夏祭り│01

「そういえば、櫻花んちの神社って夏祭りとかしねえの?」
 事の発端は、原から「今年はこの日のチケットを取りましたよ」という話があった直後の週末のこと。岡崎が、俺は引率の先生じゃねえんだぞ、などと悪態を つきながらも日程表を確認したり、それを見て頭を抱えたりした後、脱力したまま櫻花に膝枕をしてもらっていた時、何気なく発した一言だった。
 岡崎にはこれまであまり実家のことを訊かれたことがなかったため、どうしてそんなことを訊かれたのか不思議に思いつつ「毎年八月にありますよ」と答える と、なぜか今年の夏は二人で櫻花の実家の夏祭りに行くことになった。
 知り合いばかりだから嫌だとか、忙しいから帰ったら手伝わされるだとか、あれこれ理由をつけて拒否しようとしたのだが、櫻花ごときが太刀打ちできるよう な相手ではなかった。簡単に言いくるめられ、いつの間にやら二人での帰省が決まってしまったのだ。
 そして今、二人は岡崎の運転する車で山梨県にある櫻花の実家近くまで来ていた。
「やべえ、緊張する……」
「もう、自分で言い出したんじゃないですか。言い出しっぺなんだからしっかりして下さいよ」
「そうなんだけどよー、緊張するなっつーのが無理な話なわけで」
 駐車場に車を停めてから、もう何分こうしているだろうか。これまで見たことのない岡崎の緊張ぶりに、櫻花はあとちょっとだけこの姿を見ていたい気分に なってくる。だがそうも言っていられない。帰ると告げてある時間までもう猶予はないのだ。
「もうそろそろ時間ですよ」
「……っしゃ!行くか!」
 ようやく覚悟を決めたらしい岡崎が、両太腿をパーンと叩いて気合いを入れる。かなりいい音が車内に響き渡り、あれは後で手形が浮かぶんじゃないだろう か、と櫻花は少し心配になった。
 見慣れた町をてくてくと歩く。隣には、両手にいっぱいの土産物を持った愛する人。櫻花の頬は自然にゆるゆると緩んでいく。年末に帰省した時には想像もつ かなかったことが、今こうして現実となっているのだ。それも致し方のないことだろう。
 すぐに大きな鳥居が見えてきて、ああ、帰ってきたな、という実感が湧いてくる。
「なあ、先に神様に挨拶した方がいいのか?」
「大荷物になっちゃいましたし、後でも怒られないと思いますよ」
「そんなもんか?」
「そんなもんです。とりあえず心の中でご挨拶しておけば大丈夫です」
 二人揃って、社殿に向かってペコリと頭を下げる。それから社務所の横にある玄関へ向かうと、大きく深呼吸をしてからその扉を開けた。
「ただいまー」
 櫻花のその声に、奥の方からドタドタと大きな足音がこちらに向かってやってくる。
「はるかちゃん、おかえりー!」
「おかえりー!」
 櫻花の足にがっしりと抱きついているのは小さな女の子と男の子。見たところ、岡崎の甥っ子姪っ子より少し下といったところだろうか。櫻花の足にしがみつ いて離れようとしない。
「ねーねー、このおじちゃんがはるかちゃんのだんなさまなの?」
「なのー?」
 キラキラした目で見上げられては、初対面の幼子におじちゃんと言われたショックも霧散してしまう。
「そうだよ。俺は威夫。お嬢ちゃんのお名前は?」
「しのづかあおい。こっちはしのづかまふゆ」
「そっか、あおいちゃんとまふゆくんか。よろしくね」
 元々大きな岡崎は、跪いても子供達よりずいぶん視線が上になってしまう。それでも精一杯小さくなろうとしている姿に、櫻花は感銘を覚えた。
「もう、あんた達はあっち行ってなさいって言ったじゃない」
「きゃー!ママがおこった、にげろー!」
「きゃー!」
 きゃあきゃあと歓声を上げながら走って逃げていく子達見て、岡崎は「どこの家も子供が言うことを聞かないのは同じだな」と笑いを漏らす。
 櫻花は、よいしょ、とかけ声をかけて立ち上がろうとする岡崎に手を貸し、引き起こす。
「やだもう櫻花ちゃん、ラブラブ?見せつけてくれるわね」
「ははは……」
「ああ、いえ、俺の膝がちょっとポンコツなので、手伝ってくれただけなんです」
「あらやだ、ごめんなさい。大丈夫なんですか?」
「ええ。昔ちょっとやっちゃいまして、それ以来正座とかしゃがむ動作が苦手になっただけなので。ちゃんと歩けるし走れるし、日常生活にはほとんど支障はあ りませんよ」
「あの、お義姉さん、もう入ってもいいかな」
