残暑の候│02

 櫻花が引っ越しをして一週間、そろそろ新居にも新しい通勤経路にも馴染んできた。岡崎が毎朝ランニングをしたり早く 出勤したりしているので、起きる時間は今までとあまり変わらないのだが、徒歩で通勤できる距離ということで朝の時間に余裕ができた。
 そこで始めることにしたのが、弁当の持参である。これまでは社員食堂や外食で済ませることが多かったのだが、朝食を作るついでに弁当のおかずも詰めてし まおう、と思いついたのだ。
 おかずは前の夕食の時に少し取り置きしたもので、それを弁当箱に詰めるだけなのだから、手間というのはご飯の粗熱を取ることぐらいなものなのだ。
 岡崎がランニングをしている間に朝食を作り、タイマーで炊いておいたご飯とついでに作った卵焼き、取り置いてあったおかずを弁当箱に詰める。ご飯の粗熱 が取れたら蓋をして完了だ。
「なあ、俺の分の弁当も作ってくんない?」
「でもおかずが同じだとバレちゃいますし」
「俺はバレてもいいのに」
「私が困ります!」
「ちぇーっ」
 多少の押し問答はあったものの、岡崎には渋々ながらも納得してもらった。今後もう少し新しい生活リズムに慣れたら、その時は岡崎の分の弁当を作るつもり ではいる。ただ、今はそれを内緒にしておきたいと思っていた。このところあれこれと驚かされてばかりいたので、たまには反撃したいと櫻花が思うのも無理か らぬことだろう。
 今朝も早くに出勤していく岡崎を玄関で見送り、それから一息ついてのんびりした後、いつもの時間に着くよう家を出る。これまでとは全く違う経路を辿って 通勤するため、見る物全てが新鮮に映ってなかなか歩が進まないのが困りものだ。
 そうしててくてく歩いて会社に到着し、いつものように岡崎にお茶を出してひとしきり和んだら、自席に戻り今日の仕事の準備を始める。
 可も無く不可も無く午前中の仕事を終えると、さていよいよ昼食の時間となった。初めて持参した弁当を取り出すのは妙に緊張して、櫻花の動きは不自然なほ どガチガチだった。当然ながらそれを見逃すほど周囲は甘くなく、すすす……と近寄ってきた中畑にガッシリと腕を捕まれてしまう。
「しーのづーかさん。一緒にご飯いーきましょ」
「あ、えっ!?」
「それお弁当ですよね?色々聞きたいことあるんで、ほら、行きますよ〜」
「中畑さん、ちょ、ちょっと待って〜!」
 ズルズルと半ば引きずられるように社員食堂へ連行されていく櫻花を、淡口が慌てて追いかける。その様子をチラリと視界の端に捉えたまま、岡崎はきりの良 い所まで済ませてしまおうとパソコンに向かっていた。確かにこれでは弁当作ってくれなんて言えねえよなあ、と少々落ち込みながら叩くキーボードからは若干 もの悲しげな音がしていたが、それは岡崎の背中から漂う哀愁がそう聞こえさせているのだろう。
 一方、後輩達に両脇をガッチリ固められて社員食堂へやってきた櫻花は、二人が交代で昼食を買いに行き逃げられないよう見張られていた。
 そして三人揃った所でいざ昼食なのだが、あまりにも視線を感じるため弁当箱の蓋を開けるのが躊躇われる。だからといってこのまま昼食抜きというわけにも いかず、櫻花は意を決して蓋を開けた。
「おお〜!」
「美味しそう!」
 中身に興味津々ながらも、自分達の買ってきた定食を食べる手を止めることはしないあたり、中畑も淡口もなかなかちゃっかりしている。
 櫻花は二人の視線を浴びながら、もそもそと弁当のおかずを口にする。昨夜食べた時には美味しく感じられたはずなのに、今は一切味がしない。今はただ見ら れているだけだが、食後にどんな尋問が待ち受けているのかと考えると、それだけで味がどんどん消えてゆくのだ。
 中畑と淡口は急いで自分の食事を片付けると、櫻花に向き直って質問の体勢となる。
「篠塚さんはそのまま食べてて下さいね。でも、質問には答えてくれると嬉しいです」
「よろしくお願いします」
 律儀に頭を下げてこられては、櫻花もあまり嫌な顔もできず「お手柔らかにお願いします」と答えてしまった。
 まずはジャブとばかりに、弁当に詰められたおかずはどうやって作ったのか、という質問が飛ぶ。それは櫻花も想定内だったらしく、さも当然といった顔でそ れに答えた。
「昨夜のおかずをそのまま詰めただけだよ」
「ああ、そういう手があるんですね!それなら俺にもお弁当作れそうです」
「そうそう。だからそんな大騒ぎするほどのものじゃないのよ?」
「もう、淡口くんはすぐそうやって丸め込まれるんだから……」
 中畑は、あまりに簡単に納得してしまった淡口を半目でじとりと睨みながら、今度は自分の番だとばかりに顔の横に小さく挙手して発言の許可を求めた。
「どうぞ」
「では私からも質問です。これまでは社食か外食だったのに、ここにきて急にお弁当を持って来ることにした理由は何ですか?」
