と苦笑するしかない。
 最初の質問者である中畑は、その内容を褒められ喜んでいるが、困ったのは淡口だ。どうやらこのプライベートな質問は、その質も問われるものらしい。
 なかなかのハードルの高さに躊躇っていた淡口だが、それでもなんとか聞きたいことを決め、一つの質問で収まるよう頭の中で組み上げた。
「主任、いいですか?」
「どうぞ」
「就職と同時ってことは、今の俺が誰かと同棲するのと同じってことですよね。世帯主ともなると保険とか色々大変だとは思うんですけど、うちの給料でやって いけてたんですか?俺にはちょっと無理だなって……」
「おおー、これまた色々詰め込んできたね。そっか、今の淡口くんと同じ歳にはもう彼女と一緒に暮らしてたのかー。そう考えると、あの時の俺達は勇気があっ たというか、無謀だったというか……。もちろん俺の給料だけじゃ無理だけど、彼女も働いてるし、その辺はうまく折半してやってたよ。お互い新入社員だった から、当時は心の余裕が余りなくてね。あの頃が一番よく喧嘩してたなぁ。でもそれを乗り越えたら何も怖くないから、君たちも恋人がいるなら一緒に暮らして みたら?楽しいよ」
 回答の最後にさらりと惚気を入れてくる所が原らしいが、淡口はそれを聞いて余計に考え込んでしまう。それは金銭的な面より精神的な面で、今の自分には誰 かと同棲するなど無理だと断言できる。やることなすこと初体験で、覚えなければいけないことばかり。仕事を任されても先輩の手を借りなければ何も出来ず、 企画書一枚作るのにも四苦八苦している。
 こんな状況だから、家に帰ればエネルギー補給のために食べ、衛生のために入浴し、体力を回復するために寝る。そんな、暮らしの楽しみなど何一つない日々 を過ごしている所に、恋人という赤の他人という異分子が入り込む余地などないと言える。
 悩みの種の一つだった企画書に関してようやく目処が立ったこともあり、最近になって再び周囲に目を向けることが出来るようになってきたが、それもいつま で続くか判らない。岡崎に頼まれた監視の件も、頭の片隅にはあるものの、実際はそこまで気を配っていられないのが現状だ。
 自分はこんな体たらくだというのに、目の前でニコニコしている主任は、同じぐらいキツかったはずの新入社員の頃から彼女と一緒に暮らし、喧嘩をしながら もその仲を決裂させることなく、去年三十歳という若さで主任に昇進している。ふわふわとした見た目と、軽いノリの言動に騙されがちだが、この人も課長と同 様ただ者ではないのだ、と改めて気付かされた淡口は、食事もままならぬ程落ち込んでしまった。
 一年前の自分を見ているようで居たたまれなくなった中畑が、隣で項垂れている淡口の肩をポンポンと叩きながら慰めている。その様子を確認してから、櫻花 は隣に座っている原にこっそりと耳打ちをした。
「あの、もしかしてなんですけど、今年度中の予定が早まったんじゃないですか?」
「えへへ、そうなんだよ〜。今週末にでも、って話になってるから、今日あたり課長に報告しなきゃだね」
「おめでとうございます。他にも聞きたいことは色々ありますけど、後は主任が発表されるのを待ちますね」
「そうしてくれると有り難いよ。秋前には色々言えると思うんだ」
「楽しみにしてますね」
 若手二人は、櫻花と原がコソコソと内緒話をしていることにも気付いていない様子。
「二人とも、いい加減ご飯食べないと、時間なくなっちゃうよ」
「あっ、はい」
「そうでした、忘れてました」
 半分冷えてしまったご飯を慌てて掻き込む二人に、原が念を押す。
「解っていると思うけど、二人とも、今の話はナイショだよ?じゃないと野球のチケットの話はなかったことにするからね」
「はい」
「もちろんです」
 チケットのあてが出来て満足した二人は、先ほどの話を聞かなかったことにしたようだ。
 そして昼食が終わりお茶を飲みながらまったりとしている時、中畑が「そういえば」と何かを思いだしたようで、興味を引かれた三人は彼女の話に耳を傾け た。
「私、実は主任って篠塚さんのことが好きなんじゃないかって思ってたんですよねー、アハハ!」
 暢気に笑う中畑に、原は「誤解してるの知ってたよ」と言い、櫻花は二度驚いた。中畑がそんな誤解をしていたことも、原がそれを知っていたことも知らな かったのだ。
「そうなんですか!?違うなら教えてくれればよかったのに、主任ヒドイ!でも、じゃあその指輪の贈り主は誰だ、っていう謎は解けないままになるんですけど ね」
「もちろん俺じゃないよ?」
「ついさっきまではそう思ってました、ふふふっ」
 無邪気に笑っている中畑と、意味ありげに応じる原。それを聞いていないフリをする淡口。そんな三人に囲まれた櫻花は、微妙な話題に生きた心地がしなかっ た。
「さあさあ、もうそろそろお昼終わるから、そろそろ戻ろうか」
「はーい」
 気付けばあと五分で昼休憩も終わりという時間になっていた。あれほど混んでいた社員食堂も、今は人がほとんど残っていない。四人は急いで食器を下げる と、足早に企画課のある階へ戻って行く。
 歯磨きをして化粧を直して……と、午後の仕事が始まる前に大慌てをする羽目になったが、それでも中畑はウキウキしていた。
「いい話を聞けたおかげで、午後の活力になりました」
「中畑さんのそのポジティブさを少し分けて貰いたいわよ……」
 二人並んで化粧を直しながら、櫻花は溜息を吐く。中畑がそこまでこの指輪に興味を持っていたとは気付きもしなかったし、他人の恋バナで仕事の活力が生ま れるとはなんと女の子らしいことだろうと、己の中の乙女成分の少なさにげんなりするのだった。
 それでもこんな自分を好いてくれる恋人はいるし、自分の幸せもいつか中畑の活力になる日が来ることだろう。それがいつになるかは判らないし、その日が来 るかどうかも判らないし、何より今はまだその勇気がない。それでも、いつかそうなればいいなという淡い期待はずっと心の中で温められている。
 一年前、初めて野球場へ行った時には考えられなかったことを、今はこうして当たり前のように未来を想い描いていることに、櫻花はこのところようやく慣れ てきた。
 そのことに慢心せず、これからも精進を続けなければ。
 櫻花は改めて気を引き締め、そして頭を切り換えて午後の業務に励むのだった。