「やだー、ごめんごめん。どうぞどうぞ。みんな待ってるわよ」
 そこでようやく長々と立ち話をしていたことに気付いた櫻花の兄嫁は、二人にスリッパを用意して、居間に案内する。
「櫻花ちゃんと彼氏さん、来たわよ〜」
 子供達の登場ですっかり解けていた緊張の糸が、その言葉で再び張り詰める。なんといっても、こんな年上を認めて貰えるのだろうか、という不安が拭っても 拭っても消えてくれない。
 そんな岡崎の心境を察したのか、櫻花がそっとその腕に手を添える。それだけで勇気がわいてくるから不思議だ。
「大丈夫」
「本当ですか?」
「任せとけ」
 櫻花は、これほど弱々しい「任せとけ」などこれまで聞いたことがなかった。それほど、交際相手の実家に挨拶に行くというのは精神力を削られるものなのだ ろう。
 と、そこで自分が岡崎の実家に行った時のことを思い出す。あの時は仮初めの恋人だったので、なんとかボロを出して疑われないようにということに必死で、 違う方向に緊張していた。再度訪問することになった時には、きっと今の岡崎以上に緊張すること請け合いだ。
 他人事ではない、と悟った櫻花は、できるだけ岡崎のサポートをして、何があっても味方になろう、と握りこぶしを作って気合いを入れる。
「いきますよ?」
「よしこい」
 ガチャリ、とドアを開けると、広い居間から冷房でひんやりと冷やされた空気が流れ出てきた。
「ただいまー」
「お邪魔します」
 居間には、櫻花の両親と兄一家が待ち受けていて、先ほど二人を出迎えてくれた兄嫁がこっちこっちと手招きをしている。
「えっと、こちら、岡崎威夫さん、です」
「本日はお忙しい中お時間を作っていただきありがとうございます。私は櫻花さんと同じ会社に勤めている岡崎威夫と申します。櫻花さんとは結婚を前提にお付 き合いさせていただいております」
 ピシリと両手を指先まで伸ばし、深々と頭を下げる岡崎はとても美しかった。マナーの見本もかくや、と思われるその姿に、篠塚家の面々は声も出せずにい る。
「はるかちゃんのだんなさま、おこられてるのー?」
「のー?」
 可愛く無邪気な声ではっと我に返った大人達は、あらあら、まあまあ、などと言いながら二人にソファーに座るよう薦める。
「ああ、それから、もしよろしければ受け取っていただけますか」
 そう言うと、岡崎は足下に置いてあった紙袋から一つずつ土産物を取り出していく。それは櫻花の父の好物である芋ようかんだったり、母が以前から食べたい と言っていたチーズケーキだったりと、家族それぞれに用意されていて、皆喜んで受け取っていた。
「こんなにいっぱいお土産いただいて、申し訳ありません。しかも孫達にまで……」
「いえ、お子様用のお菓子はうちの母の手作りで却って申し訳ないです。櫻花さんからはアレルギー等は特にないと聞いていたんですが、大丈夫でしたか?」
「ええ、大丈夫です」
「それと……」
 岡崎はそこで声を落として言う。
「お子さん達が苦手な人参をたっぷり使ってるという話ですので、その辺はどうかご内密に」
「あらあら、それはそれは」
「差し出がましいとは思いましたが、なにぶん母が張り切ってしまいまして……申し訳ありません」
 岡崎の母が作ったのは人参がたっぷり入ったクッキーで、可愛らしい動物の形をしている。小さい子もいるということで、砂糖は極力控えて人参本来の甘さを 引き立てているということだ。
 岡崎は母に聞いた話をそのまま説明し、もし都合が悪ければ捨ててもらっても構わないと一言添えて、可愛らしくラッピングされた箱を取り出した。
「あおいちゃん、まふゆくん、こっちおいで」
「なあにー?」
 とことこと近寄ってきた二人に、岡崎はにっこり笑ってクッキーを手渡した。
「これ、おじさんのお母さんが作ったクッキーなんだ。二人にあげるから食べてみて」
「おじちゃんありがとー!」
「ありがとー!」
 わーいわーい、と言いながらクッキーを持ってはしゃぎ回る子供達を横目に、大人達にも用意してあった同じ物を差し出した。
「味はそんなに悪くないと思います」
 親にもきちんと食べてもらって、それが変な物ではないと確認してもらおうということらしい。そのことを察した櫻花の兄夫婦は遠慮なくそれを受け取り、ひ とつ手に取って見る。
「やっぱりちょっと色がオレンジがかってますね。どれどれ……」