「特に理由なんて……」
「ないはずないですよね?例えば節約したいとか、ダイエットだとか、そのお弁当箱の使い勝手を試すためだとか。理由がないってことは、言える理由がないっ てことですよね?」
 なかなか鋭い中畑に、一年半ほどでずいぶんと成長したなあと思わず感慨にふける櫻花だが、彼女の言うことはもっともで、理由などないというのは通らない だろう。
 なんと答えたものかと頭を悩ませている櫻花に、中畑が更に質問を重ねる。
「それに、おかず全部が昨夜の残り物ってわけじゃないですよね?例えば、この実に美味しそうな卵焼き……これは朝作ったんじゃないですか?」
 中畑の言葉に、淡口の視線が卵焼きに吸い寄せられる。その視線に耐えかねて、櫻花は卵焼きを一切れ弁当の蓋に取り分けた。
「仲良く分けてね。あと美味しくなくても文句は受け付けません」
「やった!」
「ありがとうございます!」
 卵一つで作った小さな卵焼きは、食べる前からその半分を奪われてしまった。今日の卵焼きは、中にねぎがたっぷり入ったものである。その時々によって具材 がねぎだったりにらだったり枝豆だったりと変化するのだが、味付けは一貫して砂糖たっぷりの甘いもの。
 以前、花見と称したピクニックで披露した際には概ね評判は良かった。ただ、日本人の全員が甘い卵焼きを受け入れられるかといえば、そうではない。だし巻 きしかダメな人もいれば、少ししょっぱい卵焼きこそ至高だと考える人もいる。
 それは子供の頃からそういった味のものを食べて育ってきたが故の、その人を形作る大事な根幹部分なのだから仕方がない。おふくろの味でもおやじの味で も、おばあちゃんの味でもはたまた近所のスーパーの惣菜の味でも、それは変わらないだろう。
 中畑と淡口は果たしてこの甘い卵焼きを受け入れられるのか否か。櫻花は裁判での判決を待つ被告のような気分だった。
「あ、甘い」
「これが噂の甘い卵焼きか……俺、初めて食べましたよ」
「どう?大丈夫?」
「えー、正直小さくて味がよく判らなかったので、明日もっといっぱい食べさせてください。もちろん材料費はお支払いします」
「あ、じゃあ俺も。もっとじっくり味わってみたいです」
「いや、別にお金はいらないけど……本気?」
「本気も本気です!」
「俺もです!」
「解った、作ってくるからもうやめて!」
 二人が揃って挙手をして本気度をアピールしはじめたので、櫻花は慌ててそれを制止した。いくら社員食堂が喧騒に包まれているとはいえ、これはあまりに目 立ちすぎるというもの。注目を浴びるのは本意ではないため、要求を呑まざるをえなかったのだ。
 中畑と淡口が、うまくいったとばかりに視線を交わし頷いたのを見て、櫻花は嘆息とともに浮かんだ疑問を口にした。
「もう、これだけのことにどんな打ち合わせをしたのよ?」
「打ち合わせなんてしてませんよ。ねえ?」
「はい。中畑さんに合わせただけで」
 その言葉を聞いた櫻花は、ここまで連行されてきた時の連携ぶりを思い出して、今後この二人にコンビを組ませて仕事をさせるのも面白いかもしれないな、と 思いながらささみの梅しそ巻きを口に放り込んだ。
「聞きたいことはいっぱいあるんですけど、明日卵焼きを食べさせてくれるということなので、今日のところはここまでにしておきます」
「俺もうすっかり卵焼きに気を取られてましたよ。明日までに聞きたいことをまとめておきますね」
「そんなことしなくていいから……」
 弁当を食べ終える頃には、精神的に疲れ果ててぐったりしていた櫻花だった。



 帰宅後、夕食の準備をしながら明日のために大量の卵焼きを作っている所へ岡崎が遅れて帰宅してきた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「昼になんか大変なことになってたけど、大丈夫だったか?」
「あんまり大丈夫じゃなかった結果がこれです」
「どうしたんだ、これ?」
「食べたそうにしてたから分けてあげたんですけど『小さくて味がよく判らなかったのでもっと食べたい』というようなことを言われまして……」
「あいつら!俺だって食いてえのに!」
「本格的な追及は明日以降に待っていそうです」
「そ、そうか……頑張れ?」
「なんで疑問系なんですか!もう!」
「まあまあ。あれ見てて俺の分も弁当作れなんて言えねえってよーく解ったから」
 すっげー我慢してっけどな、と言いながら櫻花を抱きしめる岡崎は、幸せそうにくすりと笑っている。
「威夫さんは、今晩焼きたての温かい卵焼きを食べてくださいね」
「おう。あいつらは冷えたの食って満足しとけばいいんだよ。あー、でも冷えたのも美味いんだよなぁ」
 岡崎は、悩ましげな声をあげながら、櫻花を抱きしめた腕に力を込める。その腕の中で、櫻花もまた幸せを噛み締めて笑いをこぼすのだった。