残暑の候│01
転居先の決まっている、しかもそこには既に誰かが住んでいる場合の引っ越しというのは、持って行く荷物の取捨選択に
一番多くの時間が取られる。櫻花も今まで使っていた電化製品や家具などのほとんどを廃棄し、必要最低限なものだけを持って引っ越した。
そんな状態だから片付けにもほとんど時間がかからず、余った時間で隣人に挨拶をすることになった。
岡崎に連れられて一フロアにもう一軒しかない隣家を訪れる。チャイムを鳴らしそのまま待つのかと思いきや、勝手に門扉を開けてズカズカと入っていく。玄
関扉の前で待っているとほどなくして住人が顔をだした。
「お前が訪ねてくるなんて珍しいな。どうした」
「ちょっと話があってな。いいか?」
「おう。夏紀ー、威夫が来たぞー」
岡崎の後ろに隠れるように立っていた櫻花には気付かなかったらしいその住人は、玄関扉を開けたままさっさと中に入ってしまった。
「邪魔するぞー」
「お、お邪魔します……」
岡崎が勝手知ったるといった感じでずんずんと中に入っていくので、櫻花もおずおずとそれに続く。岡崎の部屋とは間取りが違うようで、いけないと思いつつ
もついキョロキョロと周囲を伺ってしまう。
「あ、タケちゃんいらっしゃーい」
「ねえ、そのお姉さん、タケちゃんの彼女?」
「ちょっと!威夫だけじゃなくてお客さんも一緒じゃないの!」
「おい、俺は客じゃねえのかよ」
リビングに入ると小学生ぐらいの兄妹が先ほど玄関で出迎えてくれたお父さんにじゃれついていた。
「ていうかお前、なんで家にいるんだよ」
「あー、それ聞く?」
「聞く」
「ギックリ腰」
「はあ!?」
「朝からずっとトレーナーさんに治療してもらってた」
「お前さっき普通に歩いてたじゃん」
「だいぶ楽になったからな。すげえよなー。って、その子!こないだ下で見た子だ!紹介しろ!」
その言葉で櫻花はようやく、子供達が群がっているお父さんが花見の朝に遭遇した人物だと気がついた。会話の内容から、どうやら普段この時間は家にいない
はずの人のようだ。
「すみません、ずうずうしく上がり込んでしまいまして。篠塚櫻花と申します。えー、その、なんと申しますか……」
「今日からうちに住むからよろしくな」
櫻花が言い淀んでいたことを、岡崎がすっぱりと言い切った。それを聞いた隣家の夫婦は大騒ぎだ。
「ちょっとそれどういうこと!?もっと詳しく聞かせなさいよ」
「威夫、そこに座れ。それから、とりあえずは子供達に聞かせても大丈夫な話から始めろ」
「はい、まずはお茶飲んで。あ、篠塚さんだっけ?あなたにも色々と聞きたいことあるから、悪いけど付き合ってくれる?」
岡崎と櫻花は両脇を子供達にがっちりガードされ、逃げ場を失ってしまった。L字型の大きなソファーの角で肩を寄せ合うように座り、ラグの上に直座りして
いる夫婦からの質問に答えるために居住まいを正した。
「まずは自己紹介からね。私は松本夏紀、こっちは旦那の徹。長男の翼と長女の陽菜よ。私と徹は威夫と高校が同じでね」
「あ、じゃああの『リフージョ』のシェフの方ともお知り合いですか?」
「やだ、もうあそこに連れて行ってるの!?本気なのね」
「じゃなきゃ同棲なんかするかよ」
「タケちゃん、このお姉さんとどーせーするの?」
「それって一緒に住むってことでしょー?結婚するの?」
「おい、俺らが聞きたいことをズバッと聞くなよな……」
「おう。よろしくな」
「お前もさらっと答えるなよ」
どうやらあれこれネチネチと攻めるように質問するつもりだったのに、子供達が無邪気に核心を突いたせいでやる気を削がれてしまったらしい。
「まあいいや。お前達、パパのアルバム持ってきてくれるか?高校のやつ。判るだろ?」
「うん!」
「ちょっと待ってて!」
子供達がパタパタとリビングを出ていった。
「詳しい話は後でゆっくり聞くけど、さっき言ってたのは本当なんだな?」
「ああ」