「ん、甘さ控えめでおいしいね。岡崎くんのお母さんは、お菓子作りが得意なの?」
 それじゃあ櫻花と趣味が合うねえ、などと暢気に笑っている兄に、櫻花はあわあわと慌ててその話を止めようとする。
「ちょっとお兄ちゃん!ていうかまだ誰も自己紹介してないでしょ!?」
「ああ、言われてみれば確かに。僕は篠塚千秋、櫻花の兄です。こっちが僕の奥さんの百合子で、長女の葵と長男の眞冬。よろしくね」
「父の宗春です」
「母の千代子です。それにしても岡崎さん、どうしてまたうちの子と?この子、ちょっと変わってると思いませんでした?」
「お母さん!」
 判ってはいたことだが、母親に改めてそんなことを言われて櫻花は頬を膨らませる。確かに岡崎は自分の少し変な所も知っていて、それでも尚喜んで付き合っ てくれている。だが、なにもこんな時に言わなくてもいいじゃないか、と思うのだ。
 櫻花がむくれていると、岡崎が黙って優しく頭を撫でた。言わなくても解っているから、という気持ちが大きな手から伝わってきて、それだけでささくれ立っ ていた心が凪いでいく。
 そんなやり取りを見ていた兄が一言「仲がいいね」と言うと、櫻花は真っ赤になって俯き、岡崎は「ええ、そうなんです」と満面の笑みで答える。その様子で 二人の関係性が垣間見えたのか、櫻花の両親達はやれやれといった表情で目を逸らした。
「ところで岡崎くんは昔何かスポーツをやっていたの?随分体格がいいみたいだけど」
「ええ、野球を少々」
「もしかして、さっき言ってたのもそれが原因なのかしら?」
「お察しの通りです」
「さっき言ってたのも?何かあったの?」
「ええ、玄関でちょっと」
「大したことじゃないんです。プレー中の怪我で膝を悪くした、っていうだけで、今は普通に生活できてます。毎朝ランニングもしてますし」
「うわあ、毎朝走るだなんて僕には無理だ。凄いねえ」
 運動が苦手な兄・千秋は感心しきりである。そして毎朝の日課を手放しで褒められた岡崎は、なんともいえない気分だった。岡崎にとって、ランニングは普通 の人が朝起きて顔を洗うのと同じような、日常生活を送るに際し当たり前にこなす行動として組み込まれたものだからだ。
 そんな理由で若干の居心地の悪さを感じながらも、岡崎は自分の存在が概ね歓迎されていることに安堵した。結婚を前提ということを言ったからなのか、それ とも元々篠塚家が寛容だからなのか、その辺の判断はまだつかない。それでも拒絶されるよりはいいし、上手くすれば望む通りに話が進められるかもしれない。
 そこからしばらく続いた質問に答えながら、いつ話を持ち出すか、岡崎は慎重にそのタイミングを見計らうのだった。



「じゃあ明日はうちのお祭り見ていくの?」
「はい。ご挨拶がついでという形になってしまって申し訳ありません」
「いやいや、いいんだよ。こうしてわざわざ来てくれたんだ。構わないよ。それより、今日はどこか宿を取っているのかな?」
「はい。櫻花さんが一度行ってみたかったという温泉宿に」
「やだ、櫻花ちゃん、あそこ泊まるの!?羨ましいわ〜、よく取れたわね」
「キャンセルが出たとかなんとか……私が手配した訳じゃないのでよく判らないんですけど」
「じゃあうちに泊まったらどうなんて言えないわねえ、残念。それじゃお酒もダメね」
「すみません」
「いいのよ。また来てくれるんでしょう?その時にはぜひ泊まっていってね?」
「ありがとうございます」
 昼食を囲みながらわいわいと話をしている。櫻花の小さな姪と甥は、泣きわめいたりすることなく、機嫌よく子供用のごはんを食べている。とはいえ小さい子 供のこと、特に眞冬などは手にしたスプーンをぶんぶんと振り回しながら一生懸命話に入ろうとしてあれこれ話しかけては父親である千秋に叱られている。それ をものともしないで頑張って喋っている姿が、きっと櫻花が子供の頃もこうだったのだろうな、と思わせてくれて、岡崎はたまらない気持ちになった。
 最初はタイミングを見計らって、とか、言葉運びに気をつけて、などと考えていたはずが、眞冬の食事風景を見たせいで全て吹き飛んでしまった。そして、つ い、ぽろりと言葉を発してしまう。
「実は、櫻花さんと一緒に暮らしたいと思っています」
 岡崎のその言葉に、和気藹々としていた食卓は水を打ったように静まり返った。