「俺らも呼べよ?」
「いやー、それはちょっと難しいんじゃねえかな」
「なんでだよ」
「式は山梨でやるつもりだから」
「えっ!?それってまさか……」
またしても聞いていない話が出てきて、櫻花は慌てふためいた。だが岡崎にしてみれば当然のことで、櫻花の実家が神社なのにそこで式を挙げないという選択
肢などなかった。
「そう」
「いやいや、それはちょっとなんというか」
「ああ、式はお兄さんに取り仕切ってもらうつもりだから。申し訳ないなーとは思うんだけど」
「そういうことじゃなくてですね……」
「ちょっとちょっと、私達にも解るように説明しなさいよ」
二人の会話についていけず、松本の妻・夏紀が割り込んで説明を求めた。
「私の実家が、山梨の神社なんです」
「ああ、なるほどね」
「でもよ、ほら、季節によっては参列するチャンスも……」
「いや、式は身内だけにするつもりだから。その代わり披露宴は都内でやるから、お前らはそっちに来てくれりゃあいいよ」
「……本気ですか?」
「本気も本気だけど」
「私も昔はそういう夢を見ていた頃もありましたけど、本当にいいんですか?」
「いいに決まってるっつーか、それ以外考えらんねえんだけど。ってまあ、まだプロポーズもしてねえのに先走って悪ぃな」
「はあ!?何それ信じらんない!」
「お前馬鹿なんじゃねえの!?」
二人の会話を黙って聞いていた松本夫婦が岡崎に噛みついたところで、子供達がアルバムを抱えて戻ってきた。岡崎にとっては正に救いの神といったところだ
ろう。
後で覚えてろよ、といった顔の友人達を尻目に、岡崎は子供達が持って来たアルバムを開いて櫻花に手渡した。
「俺らがどこにいるか探してみて」
「はい!」
櫻花がウキウキしながらページを捲ると、子供達が寄ってきて色々と解説をしてくれるので、難なく高校時代の岡崎と松本夫婦を発見することになった。
「松本さんも野球部だったんですねー」
「……そうだね」
「ねえ威夫、あんた何も言ってないの?」
「言ってない」
ボソボソと会話している大人三人に気など遣わない子供二人は、不思議そうな顔をして櫻花に質問をした。
「お姉さん、野球あんまり興味ないの?」
「もしかしてパパのこと知らないの?」
「ちゃんと自己紹介したのは今日が初めてだから、あんまりよく知らないかな」
「えー!すごーい!パパのこと知らない人が本当にいたー!」
「パパもっとがんばらないとじゃん」
「えっ、どうしたの?」
「パパねー、プロ野球選手なんだよー」
「でもねー、今日はぎっくりごしとかいうのになってお休みなのー」
「ええっ!?」
櫻花は驚いて岡崎と松本に目をやった。二人はイタズラがバレた子供のような顔をして、肩をすくめている。子供達がそんな嘘をつく必要もないことや、二人
の反応を見ればそれは事実だということが判る。
改めてリビングを見回せば、プレー中の写真や何かの賞で獲得したらしきトロフィーなどが飾られている。そんな目立つものがずらりと並んでいるのに、どう
して気がつかなかったのか、櫻花は頭を抱えたくなった。
「ごめんなさい。私、本当に何も知らなくて……」
「いやいや、いいんだよ。説明してないこのバカが悪いんだから」
「そうよ?まさか自分の過去は一切話してないとかじゃないわよね?大丈夫?」
「その辺は色々と聞いていますし、ちゃんと自分なりに納得しています……って、そういう意味じゃないですよね!?ごめんなさい!私余計なことを……!」
「そんなこと言うってことは、過去の悪行まで話しちゃってるわけか。本当の本当に本気なのねー」
「ようやく威夫が本気になれる子が見つかったのか……めでたいなあ。そうだ、今夜一緒にお祝いするか!?」
「バカ言ってんじゃねえよ!しねえよそんなこと!」
岡崎が大学で野球を辞めた理由を知っているのか、という意味で訊かれたことに、過去の女性問題は自分で少しずつ消化して今では何とも思っていない、と答
えてしまった櫻花は、恥ずかしさのあまり両手で顔を覆ってソファーから床に崩れ落ちた。
話の流れで判りそうなものを、どうしてそんな勘違いをしてしまったのだろう。
自問自答しても答えなど出るはずもなく、その上、子供達に「だいじょうぶ?」と心配される始末である。
「私もう、本当に、恥ずかしくて穴があったら入りたい気分です……」
「気にすんな。紛らわしいこと訊いた夏紀が悪ぃんだから」
「……やだ、威夫があんな顔してるの初めて見た」
「うーわ、デレデレしてやがる」
高校時代からの仲だというのに、一人の女性に骨抜きにされている岡崎を見るのが初めてだった松本夫婦は、珍しい物をみる目で二人を見ていた。
「あの、失礼を承知で伺いますが、松本さんはどこのチームの方なんですか?」
なんとか立ち直った櫻花は、ふと浮かんだ疑問を松本にぶつけてみた。
「俺?シャインズだよ」
「シャインズ……あっ、眞冬が好きなチーム!威夫さん、だから!?」
「そ」
「えっと、どういうことだ?威夫、説明」
「俺がえらく懐かれた櫻花の甥っ子がシャインズのファンなんだよ。で、お前にチケット手配を頼む、っていう話」
日程は決まってないから無理そうなら実家の会社の年席使うわ、でも招待枠の方が色々アレしてあげられるし早めに言ってくれればなんとかなるだろ、残り日
程少ないし来年の方がいいかもな、それは確かに……等、どんどんと話を詰めている男性陣と会話の内容に全くついていけない櫻花がおろおろしているのを見か
ねて、夏紀が手招きをする。
「もうその二人は放っておいて、こっちでお話しましょ。ほら、アルバムも途中でしょ?」
「はい、ありがとうございます」
櫻花は、夏紀と子供達と四人でアルバムを見て、話してくれる昔のことを興味津々で聞いていた。体育祭ではヒーローだったとか、そのお陰で体育祭の後はモ
テモテだったとか、朝練がキツくて授業中によく居眠りをしていたとか、どれも初めて聞く話ばかりで、時間を忘れて聞き入っていた。
「悪ぃな、降って湧いた休みの日なのに入り浸って」
「いや、いいよ。それより櫻花ちゃん、こいつのことよろしく頼むよ」
「はい」
「じゃあな、しっかり治せよ。これから大事な時期なんだから」
「わかってるって。ここで活躍しとかないと首が寒くなるからな」
二人が松本宅を辞したのは、昼食をご馳走になった後、野球中継が始まろうかという頃だった。松本が所属しているチームの主催試合で、本拠地でのデーゲー
ムがCS放送で開始される五分前に部屋に戻ったのだ。
頼めばきっと櫻花に色々解説してくれたのだろうが、ペナントレースも終盤にさしかかろうかというこの時期に、一日とはいえベンチ入りから外れる悔しさや
情けなさ、その他言葉にはしないが心に嵐が吹き荒れているであろう親友に、そんなことはとうて言えない岡崎だった。それに、そんな親友を慰めるのは自分の
役目ではないとも思っていた。だから、尋問されながら昼食は共にしたものの、早々に逃げ帰ったのだ。
思わぬ形で親友と対面してしまった岡崎の複雑な心中をよそに、櫻花は新居となった岡崎の部屋に戻ってからも未だ興奮冷めやらぬ様子である。
「威夫さんの高校生の頃のお話を沢山聞けて、凄く楽しかったです!」
「そんなに面白い話なんてねえはずだけどなぁ」
「今の、会社での課長のお姿を拝見していると、ちょっと想像もつかないお話ばかりでしたよ」
「えぇ……どうせろくでもないことばっか言ってたんだろ」
「そんなことないですよ。貴重なお話ばかりでした」
ふふふ、と楽しそうに思い出し笑いをする櫻花を見て、岡崎はとりあえず顔合わせが成功したことをに胸をなで下ろした。
今日から本格的に同居生活が始まり、今後に向けて少しずつ話し合いをしていくことになる。そう考えると人生の大きな転換点なのだが、櫻花はまだそのこと
に気付いてはいなかった。